福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

金山穆韶師の「仏教における個体の観念」・・・11

2017-05-22 | 霊魂論
道綽禅師の安楽集に曰く

・ 「(第八問答 実生願生(迷いの人生と浄土を願う人生))
また問ていはく、 上にいふところのごとく、 生は無生なりと知るは、 まさに上品生のものなるべし。 もししからば下品生の人の十念に乗じて往生するは、 あに実の生を取にあらずや。 もし実の生ならば、 すなはち二疑に堕す。 一にはおそらくは往生を得ず。 二にはいはく、 この相善、 無生のために因となることあたはず。


答曰。釈有三番。(答ていはく、 釈するに三番あり。)


  ( 浄摩尼珠の譬)一にはたとへば浄摩尼珠、 これを濁水に置おけば、 珠の威力をもつて水すなはち澄清なるがごとし。 もし人、無量生死の罪濁ありといへども、 もし阿弥陀如来の至極無生清浄の宝珠の名号を聞てこれを濁心に投ずれば、 念々のうちに罪滅心浄して即便往生す。

  (玄黄帛の譬)二には浄摩尼珠を玄黄の帛をもつて裹てこれを水に投ずれば、 水すなはち玄黄にしてもつぱら物の色のごとくなるがごとし。 かの清浄仏土に、 阿弥陀如来の無上宝珠の名号まします。 無量の功徳成就の帛をもつて裹てこれを往生するところのものの心水のうちに投ずるに、 あに生を転じて無生の智となすことあたはざらんや。

  ( 氷上燃火)三にはまた氷の上に火を燃に、 火猛ければすなはち氷液く、 氷液くればすなはち火滅するがごとし。 かの下品往生の人は法性無生を知しらずといへども、 ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなし、 かの土に生ぜんと願じて、 すでに無生の界に至る時,見生の火自然に滅す。」

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 金山穆韶師の「仏教における... | トップ | 加持祈祷の原理 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

霊魂論」カテゴリの最新記事