福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

還暦求聞持成満の記 その28

2009-11-09 | 還暦求聞持成満の記
「供養の支具やそのほかの準備をなし、同年七月十日に太龍寺に上り、十一日の午後求聞持堂へ入り、十二日の朝開白したが、修行について最も関心の一事は正しく一百万遍念誦せんとする虚空蔵菩薩の真言のうちに、文意の定かでない語が一,二あることであった。もっとも一応の了解はできるが実際の語基が判然とせぬので西蔵経中にある虚空蔵菩薩の真言と対照したらあるいは明瞭になることもあろうかと思い、河口慧海師及び寺本婉雅師に依頼して調べてもらったけれど明らかにならなかった。もっとも字相からいえば不明の語があるにせよ字義より観れば一字一字みな入法界の法曼荼羅にして先聖も己にこの真言を念誦し、悉地を成ぜられたのであるからただ無念にして念誦すべきであると観念し、念誦していたのであったが、時にその不明の字相のことがおもいうかぶので、これが此の修行の障碍になりはせぬかと懸念されることもあった。しかし開白後数日にして朝朝起床前霊夢を感じ種種の好相をみたからこの真言を念誦することによって、悉地を成ぜられることを確信し、浄信をこらして念誦した。
 秘密経の経軌のなかに密法を修せば悉地の成ずる前相として、種々の好相をみ、霊夢を感じ、或いは種々不思議の佛境界を感見することがある。しかも感見するその境界は、凡れ従因縁生法であって無自性空と感じ、感見したことがらに味着を生じ、愛執をもってはならぬことを詳説せられ、また佛法は法爾である。先ず事の中の成就をもってしかして後に浄慧の大空を用いてこれを観察せよ、即ち是れ出世の成就なり、等の教旨は久しく修習したところであったから、無執無念大菩提心に住する心地のつとめたが法門の功徳力の深広なること、如来神変加持力の広大であることにいくどか感激の涙をながした。
 念誦中は毎朝二時から三時の間に起き、老杉鬱密わずかに月光の漏るる霊地に出でて行水をし、閼伽井に行き閼伽を汲み、明星礼等の作法をなし入堂して正しく念誦にかかるのが四時過ぎから五時ころになり、午前の一座がおわるのは十時すぎ十一時ころになった。午後は一時ころから開始して五時か六時ころ終わった。かくして毎座一万遍即ち日に二万遍の念誦を行い、念誦がおわってから夕方伽藍の参拝に出てはるかに高野山の方に向かって大師、明神を礼拝し読経したが、ここから下の庫裏がみえるのでいつ五十日の行があわりかしこへ出られるのであろうかと思ったこともあったが菩薩の三大無数劫の修行に比すれば一瞬にも足らぬことに想到し、勇猛精進ただ念誦につとめた。(続)
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