足利時代、聖フランシスコ・ザビエルが日本に初めて耶蘇教を弘めたのでありますが、その時に日本に七つの大学があるといって仏教大学のことを報告している。当時大学と見てよいものが多くあった。高野山学林、三井寺学林、比叡山学林などに明了に分っている。京都に南禅寺学林、妙心寺学林かと思われるものがある。外に足利学林がある。大宮学林(熱田)がある。とにかく学問としての仏教を各宗共に大学校をおいて研究している。日本で一宗派を開くに一切経を読みこなして、仏一代の教えを判別して分類し、自分は何れの部分に依って宗派を立つるということを宣明する。これが宗旨を立つる上に最も必要な仕事である。これを「判教」と名付ける。それでありますから一宗を建立するということはよほどむずかしい。後のものは宗祖の判教に依って自派の学的系統を相承せねば信仰の目標も成り立たない。この判教ということが学問組織を完成せしめた所以である。したがって学林祖織というものが出来、各宗派でも一つの大学を持っているようになった。西洋のどんな宗旨だってこんなに各宗派にみな大学を持っているようなことはありませぬ。これを文部大臣が普通の大学と同じように見て、仏教大学じゃいかぬ、竜谷大学にしろ、曹洞宗大学ではいかぬから駒沢大学にしろというように、俗名を付けさして普通の法律大学と一緒に扱う方法を設けたのはこの美しい組織を破壊したわけであります。これは岡田文部大臣だけは分っていた。かくの如く学林というような特別な組織があって、学林組織が今日まで続いている。次には寺院組織である。これは信仰としての組織である。各宗派とも別に門戸を張っている。学問の方は宗旨にのみ依らないで、倶舎の実在教(過去・現在・未来に渡って、法という構成要素がある・・「三世実有法体恒有))も、唯識の理想教(世界は心が作っているので修行で心を変えるべき)も、華厳の汎神教(世界は事象が無限に関係しあってできている)も、法華の実相教(すべての存在は仏である)も研究していくのであるが,これは学問じゃない、信仰としての方面だけが寺院組織となったのであります。 それは寺院の門末関係である。各宗派とも門末関係が出来て、それが秩序整然たる特殊の組織として残っている。これは朝鮮に行ってもないし、シナに行ってもないし、インドに行っても尚更ない。どの国に行っても日本のように徹底的な組織はない。これは日本の家族制度の組織がかくはっきりならしめた所以であります。その中で一層堅固に世襲で行くというような宗派もある。寺院組織を潰さないようにするのはわれわれの目前の要件であると思う。寺院仏教とか伝統宗教とかいって悪口はするものの、如何にしてもこれに似るべき組織は出来得ないのである。これは朝鮮にもないものでありますから、総督府は遽かに三十本山を認めたが、選び方がいけなかったので、その下に本山よりも偉い寺があるというようになって、多少困難に陥っている。とにかく一旦認めたのだからやめてはいかぬというので三十の本山を今も認めておりますが、かかる寺院組織の完備は自然の発達に待つとすると従来の寺院組織は日本として誇るに足るものであります。 学林としても残っているし、寺院としても残っている。すなわち学問としても残っており、信仰としても残っている。こういうぐあいに一寸刻みにやって残しているのは、これは日本人がやったので日本人が偉いのだと思います。儒教でもそうであります。儒教はシナで出来たものでありますが、シナは儒教の国ではない。シナ人自身が儒教を棄ててしまった。棄てるばかりではない、全体儒教が分っていない。忠と説いても忠を徹底的に教えたのは日本人のみで、シナでは分っていない。儒教の精神を本当に理解しているのは日本人である。しかし震災の当時に日本唯一の孔子の像を焼いてしまった。誰一人これを助けにいかなかったのは遺憾でありますが、これは儒教は信仰として残ったものでないから、そうだったのかも知れませぬ。 そういう訳でシナは儒教の国ではない。シナの土地が痩せている。インドは仏教の国ではない。当時哲学的にはインドが一番進んでおった、けれどもインドは本当に仏教を理解していない。今頃になって気付いて、十年前の統計では三千人しか仏教徒と書いて出す者がなかったが、十年後の統計で見ると三十二万八千五百人の人が仏教徒と書き出した(現在佐々井秀嶺師のもと1億5000万人の仏教徒がいるとされます。)
。これはインド人が自覚してきたからでありますが、結局自分の国で棄てたことを後悔している。聖徳太子が言われたように日本は大乗相応の地である、大乗に適応した国は日本であるというのであるが(親鸞聖人が「上宮太子御記」の書写を終える際、巻末に「太子廟窟偈」を書き入れています。太子廟窟偈です。「大慈大悲本誓願 愍念衆生如一子 是故方便従西方 誕生片州興正法 我身救世観世音 定慧契女大勢至 生育我身大悲母 西方教主弥陀尊 真如真実本一体 一体現三同一身 片域化縁亦巳盡 還帰西方我浄土 為度末世諸有情 父母所生血肉身 遺留勝地此廟窟 三骨一廟三尊位 過去七仏法輪處 大乗相応功徳地 一度参詣離悪趣 決定往生極楽界 印度号勝鬘夫人 晨旦称恵思禅師」)聖徳太子が適応するように、率土の浜王土に非ざるなしという憲法を書き出されて(十七条の憲法。「十二に曰わく、国司・国造、百姓におさめとることなかれ。国に二君なく、民に両主なし。率土の兆民は王をもって主となす。任ずる所の官司はみなこれ王の臣なり、何ぞ公とともに百姓に賦斂せんや。」)
、日本の組織と仏教の組織とを合一せしめられた方針が重きを為しているのだと思います。日本の文明は仏教によって完成したといって差支えないと思います。而して仏教というものを今日のように研究の上でも、信仰の上でも、組織の上でも十分に完全にしたというのは日本人だから出来たので、日本人はこの点にはよほど偉いところがある。何でも来る物はみな受けるというのなら道教などでもきていそうなものである。聖武天皇に向って唐の玄宗皇帝は道教の道士を送ってやろうということを何遍も言われたが、聖武天皇は道教は日本には要らないと仰せられた。また耶蘇教でももう少し日本の耶蘇教者が研究を重ねて、あんなふうな西洋式でなくやったら日本的耶蘇教が日本で出来たでしょうが、いつも西洋の耶蘇教のように考えておったから日本の宗教にはならなかったのであります。
。これはインド人が自覚してきたからでありますが、結局自分の国で棄てたことを後悔している。聖徳太子が言われたように日本は大乗相応の地である、大乗に適応した国は日本であるというのであるが(親鸞聖人が「上宮太子御記」の書写を終える際、巻末に「太子廟窟偈」を書き入れています。太子廟窟偈です。「大慈大悲本誓願 愍念衆生如一子 是故方便従西方 誕生片州興正法 我身救世観世音 定慧契女大勢至 生育我身大悲母 西方教主弥陀尊 真如真実本一体 一体現三同一身 片域化縁亦巳盡 還帰西方我浄土 為度末世諸有情 父母所生血肉身 遺留勝地此廟窟 三骨一廟三尊位 過去七仏法輪處 大乗相応功徳地 一度参詣離悪趣 決定往生極楽界 印度号勝鬘夫人 晨旦称恵思禅師」)聖徳太子が適応するように、率土の浜王土に非ざるなしという憲法を書き出されて(十七条の憲法。「十二に曰わく、国司・国造、百姓におさめとることなかれ。国に二君なく、民に両主なし。率土の兆民は王をもって主となす。任ずる所の官司はみなこれ王の臣なり、何ぞ公とともに百姓に賦斂せんや。」)
、日本の組織と仏教の組織とを合一せしめられた方針が重きを為しているのだと思います。日本の文明は仏教によって完成したといって差支えないと思います。而して仏教というものを今日のように研究の上でも、信仰の上でも、組織の上でも十分に完全にしたというのは日本人だから出来たので、日本人はこの点にはよほど偉いところがある。何でも来る物はみな受けるというのなら道教などでもきていそうなものである。聖武天皇に向って唐の玄宗皇帝は道教の道士を送ってやろうということを何遍も言われたが、聖武天皇は道教は日本には要らないと仰せられた。また耶蘇教でももう少し日本の耶蘇教者が研究を重ねて、あんなふうな西洋式でなくやったら日本的耶蘇教が日本で出来たでしょうが、いつも西洋の耶蘇教のように考えておったから日本の宗教にはならなかったのであります。