福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

佛教人生読本(岡本かの子)より・・・その33

2014-03-11 | 講員の活動等ご紹介


第三三課 婚約の前に八方手を尽せ


 婚約ということは、殆んど結婚したも同様で、婚約してしまった後で、また取り消すということは、人情的にも、法律的にも面倒です。だから婚約する前にまず充分調査して、後でまごつかぬようにしなければなりません。
 ここに一人の若い女性があって、夫を選ぶことになりました。やがて候補者が見付かったので、彼女は自分でも、八方手を尽して、その男の身元、素性、性癖、能力、健康、収入等を知ろうと努めます。また彼女は、身内の者および友達の調査や意見も聴きます。そうして最後の判断は自分の覚悟で決めます。つまり出来るだけ智慧を働かしたのち、決心をつけるのが順序であります。
 もし、この順序をあやふやにして、全部人任せだったり、又は、ろくろく調べもせず、ただ覚悟ばかりで婚約し、間もなく結婚に飛び込んだとします。その結果が良かった場合は、稀な幸運としても、大抵の場合は結婚成績が予想外に不良なもので、例えば配偶者つれあいの性質、人格、趣味などが自分と全く融け合わないものであったり、配偶者の境遇に自分が到底同化出来ないことが判ったとき、その女はどうなるでしょうか(これは男が嫁を貰う場合としても同じことです)。その後の生活がめちゃめちゃになってしまうことがあります。そんな不運な場合には、さあ、準備に手抜きがしてあっただけに、ああもして置いたなら、こんなことにならなかったろうに、こうもして置いたなら、こうはならなかったろうなどと、後悔する方にばかり生活力を奪われ、またその失敗を他人ひとのせいにしたり、自分の軽挙かるはずみを恨み、眼の前の不成績を取り戻す努力は一向お留守になります。
 反対に、これがもし、充分手を尽した上のことであってみれば、いわゆる、人事を尽して天命を待つというところまで念を入れたものであったなら、たとえ不成績が襲って来ても、これ以上は出来なかったのだ、自分にとって不可抗力なのだ、と綺麗に諦めがつき、身内や友達の責任まで、自分一人で引き受けてしまって、不成績な荒筵の上にも悪びれず座っていれば、自ずと心に余裕と元気が湧き、まあ、物は試しだ、切り抜けられるところまで切り抜けてみよう。どうせこの家の主婦として運命付けられた以上、他家よその嫁じゃないという気になって再び立上る勇気も出て来るのであります。
 この八方手を尽して充分の調査をすることは仏教での俗諦ぞくたいに当ります。そして最後に結婚すべきか否かの決心をすることが真諦しんたいに当ります。俗諦は言葉を換えて言えば世間的の知識経験のことで、真諦とは真理を覚り、それを信仰することであります。俗諦をも充分に尽し、その上に真諦を置くということは、人事を尽して天命を待つということです。人事を尽さずして天命を待つのは迷信になります。婚約するまえに八方手を尽さず、ただ向う見ずの覚悟で、僥倖を頼りに結婚するのは、一種の迷信であります。とんだ間違いが起きたり、失望落胆が来るのが通例です。
 仏教では俗諦すなわち世間的の知識経験を非常に重大視し、これを欠くべからざる必要物としますが、なおその上に真諦すなわちものの真実を確認することを疎おろそかにしません。通常の人たちのように、人事を尽した後はただ漫然と天命を待つという、そんな態度を執りません。なお積極的に、信仰の力によって、配偶者となるべき人と自分とが結婚すべきか否かを、真理的に観察するのであります。信念は心を平静にし、透徹させます。俗諦を去って公平無私にします。そこで、鮮やかな判決がつけられるのです。







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