福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

還暦求聞持成満の記 その27

2009-11-08 | 還暦求聞持成満の記
「・・・自分はかかる修行に依ってかかる霊感を得たというようなことを語るを欲せざるものであるが、入信の道標に、求聞持法や八千枚修行中の霊感を聞かんことを請われる人もあり、ここにその一端を記することとした。
虚空蔵菩薩の求聞持法を修したいと発意したのは今より二十年以上も前の事であった。・・丁度大正十三年八月十五日午前三時三十一分に月蝕があり、また同八月三十日午後六時十分に日蝕のあることを知りこの年こそ宿願を果たしたいものと思いその春より前行を修し種々準備した。そうして阿波の太龍寺において修したいと思い当時金剛峰寺座主であられた泉大僧正は阿波のご出身でまた平素知遇を辱うしていたから、同大僧正より太龍寺の松本老僧正の方へ依頼状を出してもらった。
 ところが太龍寺より同国万願寺上野師を介し、同山で求聞持を修したいと願い出ている人が他にあるので一応その方との交渉を遂げた上でなければ確答ができぬとの返信をうけた。が、その後久しく回答がないので、親しく太龍寺へ願い出てお願いし、その上求聞持堂等をも拝見しようとおもうて、同年六月十五日早天に高野山を下り、夕方阿波今津村万願寺に着いた。同寺は最初にいったのは同寺主の知人の方で太龍寺にて求聞持を修せられるのは何月ごろのよていであるか、また小納の修行がそのかたの迷惑になるようなことになりはすまいか、一応其等の実情を聞いたうえで太龍寺へ詣でようとおもうたからであった。ところが同寺主上野龍珪師は、知人からの依頼もあるし、春以来一度太龍寺へ詣でねばならないといいつつ延ばして居られたが、丁度今日太龍寺へ参られた、とて留守であったが間もなく帰来せられた。またその日、太龍寺の執事である島村泰雅師が万願寺の近所にこられ小納の事を聞き翌朝万願寺の方へ来訪され小納の太龍寺にて求聞持を修する事を決定してくださった。・・・かくしてその夏太龍寺で求聞持を修することが決まったから同日太龍寺へ参詣し、本尊を拝し求聞持堂をも拝見した。求聞持堂は往年、高祖大師求聞持を修せられ大師悉地を成せられた聖跡と峰を同じうし、老杉鬱々、幽寂閑静真に密法を修するに適した霊地であることを知った。なお寺の方にてこの山で求聞持を修する者で障害のために中途にして止めるものが多い。近くは三,四年前土佐の人で修行中、ある魔形を見た」といって直ちに下山した。それ以来求聞持堂に入って修行するものがないということを聞き、また泉大僧正から同大僧正が青年のころ当時事教の大家で一宗の大徳と称せられた某大和上が、太龍寺で求聞持を開始せられたがある魔障のために中止せられたことがあった。太龍寺で求聞持を修するならばよほどたしかな信念がなければならぬと申されたことなど思い出され危惧の念がおこらぬでもなかった。病弱な身でこの深山の一小堂に五十日にわたりよく念誦に堪え得られるであろうか、郷里にある老親が夏になれば往々病まれることがあるがなにか障碍となることがおこらぬではなかろうか。自分では決心していることではあるが、いよいよ修行するとすれば学校やその他に了解を得ておかねばばらぬところもあり、最後の依頼状は高野山へ帰山のうえ出すことにするが、諸事配慮を煩わしたき旨を太龍寺のほうへ申して一応高野山へ帰った。同月二十二,三日のころであったが、太龍寺へ送る最後の依頼状を認めいつものように朝の修法をなし、部屋へきてみると、前夜認めて机の上に置いた手紙が紙片で覆われている。何に心なくその紙片をとってみると不動明王の御影であった。その御影は先年南院より頂戴したものであったがそのころそれをとりだして机上においたものではなかった。常ならば気にも止めないことであろうが最後の決意を認めて太龍寺へ送ろうとする書状の上に明王の御影の在りませるを見、明王の加護により魔障なく修行をなし得られるという自信を得た。その春求聞持法を修しようと思い立ってから太龍寺へ登って求聞持法を開始するまでに如上のような不思議と思うた出来事が約十回ほどあった。(続)  
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