円覚寺横田南嶺管長様は「『刻苦光明』(注1)とは、『骨を刻むような苦悩がそのまま光明』という意味である」と喝破されていました。
(注1)禅関策進に「(慈明楚圓)自ら責て曰いわく、『古人刻苦光明必ず盛大なり。我又何人ぞ。生きて時に益無く、死して人に知れず、理に於て何の益か有ん』と。即ち錐を引て自ら其の股を刺さす(禅関策進)。」
すべての人の人生には例外なく、錐で足を刺すなどということなどに比べようもない苦しみが襲ってくることがあります。
中村久子女史は壊疽で両手両足を失っていますし、
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大石順教尼は両手を義父に切断されています。
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しかしこれらの方々はいずれも、運命を自己の内部にあるものとして捉え、運命と一体となることにより素晴らしい高みに達せられています。まさに「骨を刻むような苦悩」をそのまま「光明」とされています。運命や因果や神仏が自己の外にあるとおもえば恨み嘆くことになりますが、運命や因果や神仏は自分の中に在ると分かれば運命・因果と一体となり全く新しい光明が現れるということでしょうか。これが「我即大日」ということであり、因果と一体になっているのですから「不昧因果」ということでしょう。