・琴弾八幡宮縁起
琴弾八幡宮本殿にあったパンフレットにも「由緒、所蔵する七宝山八幡琴弾宮縁起」によれば、大宝三年(703)三月西方の空俄かに鳴動し黒雲天を覆って日月光を失うこと三か日の夜、時に海浜に一艘の船が現れ、舩中より高砂神妙な琴の音が発せられ万民が近ずくと『われは是れ八幡大菩薩なり。』のご託宣と、百王鎮護異敵降伏の本誓を垂れたもうた。止住の上人がいて、その証を求めたところ、これまで海水のところが竹林と変じ砂浜が蒼松の林と化した。上人は一生不犯の童男童女数百人によりお船を山上に引き上げお体に琴を添えて宝殿に安置し琴弾八幡宮ととなえたてまつった・・」とありました。
四国八十八所ホームページにわかりやすくここを解説しています。「六十八番・神恵院も六十九番・観音寺も琴弾公園内の琴弾山の中腹にあります。2つの札所が同じ境内に存在する、とても珍しい霊場です。開基したのは法相宗の高僧・日証上人といわれています。大宝3年(703)この地で修行中、宇佐八幡宮のお告げを受け、かなたの海上で神船と琴を発見。琴弾山に引き上げ、「琴弾八幡宮」を建立して祀りました。このとき、神宮寺として建てられた寺が起源とされています・・・」。先のパンフレットにはこの由来をあらわして「御神歌、琴弾の山松風や夢のあと、尋ね思えば神の御声ぞ」とありました。
・御本地、阿弥陀如来の由来
この四国八十八所ホームページの続きに大師が御本地を定めたと出てきます。「・・大同2年(807)弘法大師が琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来を描いて本尊として祀り、寺の名を「神恵院」にとし、六十八番霊場としました。その後、明治初年の神仏分離令で八幡宮は琴弾神社と神恵院に分離され、神恵院は麓の観音寺境内に移転。同時に八幡宮に安置されていた阿弥陀如来像も西金堂(さいこんどう)に移されました。以降、「神恵院」は西金堂(2002年に新築)を本堂に、阿弥陀如来像を本尊として今に至っています。」とあります。
琴弾八幡宮本殿にあったパンフレットにも「由緒、所蔵する七宝山八幡琴弾宮縁起」によれば、大宝三年(703)三月西方の空俄かに鳴動し黒雲天を覆って日月光を失うこと三か日の夜、時に海浜に一艘の船が現れ、舩中より高砂神妙な琴の音が発せられ万民が近ずくと『われは是れ八幡大菩薩なり。』のご託宣と、百王鎮護異敵降伏の本誓を垂れたもうた。止住の上人がいて、その証を求めたところ、これまで海水のところが竹林と変じ砂浜が蒼松の林と化した。上人は一生不犯の童男童女数百人によりお船を山上に引き上げお体に琴を添えて宝殿に安置し琴弾八幡宮ととなえたてまつった・・」とありました。
四国八十八所ホームページにわかりやすくここを解説しています。「六十八番・神恵院も六十九番・観音寺も琴弾公園内の琴弾山の中腹にあります。2つの札所が同じ境内に存在する、とても珍しい霊場です。開基したのは法相宗の高僧・日証上人といわれています。大宝3年(703)この地で修行中、宇佐八幡宮のお告げを受け、かなたの海上で神船と琴を発見。琴弾山に引き上げ、「琴弾八幡宮」を建立して祀りました。このとき、神宮寺として建てられた寺が起源とされています・・・」。先のパンフレットにはこの由来をあらわして「御神歌、琴弾の山松風や夢のあと、尋ね思えば神の御声ぞ」とありました。
・御本地、阿弥陀如来の由来
この四国八十八所ホームページの続きに大師が御本地を定めたと出てきます。「・・大同2年(807)弘法大師が琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来を描いて本尊として祀り、寺の名を「神恵院」にとし、六十八番霊場としました。その後、明治初年の神仏分離令で八幡宮は琴弾神社と神恵院に分離され、神恵院は麓の観音寺境内に移転。同時に八幡宮に安置されていた阿弥陀如来像も西金堂(さいこんどう)に移されました。以降、「神恵院」は西金堂(2002年に新築)を本堂に、阿弥陀如来像を本尊として今に至っています。」とあります。