福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

四国八十八所の霊験その77

2014-07-16 | 四国八十八所の霊験
53番は円明寺です。縁起によると天平勝宝元年、聖武天皇の勅願により、行基菩薩が本尊の阿弥陀如来像と脇侍の観世音菩薩像、勢至菩薩像を彫り、七堂伽藍を建立したのがはじまりとされています。当時は、和気浜の西山という海岸(今の堀江湾でしょうか)にあり「海岸山・圓明密寺」と称したといいます。
のち、大師が諸堂を整備し、霊場の札所として再興されましたが、鎌倉時代に度重なる兵火で衰微、元和年間(1615〜24)に土地の豪族・須賀重久によって現在地、松山市和気町1-182に移されたそうです。さらに、寛永13年(1636)京都・御室の覚深法親王(後陽成天皇第1皇子仁和寺第21世門跡)からの令旨により仁和寺の直末として再建され、寺号もそのとき現在のように須賀山 正智院 円明寺に改められています。澄禅「四国遍路日記」には「・・寺主は関東辺にて新義を学したる僧なり」とあります。江戸初期は新義の僧が珍しかったのかもしれません。 圓明寺はまた、聖母マリア像を浮き彫りにしたキリシタン灯籠があることでも知られるとされますが私はまだみていません。ここは、アメリカの人類学者フレデリック・スタール博士が大正十三年に八十八ヵ所を巡拝の折、円明寺本尊厨子に打ちつけてあった鋼板の納札の歴史的価値を高く評価したといわれています。この納札は慶安三年(一六五〇)京都の家次と云う人が巡拝中打ちつけたものだそうです。
次の54番延命寺までは34キロくらいです。途中お会いしたいと思っていた手塚妙絹尼の鎌大師堂があるのですがついにいけないまま手塚妙見尼はなくなってしまいました。時期を逃すということは取り返しのつかない損失をすることになります。
 歩くときは大体途中のビジネスホテル来島というところに泊まります。学生時代の友人の名前と同じだったので印象にのこっているのです。
翌日は距離が近いので数寺一挙に廻れます。54番延命寺55番南光坊56番泰山寺57番栄福寺を1挙に回ります。此の日は本堂と大師堂にそれぞれ座してお経を上げますから一日に計十回つ゛つ、理趣教と般若心経をあげたことになります。

54番延命寺は、養老四年に聖武天皇の勅願により、行基菩薩が不動明王像を本尊として近見山上に開創、弘仁年間(810〜24)に大師が嵯峨天皇の勅命をうけ再興、「不動院・圓明寺」と名づけられたということです。その後、再三火災に遭い堂宇を焼失していましたが、享保12年(1727)に現在地の近見山麓へ移転しました。この間、文永5年(1268)には華厳宗の学僧・凝然がここで、八宗要綱を著しています。寺にはまた、四国で2番目に古い真念の道標が残されています。この「圓明寺」の寺名は、五十三番・圓明寺(松山市)と同じで混乱するので明治になり俗称としてきた「延命寺」に改めています。2回目の18年12月31日には朝早くおまいりしましたことを覚えています。本堂の縁側には扉を細くあけた前に遍路が座ってお参りできるよう畳が1畳おいてありました。ここに座り寒さにふるえつつ懐中電灯で経本を照らしつつ1時間お経をあげたことを覚えています。

54番延明寺から約4kmで55番南光坊です。ここ55番南光坊のご詠歌「このところ三島の夢のさめぬれば別宮とても同じ垂迹(すいじゃく)」は「ここ南光坊に参詣して夢がさめると三島明神(大山祇神社のこと)も仏が衆生済度のために垂迹されたものと分かった」という意味でしょうか。 55番南光坊すぐ手前には大山祇神社があります。文武天皇(在位697~707)の勅願を受けて伊予の大守越智玉澄(おちたまずみ)が、今治沖の大三島に大山祇(おおやまずみ)神社を建立、24の別当寺を建立しましたがその中の一つが南光坊です。


神本仏迹説とか本地垂迹説とかがありますが神仏は一体とするのが古来から日本人の信仰でした。そもそも日本に仏法が伝来したのは日本の神々の招請によるものと考えられます。神も仏も一体で拝むのが本来の拝み方だったのです。『日本人の歴史』(滝川政次郎)はこう書いています。「・・廃仏毀釈は明治政府の犯した最大の罪悪であって日本社会における人心の頽廃、道義心の欠如はここに淵源を発している。仏教と絶縁した神道は原始信仰に戻らざるを得ないが、ドクトリンを持たない原始信仰は民俗学の対象とはなっても文明人の信仰とはなりえない。故に神仏の分離即ち信仰の喪失となって日本人はその人格の骨格を失い、道義心の基盤をなくしてしまった。明治政府をして神仏分離を行わしめた者は、平田神道派の人々である。平田篤胤は儒佛道は勿論、基督教まで研究した精力的な学者であるが、愛憎の強い、駆け引きの上手な大山師であって、変説・剽窃を平気で行った。かれは白川家の勢力を藉って自己の勢力を神官の仲間に扶植するためにその学説を変え、自己の博識を衒うために伴信友の研究を剽窃した。さうして彼の剽窃に抗議した信友を人間の皮を被った畜生とののしっている。彼の養子鐵胤は彼に輪をかけたやうな狂信者で、地球は回転しても神国日本は不動であると頑張った。維新の際に暗躍した尊攘志士の中には、平田神道を奉ずるものが多かったので、維新以後かれらの鼻息は頗る荒く、政府部内においても強い発言権を持つた。慶応四年三月、佛教を極端に排斥するこれら狂信者は政府に迫って神仏分離の令を発せしめ、僧侶の神事にあずかるものは悉く還俗せしめ、権現社・神宮寺は社寺いずれかに分かち、社殿の鰐口・独鈷・梵鐘・仏殿の神像はいずれも撤去せしめ、日蓮宗の寺院においては三十番神をまつることを禁止した。・・奈良の興福寺においては大乗院・一乗院の僧侶は神仏分離令の発令と共に復飾して春日社に奉仕せしめられたたため興福寺は一時無住となり、什宝は四散し、五重塔は二百五十円の低価で売却せられた。祖父の語ったところによると同寺の什宝であった奈良時代の紺地金泥の写経を買い受けた人は金粉を得る為に今日ならば一寸万金に値する経巻を大釜の中に投げ込んでグラグラ煮たといふ。・・この暴挙によって滅んだ日本の古美術は今次の戦災によって滅んだ古美術よりも遥かに多かったのである。しかし古美術よりも惜しまるるべきものは、道昭・行基以来、幾多の高僧名知識の努力によって築き上げられてきた習合仏教の信仰が滅んだことである。・・徳川時代の空気を吸った人と現在の人との違ふ点は、勿体ないとか、冥加につきるとか、殺生だとかといふ言葉の意味が体得できているかどうかといふことである。・・かふいう言葉の意味がよくわかっている兵隊なら外地で戦っても残虐行為で軍事裁判にかけられることはまずあるまいと思われる。しかしいくら力んでみても一度失われた信仰は再びかえってこな
い。・・・」と。
私は毎朝修法の時はいつも祓詞を神様にとなえることにしています。
 
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