福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「日光山縁起(原文)」

2024-07-26 | 諸経

「日光山縁起(原文)」

(あらすじは以下にあり。

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiU3PLrjdz4AhXXd94KHUhhCcMQFnoECAUQAQ&url=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E6%2597%25A5%25E5%2585%2589%25E5%25B1%25B1%25E7%25B8%2581%25E8%25B5%25B7&usg=AOvVaw3_khG9FFpo3EhFMyWi105b

 

 

(原文)

夫れ鶏子の如くまろがれ(日本書紀に「古天地未剖、陰陽不分、渾沌如鶏子」)遊漁の如くただよひし世には、混沌あひわかれず、乾坤いまだあらはれざりき。其の後すみあきらかなるは天となり、をもくにごるは地となり、二儀ここについでて万物ここにそなはりしより、天神地祇ひかりを秋津洲にやはらげ、宗廟社稷あとを瑞穂国にたれつつ、八百万神あまねく四海八埏のかためとなり、三千余座いずれも五畿七道のまぼりとなり給て、鎮護国家の宗神として済生利物の善巧ましますといへども、東山下野國日光山満願大菩薩の利生、ことに余社にすぐれ給へり。 其本地を訪へば、妙観察智の所変、施無畏者の応跡なり。 等覚妙覚の位を辞て、男躰・女躰のかたちをあらはし給へり。実報寂光の日の光三嶽の嶺にほがらかなりといへども、利生方便の風の音は一山の麓にしつ゛かなり。天象を垂れ、聖人是に則るといへり。まことに煙霞を天にかり水石を地にゑくへり。然則、奇木霊樹のならべるを見ては神仙の所居かとうたがひ、恠巌古石のそばだてるを見ては異人の化體かとあやまつ。

神明降臨の後、仏法又流布せり。弘仁十一年の初秋には遍照金剛この砌に来会して理趣三昧の法席をのべ、嘉祥元年の孟夏には慈覚大師此の山に参詣して円融三諦の教門(天台宗で、空・仮・中の三諦が相互にとけ合っていること。)をひらく。自爾已降仏神の霊験いよいよあらたに、顕密の弘通ますますさかんなり。十如実相(法華経に説く、如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等。)の窓の前には春の花一色一香の風(『摩訶止観』に「一色一香も中道にあらざることなし」)に匂ひ、三密瑜伽の壇の上には秋の月五智五瓶の水にうかぶ(灌頂では如来の五智をあらわす五瓶水を弟子の頂上にそそぐ)。山を二荒と号す。陰陽の理をあらはし、社を三所(男体・女体・太郎)にわかつ、三才(天地人)をかたどれり。

しかるに流れを汲みて源を尋ぬるならひなれば、此神応現の玄風ををしはかるに、翰墨ののせたるもなく、伝記のしるせるもなし。社壇の為体、いく千万歳月を送れりとも見えず。松柏風老て枌楡霜ふりぬ(漢の高祖が、故郷の社にあったニレの木を都に移し、神としてまつったところから、神聖な場所のこと)。わつ゛かに邑老村叟(村の老人たち)の口実として有宇中将(架空の人物だが俊寛の子の有王を連想させる。日光権現(男体権現・本地は千手観音))の御後身なりといふ一巻の縁起あり。之に因りて我朝大中将のをこりを尋ぬるに聖武天皇御宇神亀五年728にはじまれり。吾神其の後の朝に仕給はずは、いかかがこの官に任じ給はん。但、弘仁七年816四月に勝道上人の丹誠にこたへて、三所権現かたちをあらはしての給く「我此山にあって二千八十余歳」と云々。弘仁七年816より百王(平安時代末期・鎌倉時代、天皇は百代で尽きるという百王説が広まった。)の元祖日本磐余彦尊まで一千七百余年まてのこり三百余歳は地神の第五鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあわせずのみこと)のすゑにかかれり。加之、弘法大師の碑の文の序をひらいたり、云く「精歳のしるすことなきをいかり王侯(古代中国の隠者)の遊ばざるを惜しむ。」(注1)と云々。上古なほ其由来をしらず。権者又化現のはじめをしらず。ここに国つ神の御すゑ二荒の尊のあらはれ給へるといふ説あり。ただ感見の不同は水の方円の器にしたがふがごとく、利生の掲焉(けちえん)は月の巨細の流れに浮かぶがごとくなるべし。随類応同(随機説法)の色身なれば未来に大中将の官途あるべきことをかがみ給ひて、名をあらはし給ふか。又普門示現の垂迹なれば、凡夫のまへに姓名をかくして朝に仕へ奉給といへども、神となり給て後その官途をしめし給へるか。しばらく士女の信心をすすめんがために、仮名縁起につひて是を後索(挿絵。これには挿絵が付いていた)にあらはす。抑々花洛に一人の雲客おはしき。有宇中将(日光権現(男体権現)…本地は千手観音)と申しき。才芸世にすぐれ、忠勤人にこへ給ひしかば、御門の御おぼえ、人のおもくする所、まことにかたをならぶる人なかりき。然るにいかなる宿縁にや、明暮鷹をこのみ給ひけり。さるほどに霞立春の朝にはかたむ(矢をしぼる)きぎす(雉)のおちかたを尋て日をくらし、嵐ふく秋の夕には初鳥狩(秋の鷹狩)の野遊に興をもよほして時を移し給ひしほどに、花下に筆硯をならす御遊には竜顔にまみえずして日を送り、月の前に絃歌にたずさわる興宴には鳳闕(宮廷)をへだてて夜をかさね給ひしあひだ、律は懲粛(こらしめ戒める)を宗とし、令は勧誡を本となすならひなれば(「弘仁格式序」「蓋し聞く、律は懲粛を以て宗と為し、令は勧誡を以て本となす。」)御勘気のよし宣下あり。中将おぼしけるは、夙夜(明け暮れ)の勤労なければつみをかぶる。これ君をも世をも恨奉べからず。野遊をとどめんとすれば鷹(本地は虚空蔵菩薩)も犬(本地は地蔵菩薩)も心ある事人倫にすぎたり。かれらが心ざしをもださんも不便なり。しかじ、いかならん野のすゑ山のおくにもたちかくれんにはと、おぼしめし、青鹿毛(太郎大明神(太郎権現)…本地は馬頭観音)といふ御馬にむかひ仰けるは「我勅勘をかうぶれり。いずちにても心しずかならん所へをくりてんや」との給ひければ、馬涙をながし、立よりのせ奉りけり。人は一人もめし供すべからず、鷹と犬とは御とも申べきよし仰せければ、鷹は雲の上とて大鷹のせをなりけるが御手にとびうつりければ、犬は阿久多丸(本地は地蔵菩薩)とて頭しろく尾くろかりけるが、御さきに立ちつつともになみだをながして、都をあくがれ出させ給けり。

中将馬にまかせて行き給ふほどに、七日と申すに東山道下野国二荒山に付き給ひぬ。かしこに川あり、水ふかくしてむかひの岸にいたりがたし。しかるに川のはたに山菅(やぶらんのこと)生ひかかれり。是を橋としてわたり給ひ、一夜とどまらせ給。あけければ又馬にまかせて出させ給ふ。かくてもとのごとく山すげのはしうちわたり、しめじが原(栃木市の北方にあった野原。[歌枕]「なほ頼め―のさせもぐさわが世の中にあらむかぎりは」〈新古今・釈教〉)の朝露にたびたもとをぬらしつつ、那須のしの原(那須町、那須塩原市、大田原市「もののふの 矢並つくろふ 籠手のうへに 霰たばしる 那須の篠原 「金槐和歌集」」)はるばると、けふ白川の関こへて(拾遺集「便りあらばいかで都へ告げやらむ今日白河の   関は越えぬと」)あさかのぬまのはなかつみかつみぬかたに旅立ちて(古今和歌集「みちのくのあさかのぬまの花かつみかつみる人に恋ひやわたらん」)三日と申すに、さもいみじげなる人の家のゑある所につかせ給。館のうちを見入り給へば、門の有さま、家のつくりやう、まことにゆゆしきさまなり。門前たる小家にやどをかりて、二三日とどまり給。あるじの女房にむかひて「いかなる人ぞ」との給ひければ、「あさ日の長者殿とて、みちのくに其かくれましまさず」と申しけり。「この御かたに宮仕なん申さん、いかが」と仰せければ「公達はおはせず、十四歳にならせ給ふひめ君(女体権現…本地は阿弥陀如来)一人おはす」ともうしければ、是を聞給ひてやがて御こころうつらせ給ひけり。

さて「姫君の御かたなりとも宮仕はいかがあるべき」と仰せければ「わらはがむすめ、彼御かたにさやけきと申して御美女なり。かれにおほせあるべし」とて、よびてまいらせけり。中将姫対面ありて、たがて御文あそばして、さやけきにたばせ給。さやけき、いかがとためらひけるが、中将殿の御有様のなべての世の人とも見えさせ給はざりければ、めでたてまつりて、やがて姫君に奉りけり。ひらき見給へば、

をとにきくあさ日の影をいかにして 袖にうつさん雲の上人

姫君、かほうちあかめ給ひて、もれも聞えてはあしかりなんとおぼしめして、母上にまいらせ給ひけり。母上いそぎ長者殿に申させ給ければ、の給ひけるは「さりぬべき人にてぞおはすらん。そのうへ雲の上人なんどいへるもよしあるさまなれば」とて、やがていれ奉て見まいらせ給へば、ただ人とはみえ給はず。彼彦火火出見の尊の、兄の尊の鉤をうしなひて是を尋ねんために、わたつみの宮の城闕うるはしき所にいらせ給たりしに、御すがたのてりかがやき給へるを、海の神見奉りて、御女豊玉姫にあはせ奉つついつきかしつ゛き給ひしもかくやとおぼへたり。其の時長者見奉て、まことにただ人にておはせざりけりと、悦びつつひめ君のもとよりすみ給ける西の対をしつらひて、つねの御所とぞさだめける。御なか浅からざりければ、長者おもひけれるは、われ一人の姫をもちて、蓮府槐門(高官)の北政所とも見奉ばやと、とし比仏神にも祈誠あさからざりしに、その荒増のすゑとをりぬるにこそと(目的を達することができたと)よろこびけり。かくて御なからひあさからずして、六年すぎぬ。都には中将うせ給ひしかば、父大将母上のばげきかなしみ給事かぎりなし。御門も一たんの勘気にてこそありつるに、いつ゛くともなく成給ふ事をおどろきおぼして、国々へ勅使をくだして御尋ありけり。あるとき中将、ひるねせさせ給ひける御夢に、いつ゛ちともなく萩薄生茂りたる野原のまことに心すごき所に、うす絹のすそ露にうちしほれたる女房ただ一人立給へり。いたはしとおもひて立ちより見給へば、我母にておはせり。中将を見奉りて袖もしぼりあへず、仰せけるは「都にすてをき給ひしそのなげきに、月日のゆくもおぼえ侍らねども、はや六とせになりぬ。此おもひ故、われこの世になき身となりにき」とて、さもうらめしげなるけしきにて、道もそこはかとなき野中をにしへむきてゆき給、とて、夢うちさめぬ。さては都へかへりても見たてまつらん事あるまじけれども、せめてのなぐさみに御跡なり共、とおぼしめして、朝日の君にの給ひけるは「我母都におはします。かくとも申さであくがれいでしが、御恋しければ、しばらくの御いとまを」とて、又都のそらにおぼしめしたちけり。

あさ日の君、「もろともに」と仰せけれども「このたびはぐそくし奉べからず」と仰せければ「さらば道すがらの供奉の人なんどを」と申させ給ひければ、中将の給やう「われ都を出し時も馬と犬と鷹計りなり。いまも是にすぐべからず」と仰せあれば、あまりの御おもひに、はなだの帯を結びつつ、たがひにもち給て「我も人もわかるることあらばとけなん」とちぎり給。又申させ給ひけるは「行末に川あり。つまさか川と申せり。此の川の水をのみぬればふたたび妻にあはずと申すなり。かまへてのみ給な」と仰せけり。様々行給ふほどに、一日ゆきて大川あり。彼の水を御覧ずるより、のまんと思給事かぎりなし。さりながら人のおしへをおぼしめし出て、わたらせ給ひけるが、命もたへぬべかりしほどに、ちからなくのませ給けり。それより御身いたはりて川ちかき野辺に五日ふしなやみ給ひけり。されどもいき吹きいでさせ給ひけり。

さて馬に向かって仰せけるは「我命ながらふべしともおぼえず。いつ゛へも心しつ゛かならむ所へとくとくぐそくせよ」と仰せければ、立よりのせ奉りて、はじめ一夜とどまらせ給ひたりし東山道の山中へいれまいらせぬ。それより都の母上へ御文まひらせ給ふ。「夢に見奉ていそぎ都へのぼり侍る道にて所労をうけ、しらぬ山路の露と消えぬ。今生の宿縁うすくとも、来世の契りはくちずして見みへ奉らん」と心ぼそげにあそばして、鞍の前輪にむすび付つつ「汝とし比の心ざしおもひしらば、この文都へもてまいれ」と仰せければ、馬涙をながして都のかたへいそぎけり。又朝日の君へも文こまごまとあそばして、かくなむ、

契をきしつまさか川の水ゆへに 露のいのちとなりにけるかな

とあさばして、鷹にむかひての給ひけるは「馬は都へゆきぬ。汝この文朝日の君に奉れ」とてたばせ給。さるほどに朝日の君のはなだの帯とけたりけるほどに、あやしみて、夜にまぎれあくがれ出給つつ、七日と申すに妻離川(阿武隈川)につき給ひぬ。いつ゛くともなく、たかとびきたりて御文をおとす。中将殿の御ふみなりければ、やがて御返しあり。

むすびをきしはなだの帯をしるべにて わかれし君を尋てぞゆく

「われよりさきにとくして奉れ」と仰せければ、たか、いそぎ飛びかへりけり。

都には中将殿の母上かくれさせ給ひて、七日の御いとなみ有けるに、馬、大将殿の御坪へ入りていばへりけり。人々見知りて「是は一とせ中将殿のめして出させ給ひし青栗毛あんり。中将殿のいらせ給ふか」と申しければ、大将殿もいそぎ出させ給ひて御覧ずれば、鞍に御文をつけたるばかりなり。いそぎとりあげ見給へば、最後の御文なり。大将は北の御方の御わかれにこの御なげきさしそひて、御心中をしはかるべし。

中将殿の御弟に有成の少将とておはしましけるが、父大将殿に御いとまを申して、馬をしるべにて下らせ給けり。ほどなくふかき山路へ入り給ひぬ。いそぎ中将のおはす所へ立ち寄り見奉給へば、はやうせ給けり。最後の御すさみとおぼへて、御枕がみに引きむすばせ給ふ。

尋ねこん人にあふせを待ちかねて むなしくならんことをこそおもへ

かたはらを見給へば朝日の君の返事をもおかれたり。はや旅立ち給へるよしみえ侍りぬ。浅からぬ御なからひゆへにこそ、はるばるともおぼしめし立ぬらめ。我都よりくだりしは、ことのかずにてもなかりけり。さてはかくし奉らでこそ、」せめてはかわれる御すがたを見せまいらせつつ、我が身のなげき人の御おもひをもかたりてなぐさみにも、とおぼしけるが、ならはぬ旅の御有さま、涙にしほれ露にぬれさせ給ひて、さこそ御道のほども心ぐるしくおはすらめ、青栗毛とても道をしれり。いそぎ御むかへに参らん、とおぼしめしてたち、くだらせ給ふほどに、朝日の君はみちすがら御おもひに、日数はふれどもいまだ御道はいくほどなくて、妻離川のほとりにて行あひ給ひぬ。少将あやしみ奉り、いそぎ

馬よりおりつつ「是は中将のおととにて候なり。馬は青栗毛なり。御覧なれ侍ぬらん。われ中将を尋ねて下向して候へば、はやむなしくなり候ひぬ。岩のはざま苔のしたにもかくしをくべく侍れども、いま一たび見せ申さむがために、御むかへにまいれり」とて、それより御馬にたすのせけ奉て、我は身をやつしつつ、旅人なんどのやうにてともなひ申させ給けり。それより妻離川をあふくま川(阿武隈川)と申せり。(以上、日光山縁起上)

 

日光山縁起下

然るに中将死給ひて、炎魔王宮にいたりて見給へば、門外に我母もきたり給へり。又側より女房来たれり。朝日君なり。互いに見あひて涙をながす。そのおもひ燃となり庁中にみちみてり。第三の俱生神のいはく「二人の女は非業(地獄への定めがない)なり。娑婆へかへすべし。有中将定業なり。浄頗梨の鏡のおもてにまかせて善悪業を知るべし」とぞ仰せける。浄頗梨の鏡を見るに有中将業因のがれなし。しかれども過去に宿願あるによって無間の苦患をばのぞかりけり。其の故は中将は先生に二荒山の猟士なり。かれが母・子をやしなはんために山に入、爪木(薪用の枝)をとり菓を拾ひけり。猟士は鹿をからんがために山に入ぬ。母は寒さふせがむがために、鹿の皮をきたりけるが、木の下草のふかき所ににて菓をひろひけるを、猟士、鹿と思て射てんげり。立よりて見れば鹿にはあらず、我が母なり。れうし、「かなしきかなや、母子ともに貧苦なかりせば鹿をかり、たき木をとるわざなからまし。しからば目の前に母をゑころさんや」。母申しけるは「われ年老よはひかたぶきぬ。ながらふるとも余命いくばくほどならじ。かつは前世の宿業なり。ただ汝が五逆罪こそいたはしけれ」とていきたへ、まなことち゛ぬ。

「猟士は死苦をばうくるとも貧苦をばうくべからずといへるもことわりなり。我ねがはくは、この山の山神となって、生々世々に貧苦のものをたすけんといふ願あり。いそぎかへしてこの願はたさせよ」と、炎魔王の給ひければ、やがてよみ帰りにけり。此猟士は有宇中将と生まれ、母は青栗毛と生まれぬ。雲上といふたかは子なり。阿久多丸といふ犬は妻なり。中将蘇生の後、あさ日の君御懐妊有て一人の御子おはしき。馬頭御前と申しき。是は青栗毛が生まれ変われるなり。さて中将殿上洛ありて、次第の昇進かかはらせ給はず大将にうつり給ぬ。東八か国ならびに陸奥迄しらせ給ひけり。みちのくをばあさ日の君の御父長者どのにたばせ給。馬頭殿七歳のとき都へ上り給ひて、帝王の御めにかからせ給。十五歳にて少将になり給。いくほどなくて中納言にうつり給ふ。

中納言又都より御下りありて朝日長者殿へいらせ給ひけるとき、一夜めされたりし女房のその腹に男子一人おはしき。三歳のとき父の見参に入給ぬ。中納言殿御覧ずるにあまりかたち見にくくおはしければ、都へも上り給はで、奥州小野といふところにすみ給ひけり。小野猿丸と申せり(この『日光山縁起』に拠ると、小野(陸奥国小野郷)に住んでいた小野猿丸こと猿丸大夫は朝日長者の孫であり、下野国河内郡の日光権現と上野国の赤城神が互いに接する神域について争った時、鹿島明神(使い番は鹿)の勧めにより、女体権現が鹿の姿となって小野にいた弓の名手である小野猿丸を呼び寄せ、その加勢によりこの戦いに勝利したという。)弓箭をとて人にすぐれたり。百たびはなつ一たびもあだ矢なし。空とぶ鳥、地をはしるけだもの、一としてもることなかりけり。

さても有宇中将は大将にあがり給ひていくほどなく、神とあらはれて、東八か国中にも下野の鎮主となり給へり。爰に上野国赤城大明神と湖水のさかひをあらそひ給つつ、たびたび神軍あり。此の事なのめならぬ大儀なれば、鹿島大明神を請申させ給ひて、軍の評定あり。日光権現、鹿島大明神にこのことを申合給ひければ、鹿島の大明神仰せけるは「奥州の御孫、猿丸大夫ゆゆしき弓とりなり。かれを御憑みあて御本意をとげらるべし」とありしかば、女躰権現、せなかに金のほし三ある鹿と現じ給ひて、みちのくあつかし山(福島県伊達郡国見町厚樫山(阿津賀志山))へいらせ給。猿丸大夫、世になき鹿ぞと目をかけて、かるかの山ををひすごして日光山に入りにけり。権現、猿丸を日光山へおびき入れ給ふ。これにて鹿はうせにき。権現あらはれ給て、猿丸におほせける様、「もことに鹿には非ず。汝をこの山に引き入れん方便なり。我は満願権現なり。汝も此山をおろかに思べからず。さてふかくたのまむためなり。

そのゆへは上野国の赤城の大明神、我国の海山をうばひとらんとす。是によりてあひたたかふ事数度なり。然れどもいまだ勝負なし。汝天下無双の弓とりのきこえあり。力を合わせてこの本意をとげなんや」と仰せ有ければ、事やすげに領状(承諾)申されければ、三所権現(男体山・千手観音。 女峰山・阿弥陀如来。太郎山・馬頭観音)ゑみをふくませ給て、合戦は明日午の時(午前11時)とぞさだまりける。

御方の神兵雲霞のごとく打たってをのをの軍の内談まちまちなり。中にも猿丸太夫とぞたもに入り給ひける。漸(ようよう)天も明けしかば、猿丸太夫、ふし柴の茂みが中にやぐらをあげて、御敵いまやいまやと待かけたり。さるほどに空かき曇り、山風しきりに草木をなびかし海上に白浪立わたりぬ。猿丸おもひまうけることなければ、弓の絃くゐしめし、そぞろ引て待ち居たり。ここにかたきかとおぼしき者、海のおもてにうかび出たり。両眼はかがみをならべたるがごとし。そのかずおぼしきあしは、百千の火をともしたるにことならず。権現は大蛇の躰にてぞおはしける。かたきみかたのどよむこゑ、山をひびかしけり。雲の上海のそこなる神とどろき、いなずまひらめきて、まことに耳目をおどろかせけり。かたきは百足たり。かがやくはななこなりと見さだめしかば、三人張に十五束の中ざし(征矢)取りて打つがい、吉引(よっぴき)しばしかためて、兵とはなつ。かぶらは海上にひらめきわたり、百足の左の眼に箆ぶかに立にけり。大事の手なればかなはで引退けり。

権現おん敵をば猿丸うちおほせぬ。しかるに権現、彼の忠節のいたりをかんじおぼしめして、猿丸におほせけるは「汝が弓の力をもて、我が宿意をとげて敵をほろぼし国を取りぬ。汝がはじめをおもへば我孫なり。此の国を今よりゆずるなり。」と仰せければ、猿丸もいさみをなし、諸神悦て舞をまひ歌をうたひ、悦遊ひしほどに、湖水の南の川原をうたの浜とは申すなり。

猿丸見給へば、三のたけより紫雲たちくだり、湖水のうへに五色の浪たちて、異香風に薫ぜり。あやしき雲のうちより一の鶴飛びくだれり。左の羽の上へには馬頭観音あらはれ給、右の羽の上には大勢至菩薩みえたまふ。彼の鶴即ち女人に変じて猿丸に告げさせ給ひき「馬頭観音は太郎大明神也。勢至菩薩は汝が本地なり。汝は恩の森の神となりて彼の麓の衆生を導くべし」とてうせ給にき。

かたじけなくも権現は、下野国にては日光三所と現じ給ひ、常陸国にては鹿嶋大明神とあらわれ給ひぬ。 過去にては夫婦となり給ひしなり。 人のいみじくなるをそねみまづしきをわらふものを利益すべからず、貧窮孤独のものをあはれむべし、とのちかひなり。 抑雲上といふ鷹は本地虚空蔵菩薩是なり。 阿久多丸といふ犬は地蔵菩薩、今は高尾上とあらはれ給き。 青栗毛といふ馬は、かたじけなくも太郎大明神、馬頭観音の垂跡なり。 有宇大将は男躰権現、本地千手観世音、朝日の君は女躰権現、阿弥陀如来の化身也。昔勝道菩薩、仏法興隆の志ありて当山へ分け入り給し時、岸たかく川ふかくして渡ることを得ずして、祈精し給ひしに、深砂大王現じ給ひつつ「われ玄奘三蔵の為に流砂の難をたすけき。和尚の心ざしこそここに現ぜり」とて二の竜をむすんでなげ給へば、橋となりぬ。是をふみわたり給ふ。

其の後一男太郎大明神、同国河内郡小寺山の上にうつりましまして、若補陀落大明神と号し奉る。社壇の南に大道あり。かしこを過る輩。下馬の礼をいたさず、もし秋毫の誤あれば、神明怒をなし刑罰しるしあり。仍って瑞垣を北の山にうつし奉る。彼二荒山の松壖(ぜん・空地)は内宮の儀をかくし、此如意峯の叢祠は外宮の理を表す。内証外用(悟りと利他行)ことおなじといへども、和光同塵の本誓当社なほすぐれ給り。何者、さかひ結界にあらざれば、五障の婦女もあゆみをはこび、縁に順逆をきらはれざれば、四重(殺・盗・淫・妄)の悪人もたなごころをあはす。しかのみならず飛流伏走のたぐゐをして、長劫の生死をつつ゛めて菩提の覚岸にいたらしめん。値遇結縁のためには、あるひは是を贄にかけ、あるひはこれを胙(ひもろぎ)にそなふ。大慈大悲の方便は藍より出てあひよりあをきなるべし。承平年中(931~938)将門賊兵をおこししとき、神威をたのみしかば、まのあたり神剣社頭より出て、賊首を九重につたへ給ふ。即ち正一位の尊号を贈り給しより五ケ度の征罰(将門・安倍貞任・平家・藤原泰衡・蒙古)この神の力なり。しかれば代々の聖守、家々の将軍、崇敬したまはざるはなし。

凡そ彼社壇は四神相応(北の玄武、東の青龍、南の朱雀、西の白虎。北に亀山が鎮座し、東に稲荷川が流れ、南は大谷川、西には中禅寺道)の勝地なり。青龍の川東に流れ、白虎の道西に長し。前には池水ふかくたたへて、神龍顎を九淵のそこにかくし、後には山巌たかくそばだって、靈亀かたちを一嶽のよそほひにあらはす。地景はなはだ優れ、祭礼又あらたなり。所謂春渡冬渡の祭礼は、公家の勅願よりおこり、三月五月の会式は(三月十五日は稚児の延年の舞。五月十七日も延々の舞や春季大祭)武将の祈念よりはじまれり。重陽宴の菊水は潢汙の水(神前の池水)のいさぎよきにうかび、秋山かざりの紅葉は蘋蘩の奠(わずかの浮草や蓮でも神への供え物になる)のこまやかなるをかたどる。吾田屋もりのなる子のつなでは、ながく天の邑幷田(日本書紀に「是後、日神之田有三處焉、號曰天安田・天平田・天邑幷田、此皆良田」)のむかしの跡をしのび、御狩司の鈴倉の燎火の影は、ほのかに占部かたやきのふるきことのはをのこせり。」(日光山縁起終わり)

 

 

 

 

 

(注1)「沙門勝道山水を歴て玄珠(げんじゅ、悟りを求める心)を瑩く碑並序

沙門遍照金剛撰」

蘇巓鷲嶽(そてんじゅがく、須弥山・鷲峯山)は異人(佛菩薩)の都するところなり。達水龍坎(だっすいりょうかん、龍の棲む池)は霊物ここにあり。夫れ境、心に従って変ず。心垢るれば境濁る。心は境を逐って移る。境しずかなるときは心ほがらかなり。心境冥会して道徳(絶対の働き)はるかに存す。

能寂(釈迦)常に居して利見し(仏がみそなわし)、妙祥(文殊)鎮(とこしな)へに住して接引(仏道に引き入れ)、提山(お地蔵様の佉羅陀山)に迹を垂れ孤岸に津梁たるがごときにいたっては(補陀落山において衆生を済度したことは)ならびに皆仁山により智水につかずということなし(「仁者は山を楽しみ智者は水をたのしむ」ということ)。

台鏡みがき磨いで(無私の鏡を磨き)機水に俯して応ずるの沙門勝道といふものあり。下野芳賀の人なり。俗性は若田氏、神救蟻の齢にはるかして(15歳に及ばぬくらいの時)意(こころ)は惜嚢(具足戒をうける20歳)の歯(とし)に清し。四民の生事(庶民のいきざま)に桎枷せられて、三諦の滅業に調飢す(真・俗・中の3つの真理により業を滅したいと渇望した)。聚楽の轟轟たるを厭うて、林泉の皓然(あきらか)たるを仰ぐ。ここに同じき州に補陀落山あり(日光山は弘仁年間以前にすでにこうよばれていた)。蔥峯銀漢(青青とした山は雪をふくみ)を挿み、白峯碧落(青空)を衝けり。磤雷(さかんな雷)腹にして「た」(鰐)のごとくにほえ、翔鳳足にして(鳳凰はふもとで)羊の如くに角(いそ)ふ。魑魅通ふことまれなり。人蹊また絶えたり。とふ、古より未だ攀じ登る者あらず。法師義成を顧みて(釈迦をかえりみて)歎きを興し、勇猛を仰いで心を策(はげ)ます。遂に去りぬる神護景雲元年(676)四月上旬をもって跋みのぼる。雪深く巌峻しくして、雲霧雷迷して上ること能くせず。還って半腹に住すること三七日にして却き還る。又天応元年四月上旬、更に攀陟を事とするも上ること得ず。二年三月中、諸の神祇の奉為に経を写し、仏を図し、裳を裂いて足をつつみ、命をすてて道を求む。経像を繦負して(せおい)山の麓に至る。経をよみ仏を禮すること一七夜。堅く誓ひをおこして曰く「若し神明をして知ることあらしめば、ねがわくは我が心を察せたまへ。吾図寫するところの経および像、まさに山の頂に至って神の為に供養して神威を崇め、群生の福をゆたかにすべし。仰ぎ願はくは、善神威を加へ、毒龍霧を巻き、山魅前導して(山神先導して)我が願いを助け果たせ。我、若し山の頂に到らずは、菩提に至らじ。」是のごとく願いを発しおわって白雪の「がいがい」たるを跨んで緑葉の璀璨(さいさん、たれた珠玉のように輝く)たるを攀ず。脚踏むこと一半(半分)にして身疲れ竭きぬ。憩ひ息むこと信宿にして(二日泊)ついにその頂を見る。怳怳惚惚(きょうきょうこつこつ、うっとり)として夢に似たり、悟めたるに似たり。査(うきき、浮木)に乗るによらずして忽ちに雲漢に入り(あまのがわ)、妙薬を嘗めずして神窟を見ることをえたり。一たびは喜び、一たびは悲しむで心魂持ちがたし。山の状たらく、東西龍の臥せるがごとくして、彌(わた)し望に極まりなし(眺望が極まりない)。南北虎の蹲るがごとくして棲息するに興あり。妙高を指して儔(ともがら)とし、輪鉄(鉄囲山)を引いて帯となせり。衡岱(中国の衡山、泰山)猶卑(みじか)きことを咲ひ、崑香(こんこう、玉を産する崑崙山、香気あふれる香酔山)又劣なることを晒(あざけ)る。日出てまず明かなり。月来って晩く入る。天眼を仮らずして万里目の前なり。何ぞ更に鵠(こく、クグイ、仙人の乗り物)に乗らむ。白雲足の下なり。千般の錦花(千万の錦のような景観)、機無くして常に織り、百種の霊物(限りない霊妙な自然の事物)誰人か陶冶する。北に望めば湖あり。約め計ふれば一百頃(いっぴやくけい、およそ一万畝)なり。東西狭く南北長し。西に顧みれば一小湖あり。二十余頃あるべし。未申(ひつじさる、南西の方角)をかえりみれば更に一大湖あり。冪(こめ)計ふれば(全部を数えれば)一千余町なり。東西闊からず。南北長く遠し。四面の高き峯影を水中に倒しまにし、百種の異なる荘(かざり)木石自ずから有り。銀雪地に敷き、金花枝に発く。池鏡私なし。萬色誰か逃れむ。山水相映じて乍(たちまち)に絶腸(腸を絶つほどの絶景)を看る。瞻佇(せんちょ、ながめたたずむ)すること未だ飽かざるに風雪人をとどむ。我、蝸菴(かあん、蝸牛の庵)をその坤角に結んで之に住して、礼讃して動もすれば三七日を経たり。すでにこの願を遂げて便ち故居に帰る。

去りぬる延暦三年下旬に更に上って広さ三尺なるを造り得たり。即ち二三子と興に湖に棹さいて遊覧す。遍く四壁を眺るに神麗(霊妙美麗)夥く多し。東に看、西に看る。氾濫として(水が漲って溢れ)自ずから逸し。日暮れ興あまって強いて南の洲に託(つ)く。その洲は陸を去ること三百丈よりこのかた、方円三千丈余なり。諸州の中に美花富めり。復更に西湖に遊ぶ。東湖を去ること十五許里、又北湖を覧れば南湖を去ること三十許里、ならびに美をつくすと雖も惣て南には如かず。その南湖は碧水澄鏡のごとくして深きこと測るべからず。千年の松柏水に臨んで緑蓋を傾け、百囲の檜杉巌に竦(た)ちて、紺楼(かんろう、蒼紺の楼閣)を構えたり。五彩の華一株にして色を雑へ、六時の鳥、声を同じゆうして鳴くこと異にす。白鶴汀に舞ひ、紺鳧(かんぷ、かも)水に戯る。翼を振ふこと鈴のごとく、音を吐けば玉の響あり。松風琴を懸け、砥浪(しろう、水際の石に寄せる波)鼓を調ぶ。五音(中国・日本の音楽の理論用語。音階や旋法の基本となる五つの音。各音は低い方から順に宮(きゆう)・商(しよう)・角(かく)・徴(ち)・羽(う))争って天韻を奏し、八徳(八功徳水、極楽浄土などにあって、八つの功徳を備えている水。倶舎論(くしゃろん)では、甘・冷・軟・軽・清浄・不臭・飲時不損喉・飲已不傷腸の八徳。)湛湛としておのずから貯えたり。霧の帳、雲の幕、時時難陀(難陀竜王)が冪れき(べきれき、住まいとする)するなり。星の燈、雷の炬、数数普香(ふこう、明星天子のこと)の把り束ねたるなり(つかねもつ)。池中の円月を見ては普賢の鏡智を知り、空裏の慧日を仰いでは(空中に輝く智慧の日をあおいでは)遍智の(覚りの智慧)我にあることを覚る。この勝地に託いて(よって)いささか伽藍を建つ。名ずけて神宮寺(今は廃寺)といふ。ここに住して道を修すること荏苒として四祀(四年)なり。(延暦)七年四月更に北涯に移住す。四望さわりなく、沙場(水際の砂場)愛しつべし。異花の色、名け難うして目をおどろかす。奇香の臭(珍奇な香り)尋ね叵(が)とうして、意を悦ばしむ。霊仙(仙人)知らず、いずくにか去る。神人(仙人)髣髴として存するがごとし。歳精(漢の東方朔のこと、東方朔は「十州記」で海中に浮かぶ十の洲を記述)の記すること無き事を忿り、王侯(古代中国の隠者)の遊ばざるを惜しむ。飢虎を思へども遇はず(お釈迦様の捨身飼虎のこと)、子喬(仙人の名)を訪って適に去る。花蔵を心海に観じ(さとりの蓮華蔵世界を心に観じ)実相を眉山(日光の山は須弥山のよう)に念ふ。蘊ら(雑草)寒を遮し、䕃葉(いんよう、茂った木の葉)暑を避る。菜を喫ひ水を喫って楽び中にあり。たちまちにゆきたちまちにゆいて塵外に出ず。九皐(深谷)の鶴の声、天に達し易し。去りぬる延暦中、柏原皇帝(桓武天皇)之を聞しめして便ち上野国の講師(こうじ、僧侶の取り締まり役)に任ず。利他時あり、虚心物に逐ふ。又華厳の精舎(華厳寺)を都賀の郡城山に建立す。此れに就き彼に往いて物を利し道を弘む。去んじ大同二年、国に陽九(禍)有り。州司(くにのつかさ)法師をして雨を祈らしむ。師、補陀落の山(日光山)に上って祈祷す。時に応じて甘雨霶霈(ほうはい)して百穀豊登なり。所有の佛業(仏の業)縷しく説くこと能くせず。ああ、日車(月日)とどめがたく人間(じんかん)変じ易し。従心(70才)忽ちに至りて四蛇(地水火風)虚羸(きょるい、空しく衰える)す。摂誘(しょうゆう、いざなう)是れ務めて能事畢むぬ(為すべきことをないおえた)。前の下野の伊博士公(伊という博士氏)、法師と善し、秩満して(任期満了)京に入る。時に法師勝境(勝景)の記すること無きことを歎いて属文を余が筆に要す(文章をつくることを頼む)。伊公(伊という博士)余に輿(くみ)す。故に固辞すれども免れず。虚に課(おほ)せて(ともかく)毫を抽(ぬきい)ず(筆をとる)。乃ち銘をつくって曰く。

 

 

鶏黄(けいおう)地を裂き 粹気(すいき)天に昇る (天地混沌の時、」純粋の気が天に上った)

蟾烏(せんう)運転して 万類跰闐(へんてん)す (日月運行して万物ははびこった)

山海錯峙(さくじ)し 幽明阡(みち)を殊にす

俗波は生滅し 真水は道の先なり(有為は消え、無為は永遠なり)

 

一塵 獄を構え 一滴 湖を深くす

埃涓(あいけん)委聚(いしゅう)して (塵や水があつまって)

神都を画飾す (仙人のいる二荒山を飾る)

嶺岑(れいしん)梯(てい)あらず(山には梯子はない)

鷲鷟(がくぞく)も図ること無し(鳳凰も高さを測れない)

皚皚(がいがい)たる雪嶺 曷(たれ)か矚(み)誰か廬(いおり)す(一面に真っ白な雪嶺を誰が見て誰が住むことが出来よう)

沙門勝道 竹操松柯(しょうか)あり (沙門勝道は志操堅固)

之の正覚を仰ぎ 之の達磨(たらま)を誦す( 仏の覚りを求め、呪をとなえる)

観音に帰依し 釈迦を礼拝す

道に殉(したが)いて斗藪し 直ちに嵯峨に入る(広大なる山に入る)

絶巘(ぜっけん)に龍跳し 鳳挙(ほうきょ)して経過す

神明威護して 山河を歴覧す

 

山また崢(そうそう)たり 水また泓澄(こうちょう)たり

綺花(きか)灼灼(しゃくしゃく)たり

異鳥嚶嚶(おうおう)たり

地籟(ちらい)天籟 筑(ちく)の如く筝の如し

異人乍(たちま)ちに浴し 音楽 時に鳴る (諸菩薩、天人忽ちに住んで、・・)

 

一覧 憂いを消し  百煩 自(おのず)から休す

人間に比すること莫し  天上にも寧(なん)ぞ儔(とも)あらん

孫興も筆を擲(なげう)ち(『天台山賦』をつくった東晋の文学者孫興も筆を投げ) 

郭(かく)も豈(あに)詞周(あまね)からんや (能弁家の郭象もいいつくせない)

咄哉 同志 何ぞ優遊せざる

 

人の相知る事必ずしも対面して久しく語るのみにしもあらず。

意通ずれば傾蓋の遇なり(路上で会って傘を傾けて話し合う)。

余と道公と生年より相見ず(うまれてこのかた会ってない)。

幸いに伊博士公に因ってその情素(せいそ、まごころ)の雅致(みやびなおもむき)を聞き、兼ねて洛山(補陀落山=二荒山)の記を請ふことを蒙る。余不才なれども仁に當る(みこまれた)。敢へて辞譲せず。すなわち拙詞を抽んでてならびに絹素(けんそ、白紙)の上に書す。詞翰俱に弱くして深く玄の猶白からむことをおそる(未熟をおそれる)。寄するに瓦礫をもってし、其の情至(せいし、心情)を表す。百年の下に忘るることなくして相憶はむのみ。

西嶽沙門遍照金剛題す

弘仁の敦祥(弘仁の午の年、弘仁五年814)の歳 月次壮朔三十(八月三十日)の癸酉(みずのととり、きゆう)なり

 

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