信心について大疏(大日経疏)では捨攞駄(しゃらだ)の信、阿毘目底(あびぼきち)の信ということを説く。捨攞駄(しゃらだ)は深心といい、阿毘目底(あびぼきち)は信解という。深心は仏法の法義を聞いて、自分には分からずともこの法は仏説であるから間違いないと思うて深く信ずるのである。大疏(大毘盧遮那成佛經疏卷第三)に「深心とは梵音には捨攞駄(しゃらだ)という、これ事により人による信なり。たとえば長者の言を聞くにあるいは常の情の外のことを言うても、但しこの人いまだかって欺誑せざるがゆえに即ち諦受して依行するがごとし。これを名ずけて信とす」とあり、同じく大疏に「先世にすでに曽って善智識に親近するがゆえに三宝に縁深くして比量籌度すべからざるところなりといえども、すなわち能く懸かに信ずるが故に深心という」とある。
次に信解というは一分道理がわかって疑いを離れてますます修行するのである。大疏に「大信解とは梵音に阿毘目底(あびぼきち)といい、明らかにこの理を見て心に疑慮なきをいう。井を掘るにすでに漸く泥に至ればいまだ水を見ずと雖も水必ず近きにありと知るがごとし。ゆえに信解と名ずく」とある。この深心と信解は一人の上にあるもので、初めは深心で後に信解となるのである。我々凡夫が最初に凡聖不二・凡身即佛の理を開き、三密修行の功徳を開いた時にはさらにその道理がわかりません、しかし分からんけれども仏説なるがゆえに深く信じて修行する、段々修行する内に、病気が治る、災難を免れるというが如き世間のご利益を得るようになる。こういう不思議のご利益を頂くほどだから、即身成仏のご利益ももっと得られるに違いないと信ずるに至る。ゆえに深心・信解は同一人の上にあって、深心が初めにあり、信解はあとにある。
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