福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

正法眼蔵  辨道話

2013-08-12 | 法話
辨道話

佛如來、ともに妙法を單傳して、阿耨菩提を證するに、最上無爲の妙あり。これただ、ほとけ佛にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり。
この三昧に遊化するに、端坐參禪を正門とせり。この法は、人人の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、證せざるにはうることなし。はなてばてにみてり、一多のきはならむや。かたればくちにみつ、縱横きはまりなし。佛のつねにこのなかに住持たる、各各の方面に知覺をのこさず。群生のとこしなへにこのなかに使用する、各各の知覺に方面あらはれず。
いまをしふる功夫辨道は、證上に萬法をあらしめ、出路に一如を行ずるなり。その超關落のとき、この節目にかかはらむや。
予發心求法よりこのかた、わが朝の遍方に知識をとぶらひき。ちなみに建仁の全公をみる。あひしたがふ霜華すみやかに九廻をへたり。いささか臨濟の家風をきく。全公は師西和尚の上足として、ひとり無上の佛法を正傳せり。あへて餘輩のならぶべきにあらず。
予かさねて大宋國におもむき、知識を兩浙にとぶらひ、家風を五門にきく。つひに大白峰の淨禪師に參じて、一生參學の大事ここにをはりぬ。それよりのち、大宋紹定のはじめ、本にかへりしすなはち、弘法衆生をおもひとせり。なほ重擔をかたにおけるがごとし。
しかあるに、弘通のこころを放下せん激揚のときをまつゆゑに、しばらく雲遊萍寄して、まさに先哲の風をきこえむとす。ただし、おのずから名利にかかはらず、道念をさきとせん眞實の參學あらむか。いたづらに邪師にまどはされて、みだりに正解をおほひ、むなしく自狂にゑうて、ひさしく迷にしづまん、なにによりてか般若の正種を長じ、得道の時をえん。貧道はいま雲遊萍寄をこととすれば、いづれの山川をかとぶらはむ。これをあはれむゆゑに、まのあたり大宋國にして禪林の風規を見聞し、知識の玄旨を稟持せしを、しるしあつめて、參學閑道の人にのこして、佛家の正法をしらしめんとす。これ眞訣ならむかも。いはく、
大師釋尊、靈山會上にして法を葉につけ、正傳して、菩提達磨尊者にいたる。尊者、みづから丹國におもむき、法を慧可大師につけき。これ東地の佛法傳來のはじめなり。
かくのごとく單傳して、おのづから六大鑑禪師にいたる。このとき、眞實の佛法まさに東漢に流演して、節目にかかはらぬむねあらはれき。ときに六に二位の足ありき。南嶽の懷讓と原の行思となり。ともに佛印を傳持して、おなじく人天の導師なり。その二派の流通するに、よく五門ひらけたり。いはゆる法眼宗、仰宗、曹洞宗、雲門宗、臨濟宗なり。見在、大宋には臨濟宗のみ天下にあまねし。五家ことなれども、ただ一佛心印なり。
大宋國も後漢よりこのかた、籍あとをたれて一天にしけりといへども、雌雄いまださだめざりき。師西來ののち、直に葛藤の根源をきり、純一の佛法ひろまれり。わがくにも又しかあらむ事をこひねがふべし。
いはく、佛法を住持せしならびに佛、ともに自受用三昧に端坐依行するを、その開悟のまさしきみちとせり。西天東地、さとりをえし人、その風にしたがえり。これ、師資ひそかに妙を正傳し、眞訣を稟持せしによりてなり。
宗門の正傳にいはく、この單傳正直の佛法は、最上のなかに最上なり、參見知識のはじめより、さらに燒香禮拜念佛修懺看經をもちゐず、ただし打坐して身心落することをえよ。
もし人、一時なりといふとも、三業に佛印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな佛印となり、盡空ことごとくさとりとなる。ゆゑに、佛如來をしては本地の法樂をまし、覺道の莊嚴をあらたにす。および十方法界、三途六道の群類、みなともに一時に身心明淨にして、大解地を證し、本來面目現ずるとき、法みな正覺を證會し、萬物ともに佛身を使用して、すみやかに證會の邊際を一超して、覺樹王に端坐し、一時に無等等の大法輪を轉じ、究竟無爲の深般若を開演す。
これらの等正覺、さらにかへりてしたしくあひ冥資するみちかよふがゆゑに、この坐禪人、確爾として身心落し、從來雜穢の知見思量を截斷して、天眞の佛法に證會し、あまねく微塵際そこばくの佛如來の道場ごとに佛事を助發し、ひろく佛向上の機にかうぶらしめて、よく佛向上の法を激揚す。このとき、十方法界の土地草木、牆壁瓦礫みな佛事をなすをもて、そのおこすところの風水の利にあづかるともがら、みな甚妙不可思議の佛化に冥資せられて、ちかきさとりをあらはす。この水火を受用するたぐひ、みな本證の佛化を周旋するゆゑに、これらのたぐひと共住して同語するもの、またことごとくあひたがひに無窮の佛そなはり、展轉廣作して、無盡、無間斷、不可思議、不可稱量の佛法を、遍法界の内外に流通するものなり。しかあれども、このもろもろの當人の知覺に昏ぜざらしむることは、靜中の無造作にして直證なるをもてなり。もし、凡流のおもひのごとく、修證を兩段にあらせば、おのおのあひ覺知すべきなり。もし覺知にまじはるは證則にあらず、證則には迷およばざるがゆゑに。
又、心境ともに靜中の證入悟出あれども、自受用の境界なるをもて、一塵をうごかさず、一相をやぶらず、廣大の佛事、甚深微妙の佛化をなす。この化道のおよぶところの草木土地、ともに大光明をはなち、深妙法をとくこと、きはまるときなし。草木牆壁は、よく凡聖含靈のために宣揚し、凡聖含靈はかへつて草木牆壁のために演暢す。自覺覺他の境界、もとより證相をそなへてかけたることなく、證則おこなはれておこたるときなからしむ。
ここをもて、わづかに一人一時の坐禪なりといへども、法とあひ冥し、時とまどかに通ずるがゆゑに、無盡法界のなかに、去來現に、常恆の佛化道事をなすなり。彼彼ともに一等の同修なり、同證なり。ただ坐上の修のみにあらず、空をうちてひびきをなすこと、撞の前後に妙聲綿綿たるものなり。このきはのみにかぎらむや、百頭みな本面目に本修行をそなへて、はかりはかるべきにあらず。
しるべし、たとひ十方無量恆河沙數の佛、ともにちからをはげまして、佛知慧をもて、一人坐禪の功をはかりしりきはめんとすといふとも、あへてほとりをうることあらじ。

いまこの坐禪の功、高大なることをききをはりぬ。おろかならむ人、うたがうていはむ、佛法におほくの門あり、なにをもてかひとへに坐禪をすすむるや。
しめしていはく、これ佛法の正門なるをもてなり。

とうていはく、なんぞひとり正門とする。
しめしていはく、
大師釋尊、まさしく得道の妙を正傳し、又三世の如來、ともに坐禪より得道せり。このゆゑに正門なることをあひつたへたるなり。しかのみにあらず、西天東地の、みな坐禪より得道せるなり。ゆゑにいま正門を人天にしめす。

とうていはく、あるいは如來の妙を正傳し、または師のあとをたづぬるによらむ、まことに凡慮のおよぶにあらず。しかはあれども、讀經念佛はおのづからさとりの因となりぬべし。ただむなしく坐してなすところなからむ、なにによりてかさとりをうるたよりとならむ。
しめしていはく、なんぢいま佛の三昧、無上の大法を、むなしく坐してなすところなしとおもはむ、これを大乘を謗ずる人とす。まどひのいとふかき、大海のなかにゐながら水なしといはむがごとし。すでにかたじけなく、佛自受用三昧に安坐せり。これ廣大の功をなすにあらずや。あはれむべし、まなこいまだひらけず、こころなほゑひにあることを。
おほよそ佛の境界は不可思議なり。心識のおよぶべきにあらず。いはむや不信劣智のしることをえむや。ただ正信の大機のみ、よくいることをうるなり。不信の人は、たとひをしふともうくべきことかたし。靈山になほ退亦佳矣のたぐひあり。おほよそ心に正信おこらば修行し參學すべし。しかあらずは、しばらくやむべし。むかしより法のうるほひなきことをうらみよ。
又、讀經念佛等のつとめにうるところの功を、なんぢしるやいなや。ただしたをうごかし、こゑをあぐるを、佛事功とおもへる、いとはかなし。佛法に擬するにうたたとほく、いよいよはるかなり。又、經書をひらくことは、ほとけ頓漸修行の儀則ををしへおけるを、あきらめしり、のごとく修行すれば、かならず證をとらしめむとなり。いたづらに思量念度をつひやして、菩提をうる功に擬せんとにはあらぬなり。おろかに千萬誦の口業をしきりにして佛道にいたらむとするは、なほこれながえをきたにして、越にむかはんとおもはんがごとし。又、圓孔に方木をいれんとせんとおなじ。文をみながら修するみちにくらき、それ醫方をみる人の合藥をわすれん、なにのかあらん。口聲をひまなくせる、春の田のかへるの、晝夜になくがごとし、つひに又なし。いはむやふかく名利にまどはさるるやから、これらのことをすてがたし。それ利貪のこころはなはだふかきゆゑに。むかしすでにありき、いまのよになからむや、もともあはれむべし。
ただまさにしるべし、七佛の妙法は、得道明心の宗匠に、契心證會の學人あひしたがうて正傳すれば、的旨あらはれて稟持せらるるなり。文字學の法師のしりおよぶべきにあらず。しかあればすなはち、この疑迷をやめて、正師のをしへにより、坐禪辨道して佛自受用三昧を證得すべし。

とうていはく、いまわが朝につたはれるところの法花宗、華嚴、ともに大乘の究竟なり。いはむや眞言宗のごときは、毘盧遮那如來したしく金剛薩につたへて師資みだりならず。その談ずるむね、心是佛、是心作佛というて、多劫の修行をふることなく、一座に五佛の正覺をとなふ、佛法の極妙といふべし。しかあるに、いまいふところの修行、なにのすぐれたることあれば、かれらをさしおきて、ひとへにこれをすすむるや。
しめしていはく、しるべし、佛家にはの殊劣を對論することなく法の淺深をえらばず、ただし修行の眞僞をしるべし。草花山水にひかれて佛道に流入することありき、土石沙礫をにぎりて佛印を稟持することあり。いはむや廣大の文字は萬象にあまりてなほゆたかなり、轉大法輪又一塵にをさまれり。しかあればすなはち、心佛のことば、なほこれ水中の月なり、坐成佛のむね、さらに又かがみのうちのかげなり。ことばのたくみにかかはるべからず。いま直證菩提の修行をすすむるに、佛單傳の妙道をしめして、眞實の道人とならしめんとなり。
又、佛法を傳授することは、かならず證契の人をその宗師とすべし。文字をかぞふる學者をもてその導師とするにたらず。一盲の衆盲をひかんがごとし。いまこの佛正傳の門下には、みな得道證契の哲匠をうやまひて、佛法を住持せしむ。かるがゆゑに、冥陽の道もきたりし歸依し、證果の羅漢もきたり問法するに、おのおの心地を開明する手をさづけずといふことなし。餘門にいまだきかざるところなり。ただ、佛弟子は佛法をならふべし。
又しるべし、われらはもとより無上菩提かけたるにあらず、とこしなへに受用すといへども、承當することをえざるゆゑに、みだりに知見をおこす事をならひとして、これを物とおふによりて、大道いたづらに蹉過す。この知見によりて、空花まちまちなり。あるいは十二輪轉、二十五有の境界とおもひ、三乘五乘、有佛無佛の見、つくる事なし。この知見をならうて、佛法修行の正道とおもふべからず。しかあるを、いまはまさしく佛印によりて萬事を放下し、一向に坐禪するとき、迷悟量のほとりをこえて、凡聖のみちにかかはらず、すみやかに格外に逍遙し、大菩提を受用するなり。かの文字の筌にかかはるものの、かたをならぶるにおよばむや。

とうていはく、三學のなかに定學あり、六度のなかに禪度あり。ともにこれ一切の菩薩の、初心よりまなぶところ、利鈍をわかず修行す。いまの坐禪も、そのひとつなるべし、なにによりてか、このなかに如來の正法あつめたりといふや。
しめしていはく、いまこの如來一大事の正法眼藏、無上の大法を、禪宗となづくるゆゑに、この問きたれり。
しるべし、この禪宗の號は、丹以東におこれり、竺乾にはきかず。はじめ達磨大師、嵩山の少林寺にして九年面壁のあひだ、道俗いまだ佛正法をしらず、坐禪を宗とする婆羅門となづけき。のち代代の、みなつねに坐禪をもはらす。これをみるおろかなる俗家は、實をしらず、ひたたけて坐禪宗といひき。いまのよには、坐のことばを簡して、ただ禪宗といふなり。そのこころ、の廣語にあきらかなり。六度および三學の禪定にならべていふべきにあらず。
この佛法の相傳の嫡意なること、一代にかくれなし。如來、むかし靈山會上にして、正法眼藏涅槃妙心、無上の大法をもて、ひとり葉尊者にのみ付法せし儀式は、現在して上界にある天衆、まのあたりにみしもの存ぜり、うたがふべきにたらず。おほよそ佛法は、かの天衆、とこしなへに護持するものなり、その功いまだふりず。
まさにしるべし、これは佛法の全道なり、ならべていふべき物なし。

とうていはく、佛家なにによりてか、四儀のなかに、ただし坐にのみおほせて禪定をすすめて證入をいふや。
しめしていはく、むかしよりの佛、あひつぎて修行し、證入せるみち、きはめしりがたし。ゆゑをたづねば、ただ佛家のもちゐるところをゆゑとしるべし。このほかにたづぬべからず。ただし、師ほめていはく、坐禪はすなはち安樂の法門なり。はかりしりぬ、四儀のなかに安樂なるゆゑか。いはむや、一佛二佛の修行のみちにあらず、佛にみなこのみちあり。

とうていはく、この坐禪の行は、いまだ佛法を證會せざせんものは、坐禪辨道してその證をとるべし。すでに佛正法をあきらめえん人は、坐禪なにのまつところかあらむ。
しめしていはく、癡人のまへにゆめをとかず、山子の手には舟棹をあたへがたしといへども、さらに訓をたるべし。
それ、修證は一つにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。佛法には修證これ一等なり。いまも證上の修なるゆゑに、初心の辨道すなはち本證の全體なり。かるがゆゑに、修行の用心をさづくるにも、修のほかに證をまつおもひなかれとをしふ、直指の本證なるがゆゑなるべし。すでに修の證なれば、證にきはなく、證の修なれば、修にはじめなし。ここをもて釋如來、葉尊者、ともに證上の修に受用せられ、達磨大師、大鑑高、おなじく證上の修に引轉せらる。佛法住持のあと、みなかくのごとし。
すでに證をはなれぬ修あり、われらさいはひに一分の妙修を單傳せる、初心の辨道すなはち一分の本證を無爲の地にうるなり。しるべし、修をはなれぬ證を染汚せざらしめんがために、佛しきりに修行のゆるくすべからざるとをしふ。妙修を放下すれば本證手の中にみてり、本證を出身すれば、妙修通身におこなはる。
又、まのあたり大宋國にしてみしかば、方の禪院みな坐禪堂をかまへて、五百六百および一二千を安じて、日夜に坐禪をすすめき。その席主とせる傳佛心印の宗師に、佛法の大意をとぶらひしかば、修證の兩段にあらぬむねをきこえき。
このゆゑに、門下の參學のみにあらず、求法の高流、佛法のなかに眞實をねがはむ人、初心後心をえらばず、凡人聖人を論ぜず、佛のをしへにより、宗匠の道をおうて、坐禪辨道すべしとすすむ。
きかずや、師のいはく、修證はすなはちなきにあらず、染汚することはえじ。
又いはく、道をみるもの、道を修すと。しるべし、得道のなかに修行すべしといふことを。

とうていはく、わが朝の先代に、をひろめし師、ともにこれ入唐傳法せしとき、なんぞこのむねをさしおきて、ただをのみつたへし。
しめしていはく、むかしの人師、この法をつたへざりしことは、時節のいまだいたらざりしゆゑなり。

とうていはく、かの上代の師、この法を會得せりや。
しめしていはく、會せば通じてむ。

とうていはく、あるがいはく、生死をなげくことなかれ、生死を出離するにいとすみやかなるみちあり。いはゆる心性の常住なることわりをしるなり。そのむねたらく、この身體は、すでに生あればかならず滅にうつされゆくことありとも、この心性はあへて滅する事なし。よく生滅にうつされぬ心性わが身にあることをしりぬれば、これを本來の性とするがゆゑに、身はこれかりのすがたなり、死此生彼さだまりなし。心はこれ常住なり、去來現在かはるべからず。かくのごとくしるを、生死をはなれたりとはいふなり。このむねをしるものは、從來の生死ながくたえて、この身をはるとき性海にいる。性海に朝宗するとき、佛如來のごとく妙まさにそなはる。いまはたとひしるといへども、前世の妄業になされたる身體なるがゆゑに、聖とひとしからず。いまだこのむねをしらざるものは、ひさしく生死にめぐるべし。しかあればすなはち、ただいそぎて心性の常住なるむねを了知すべし。いたづらに閑坐して一生をすぐさん、なにのまつところかあらむ
かくのごとくいふむね、これはまことに佛の道にかなへりや、いかむ。
しめしていはく、いまいふところの見、またく佛法にあらず。先尼外道が見なり。
いはく、かの外道の見は、わが身、うちにひとつの靈知あり、かの知、すなはちにあふところに、よく好惡をわきまへ、是非をわきまふ。痛痒をしり、苦樂をしる、みなかの靈知のちからなり。しかあるに、かの靈性は、この身の滅するとき、もぬけてかしこにむまるるゆゑに、ここに滅すとみゆれども、かしこの生あれば、ながく滅せずして常住なりといふなり。かの外道が見、かくのごとし。
しかあるを、この見をならうて佛法とせむ、瓦礫をにぎつて金寶とおもはんよりもなほおろかなり。癡迷のはづべき、たとふるにものなし。大唐國の慧忠國師、ふかくいましめたり。いま心常相滅の邪見を計して、佛の妙法にひとしめ、生死の本因をおこして、生死をはなれたりとおもはむ、おろかなるにあらずや。もともあはれむべし。ただこれ外道の邪見なりとしれ、みみにふるべからず。
ことやむことをえず、いまなほあはれみをたれて、なんぢが邪見をすくはば、しるべし、佛法にはもとより身心一如にして、性相不二なりと談ずる、西天東地おなじくしれるところ、あへてたがふべからず。いはむや常住を談ずる門には萬法みな常住なり、身と心とをわくことなし。寂滅を談ず門には法みな寂滅なり。性と相とをわくことなし。しかあるを、なんぞ身滅心常といはむ、正理にそむかざらむや。しかのみならず、生死はすなはち涅槃なりと覺了すべし。いまだ生死のほかに涅槃を談ずることなし。いはむや、心は身をはなれて常住なりと領解するをもて、生死をはなれたる佛智に妄計すといふとも、この領解智覺の心は、すなはちなほ生滅して、またく常住ならず。これはかなきにあらずや。
嘗觀すべし、身心一如のむねは、佛法のつねの談ずるところなり。しかあるに、なんぞ、この身の生滅せんとき、心ひとり身をはなれて、生滅せざらむ。もし、一如なるときあり、一如ならぬときあらば、佛おのづから妄にありぬべし。又、生死はのぞくべき法ぞとおもへるは、佛法をいとふつみとなる。つつしまざらむや。
しるべし、佛法に心性大總相の法門といふは、一大法界をこめて、性相をわかず、生滅をいふことなし。菩提涅槃におよぶまで、心性にあらざるなし。一切法、萬象森羅ともに、ただこれ一心にして、こめずかねざることなし。このもろもろの法門、みな平等一心なり。あへて異違なしと談ずる、これすなはち佛家の心性をしれる樣子なり。
しかあるをこの一法に身と心とを分別し、生死と涅槃とをわくことあらむや。すでに佛子なり、外道の見をかたる狂人のしたのひびきを、みみにふるることなかれ。

とうていはく、この坐禪をもはらせむ人、かならず戒律を嚴淨すべしや。
しめしていはく、持戒梵行は、すなはち禪門の規矩なり、佛の家風なり。いまだ戒をうけず、又戒をやぶれるもの、その分なきにあらず。

とうていはく、この坐禪をつとめん人、さらに眞言止觀の行をかね修せん、さまたげあるべからずや。
しめしていはく、在唐のとき、宗師に眞訣をききしちなみに、西天東地の古今に、佛印を正傳せし、いづれもいまだしかのごときの行をかね修すときかずといひき。まことに、一事をこととせざれば一智に達することなし。

とうていはく、この行は、在俗の男女もつとむべしや、ひとり出家人のみ修するか。
しめしていはく、師のいはく、佛法を會すること、男女貴賤をえらぶべからずときこゆ。

とうていはく、出家人は、すみやかにはなれて、坐禪辨道にさはりなし。在俗の繁務は、いかにしてか一向に修行して無爲の佛道にかなはむ。
しめしていはく、おほよそ、佛あはれみのあまり、廣大の慈門をひらきおけり。これ一切衆生を證入せしめんがためなり、人天たれかいらざらむものや。ここをもて、むかしいまをたづぬるに、その證これおほし。しばらく、代宗順宗の帝位にして、萬機いとしげかりし、坐禪辨道して佛の大道を會通す。李相國、防相國、ともに輔佐の臣位にはむべりて、一天の股肱たりし、坐禪辨道して佛の大道に證入す。ただこれこころざしのありなしによるべし、身の在家出家にかかはらじ。又ふかくことの殊劣をわきまふる人、おのづから信ずることあり。いはむや世務は佛法をさふとおもへるものは、ただ世中に佛法なしとのみしりて、佛中に世法なき事をいまだしらざるなり。
ちかごろ大宋に馮相公といふありき。道に長ぜりし大官なり。のちに詩をつくりてみづからをいふに、いはく、
公事之餘喜坐禪、
少曾將脇到牀眠。
雖然現出宰宦相、
長老之名四海傳。
(公事の餘に坐禪を喜む、曾て脇を將て牀に到して眠ること少し。然しか宰宦相と現出せりと雖も、長老の名、四海に傳はる。)
これは、宦務にひまなかりし身なれども、佛道にこころざしふかければ、得道せるなり。他をもてわれをかへりみ、むかしをもていまをかがみるべし。
大宋國には、いまのよの國王大臣、士俗男女、ともに心を道にとどめずといふことなし。武門文家、いづれも參禪學道をこころざせり。こころざすもの、かならず心地を開明することおほし。これ世務の佛法をさまたげざる、おのづからしられたり。
國家に眞實の佛法弘通すれば、佛天ひまなく衞護するがゆゑに、王化太平なり。聖化太平なれば、佛法そのちからをうるものなり。
又、釋尊の在世には、逆人邪見みちをえき。師の會下には、者樵翁さとりをひらく。いはむやそのほかの人をや。ただ正師の道をたづぬべし。

とうていはく、この行は、いま末代惡世にも、修行せば證をうべしや。
しめしていはく、家に名相をこととせるに、なほ大乘實には、正像末法をわくことなし。修すればみな得道すといふ。いはむやこの單傳の正法には、入法出身、おなじく自家の財珍を受用するなり。證の得否は、修せむもの、おのづからしらむこと、用水の人の冷煖をみづからわきまふるがごとし。

とうていはく、あるがいはく、佛法には、心是佛のむねを了達しぬるがごときは、くちに經典を誦せず、身に佛道を行ぜざれども、あへて佛法にかけたるところなし。ただ佛法はもとより自己にありとしる、これを得道の全圓とす。このほかさらに他人にむかひてもとむべきにあらず。いはむや坐禪辨道をわづらはしくせむや。
しめしていはく、このことば、もともはかなし。もしなんぢがいふごとくならば、こころあらむもの、たれかこのむねををしへむに、しることなからむ。
しるべし、佛法はまさに自他の見をやめて學するなり。もし、自己佛としるをもて得道とせば、釋尊むかし化道にわづらはじ。しばらく古の妙則をもて、これを證すべし。

むかし、則公監院といふ、法眼禪師の會中にありしに、法眼禪師とうていはく、則監寺、なんぢわが會にありていくばくのときぞ。
則公がいはく、われ師の會にはむべりて、すでに三年をへたり。
禪師のいはく、なんぢはこれ後生なり、なんぞつねにわれに佛法をとはざる。
則公がいはく、それがし和尚をあざむくべからず。かつて峰の禪師のところにありしとき、佛法におきて安樂のところを了達せり。
禪師のいはく、なんぢいかなることばによりてか、いることをえし。
則公がいはく、それがしかつて峰にとひき、いかなるかこれ學人の自己なる。峰のいはく、丙丁童子來求火。
法眼のいはく、よきことばなり。ただしおそらくはなんぢ會せざらむことを。
則公がいはく、丙丁は火に屬す。火をもてさらに火をもとむ、自己をもて自己をもとむるににたりと會せり。
禪師のいはく、まことにしりぬ、なんぢ會せざりけり。佛法もしかくのごとくならば、けふまでつたはれじ。
ここに則公懆悶して、すなはちたちぬ。中路にいたりておもひき、禪師はこれ天下の善知識、又五百人の大導師なり。わが非をいさむる、さだめて長處あらむ。禪師のみもとにかへりて懺悔禮謝してとうていはく、いかなるかこれ學人の自己なる。
禪師のいはく、丙丁童子來求火と。
則公、このことばのしたに、おほきに佛法をさとりき。
あきらかにしりぬ、自己佛の領解をもて佛法をしれりといふにはあらずといふことを。もし自己佛の領解を佛法とせば、禪師さきのことばをもてみちびかじ、又しかのごとくいましむべからず。ただまさに、はじめ善知識をみむより、修行の儀則を咨問して、一向に坐禪辨道して、一知半解を心にとどむることなかれ。佛法の妙、それむなしからじ。

とうていはく、乾唐の古今をきくに、あるいはたけのこゑをききて道をさとり、あるいははなのいろをみてこころをあきらむる物あり、いはむや、
釋大師は、明星をみしとき道を證し、阿難尊者は、刹竿のたふれしところに法をあきらめしのみならず、六代よりのち、五家のあひだに、一言半句のしたに心地をあきらむるものおほし。かれらかならずしも、かつて坐禪辨道せるもののみならむや。
しめしていはく、古今に見色明心し、聞聲悟道せし當人、ともに辨道に擬議量なく、直下に第二人なきことをしるべし。

とうていはく、西天および丹國は、人もとより質直なり。中華のしからしむるによりて、佛法を化するに、いとはやく會入す。我朝は、むかしより人に仁智すくなくして、正種つもりがたし。蕃夷のしからしむる、うらみざらむや。又このくにの出家人は、大國の在家人にもおとれり。擧世おろかにして、心量狹少なり。ふかく有爲の功を執して、事相の善をこのむ。かくのごとくのやから、たとひ坐禪すといふとも、たちまちに佛法を證得せむや。
しめしていはく、いふがごとし。わがくにの人、いまだ仁智あまねからず、人また迂曲なり。たとひ正直の法をしめすとも、甘露かへりて毒となりぬべし。名利におもむきやすく、惑執とらけがたし。しかはあれども、佛法に證入すること、かならずしも人天の世智をもて出世の舟航とするにはあらず。佛在世にも、てまりによりて四果を證し、袈裟をかけて大道をあきらめし、ともに愚暗のやから、癡狂の畜類なり。ただし、正信のたすくるところ、まどひをはなるるみちあり。また、癡老の比丘默坐せしをみて、設齋の信女さとりをひらきし、これ智によらず、文によらず、ことばをまたず、かたりをまたず、ただしこれ正信にたすけられたり。
また、釋の三千界にひろまること、わづかに二千餘年の前後なり。刹土のしなじななる、かならずしも仁智のくににあらず。人またかならずしも利智聰明のみあらむや。しかあれども、如來の正法、もとより不思議の大功力をそなへて、ときいたればその刹土にひろまる。人まさに正信修行すれば、利鈍をわかず、ひとしく得道するなり。わが朝は仁智のくににあらず、人に知解おろかなりとして、佛法を會すべからずとおもふことなかれ。いはむや、人みな般若の正種ゆたかなり、ただ承當することまれに、受用することいまだしきならし。

さきの問答往來し、賓主相交することみだりがはし。いくばくか、はななきそらにはなをなさしむる。しかありとも、このくに、坐禪辨道におきて、いまだその宗旨つたはれず、しらむとこころざさむもの、かなしむべし。このゆゑに、いささか異域の見聞をあつめ、明師の眞訣をしるしとどめて、參學のねがはむにきこえむとす。このほか、叢林の規範および寺院の格式、いましめすにいとまあらず、又草草にすべからず。
おほよそ我朝は、龍海の以東にところして、雲煙はるかなれども、欽明用明の前後より秋方の佛法東漸する、これすなはち人のさいはひなり。しかあるを名相事しげくみだれて、修行のところにわづらふ。いまは破衣盂を生涯として、巖白石のほとりに茅をむすむで、端坐修練するに、佛向上の事たちまちにあらはれて、一生參學の大事すみやかに究竟するものなり。これすなはち龍牙の誡敕なり、鷄足の遺風なり。その坐禪の儀則は、すぎぬる嘉祿のころ撰集せし普勸坐禪儀に依行すべし。
曾禮、佛法を國中に弘通すること、王敕をまつべしといへども、ふたたび靈山の遺囑をおもへば、いま百萬億刹に現出せる王公相將、みなともにかたじけなく佛敕をうけて、夙生に佛法を護持する素懷をわすれず、生來せるものなり。その化をしくさかひ、いづれのところか佛國土にあらざらむ。このゆゑに、佛の道を流通せむ、かならずしもところをえらびをまつべきにあらず、ただ、けふをはじめとおもはむや。
しかあればすなはち、これをあつめて、佛法をねがはむ哲匠、あはせて道をとぶらひ雲遊萍寄せむ參學の眞流にのこす。ときに、
喜辛卯中秋日 入宋傳法沙門道元記

辨道話
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