明石寺から44番大宝寺までは80k徒歩で約 16時間の距離です。大体いつも途中泊まりとバスをお組み合わせて44番太宝寺には夕方ふらふらで着きます。44番大宝寺の境内は樹齢数百年の杉や桧が林立しており幽邃です。寺は大宝元年(七〇一)に、百済の僧がこの地に草庵を結び十一面観世音を安置したのがはじまりで、後に開創当時の年号、大宝年間にちなみ大宝寺として創建、のちにお大師様が四国88番霊場に定められたということです。保元年間に後白河法皇が、元禄年間に住持の雲秀法師がそれぞれ再興し、現存の本堂は大正十四年の再建とされます。
一回目の時、ふらふらで歩いていると上り口にある売店のおじいさんがジュースを接待してくださった上に、遍路宿まで軽四輪に乗せてくださるというのです。助手席で私が「ここの久万町の名はお大師様を大切に接待した「おくまさん」からきているらしいですよ」と話すと、( 地元には「むかし、お大師様がここの山里の一軒家で「おくま」という老婆に接待してもらい、大師がお礼に此の山里を人でにぎわう里にしてあげた」という言い伝えが残っているようなのです。)おじいさんは運転中なのにハンドルから手を離して合掌してしまいました。
このあと送り届けてもらった遍路宿の主人にこのおじいさんの店の電話番号を調てもらい電話で改めてお礼をいいました。
ただ2年後の19年に再開を楽しみに訪れたときはもうこのおじいさんの店はありませんでした。相当のお年の夫婦だったので店をたたんだのでしょうか。時の流れの残酷さを感じました。
「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず。」と劉希夷の「白頭を悲しむ翁に代わる詩」を思い出します。
(「代 悲 白 頭 翁 (白頭を悲しむ翁に代わる)劉 廷 芝
洛陽城東 桃李の花 飛び来り飛び去つて誰が家にか落つ 洛陽の女児は 顔色を惜しみ 行くゆく落花に逢ひて長歎息 今年花落ちて顔色改まり 明年花開いて復た誰か在る 已に見る松柏の摧かれて薪と為るを 更に聞く桑田の変じて海と成るを 古人 復た洛城の東に無く 今人還た対す 落花の風 年年歳歳 花相似たり 歳歳年年 人同じからず 言を寄す 全盛の紅顔子 応に憐れむべし 半死の白頭翁 此の翁白頭 真に憐れむべし 伊(こ)れ昔 紅顔の美少年 公子王孫 芳樹の下(もと) 清歌妙舞す 落花の前 光禄の池台に 錦繍を開き 将軍の楼閣に 神仙を画く 一朝病に臥して相識る無し 三春の行楽 誰が辺にか在る 宛転たる蛾眉 能く幾時ぞ 須臾にして 鶴髪乱れて糸の如し 但看る 古来歌舞の地 惟黄昏(こうこん)鳥雀の悲しむ有るのみ」。
日本巡礼記集成(弘法大師空海刊行会、昭和60年) によると「昭和50年頃、北海道の中谷という人(当時60歳)がお蔭を受け、ここで目がみえるようになった」とありました。
一回目の時、ふらふらで歩いていると上り口にある売店のおじいさんがジュースを接待してくださった上に、遍路宿まで軽四輪に乗せてくださるというのです。助手席で私が「ここの久万町の名はお大師様を大切に接待した「おくまさん」からきているらしいですよ」と話すと、( 地元には「むかし、お大師様がここの山里の一軒家で「おくま」という老婆に接待してもらい、大師がお礼に此の山里を人でにぎわう里にしてあげた」という言い伝えが残っているようなのです。)おじいさんは運転中なのにハンドルから手を離して合掌してしまいました。
このあと送り届けてもらった遍路宿の主人にこのおじいさんの店の電話番号を調てもらい電話で改めてお礼をいいました。
ただ2年後の19年に再開を楽しみに訪れたときはもうこのおじいさんの店はありませんでした。相当のお年の夫婦だったので店をたたんだのでしょうか。時の流れの残酷さを感じました。
「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず。」と劉希夷の「白頭を悲しむ翁に代わる詩」を思い出します。
(「代 悲 白 頭 翁 (白頭を悲しむ翁に代わる)劉 廷 芝
洛陽城東 桃李の花 飛び来り飛び去つて誰が家にか落つ 洛陽の女児は 顔色を惜しみ 行くゆく落花に逢ひて長歎息 今年花落ちて顔色改まり 明年花開いて復た誰か在る 已に見る松柏の摧かれて薪と為るを 更に聞く桑田の変じて海と成るを 古人 復た洛城の東に無く 今人還た対す 落花の風 年年歳歳 花相似たり 歳歳年年 人同じからず 言を寄す 全盛の紅顔子 応に憐れむべし 半死の白頭翁 此の翁白頭 真に憐れむべし 伊(こ)れ昔 紅顔の美少年 公子王孫 芳樹の下(もと) 清歌妙舞す 落花の前 光禄の池台に 錦繍を開き 将軍の楼閣に 神仙を画く 一朝病に臥して相識る無し 三春の行楽 誰が辺にか在る 宛転たる蛾眉 能く幾時ぞ 須臾にして 鶴髪乱れて糸の如し 但看る 古来歌舞の地 惟黄昏(こうこん)鳥雀の悲しむ有るのみ」。
日本巡礼記集成(弘法大師空海刊行会、昭和60年) によると「昭和50年頃、北海道の中谷という人(当時60歳)がお蔭を受け、ここで目がみえるようになった」とありました。