第二十三 鎮護国家章
(真言密教には仁王般若波羅蜜経、守護国界主陀羅尼経、仏母大孔雀明王経等の種々の護国の経典あり、七難を摧滅し国家を鎮護し蒼生を利生するの秘法を説き給う。我らの祖先、先徳はいずれも皆この秘法を運用して国家を鎮護された。大師も国家の為に修法する事51度に及ばれている。真言宗徒は祈る時は必ず先ず鎮護国家、万民豊楽の祈念を凝らし、世務に従事する時はひたすら国利民福の為に尽くすべし。鎮護国家・万民豊楽を祈るのは真言宗徒の義務である。)
真言一家には仁王経(仁王般若波羅蜜経)、守護国界経(守護国界主陀羅尼経)、佛母明王経(仏母大孔雀明王経)等の種々の経典ありて、佛これらの経典に於いて特に七難を摧滅し四時を周知し国家を鎮護し蒼生を利生するの秘法を説き給へり。我らの祖先、先徳はいずれも皆この秘法を運用して国家を鎮護し給へり。恵果和上、我が高祖大師に一百余部の金剛乗経、祖師の嫡伝の法器等一切付属あらせらるる時、慇懃に告げ給はく「早く郷国に帰って以て国家に奉り天下に流布して蒼生の福を増せ。然れば則ち四海泰く万民楽しまん。これ則ち佛恩を報じ四徳を報ず。国の為には忠なり、家に於いては孝也」(「御請来目録」)と。高祖大師御帰朝の後は数百部の章疏を製して真言密教を弘布し給ひしは、言を俟たず。或は室生山に八祖相承の如意宝珠を蔵め、或は勅命を奉じて神泉苑に雨を祈り、文字をつくり、学校を設け(綜芸種智院、いまも種智院大学として存続)、山野を拓き、沼沢をうがち、高野山を草創し、東寺を以て真言の根本道場となし、その御入定になんなんとして宮中真言院に御修法の洪範をのこさせたまふ等、これらは皆悉く鎮護国家の本願より出ざるはなし。この故に後宇多法王は大師の伝記を御撰述あらせられ「帝、四朝を経て国家の奉為に壇を建て法を修すること五十一箇度、鎮護国家の基、大師の加持力に依らざる事無し」(国宝「後宇多天皇宸翰弘法大師伝」に、「第八祖大日本国贈大僧正法印大和上位諡弘法大師は讃州國多度郡の人也。法の諱は空𣴴、遍照金剛と号す。大唐青龍寺恵果和尚の付法なり。大日如来の七葉を以て両部の大法を承し、漢梵差無く悉く以て伝受す。夫れ両部の秘法は諸仏の奥蔵即成の径路なり。訶陵新羅之英傑、剣南河北の俊才、各々一果を得て兼ねて亦両部の灌頂をもって聴く事能わず。義明供奉に授くといえども法水流れず。ここに知んぬ、法身如来の正脈は独り大師の一流に属する而已矣。大師生まれて父母に在りしとき、童稚の夢に諸仏と語ると見る、佛を造って礼を作すを事とす。志学にして石淵の贈大僧正に虚空蔵の法呂を受け、入心念持し名山勝地に悉地速に成す。年二十にして出家し、二十有二にして具足戒を受け、乃ち仏前に誓を発して大毘盧遮那経を日本国高市郡久米の東塔下に感得し、渡海の大願を是に中心に萌す。蓋し是和尚鈎索の加持、三蔵師資の因縁なる耳。遂に乃ち延暦二十三年孤帆を松浦の波に飛し、五瓶を蓮台の月に浴す。乃ち和尚告げて曰はく、汝西土にして也我が足に接す、吾れ東生して汝が室に入らん、久しくとどまること莫れ、吾は前に在りて去らんと也。先ず金剛杵を投じて南山の勝地を卜す。則ち大同元年帰朝し請来の秘教を録して上表以聞す。爾りし自り以降、一人三公武(あと)を接して躭翫し四衆万民稽首して鼓篋(こきょう、つづみで始業を知らせ、書篋を開くこと)す。神泉の祈雨には龍神形を現じ、金(門構えに報)の震居には金色光を放つ。或は日輪夜を照らして蘇生途に于(たたず)む。難思加持の力、楚竹の記するところに非ず。弘仁十四年勅して東寺を給ひ、永く密教の場と為す。帝四朝を経て国家の奉為に壇を建て法を修すること五十一箇度、鎮護国家の基、大師の加持力にあらざる無き者乎。天長九年紀州の南山に住し深く穀味をいとひて専ら坐禅を好む。此の地は去る弘仁七年表請して入定の処と為す。擬するは来日二十一日寅の刻なり。吾れ入定の間は兜率他天に住して慈尊に侍し五十六億余年の後、必ず慈尊と共に下生して吾先跡を問ふべし、未だ下らざるの間は微雲間より信否を察すべし。この時勤あれば祐を得、不信のものは不幸ならん、と。期日爰に至り乃ち結跏趺坐して奄然として入定す。春秋六十二、夏臈四十一、慧光光を秘し法雷猶ほ春の如し。肉身壊せず、松檟封閉しぬ。運歩恩に泣く。ああ悲哉。正和四年三月二十一日」以上国宝「後宇多天皇宸翰弘法大師伝」より)
と賞賛し給へり。さればいやしくも我が真言の法を汲まんものは礼佛念誦する時は必ず先ず宝祚延長、万民豊楽の祈念を凝らすべく、出でて産業世務に従事する時はひたすら忠孝の大道を歩み国利民福の為に尽くすべし。是即ち真言宗徒の本分なり。