よくこれだけ拝んでいるのに救われない、これだけ善行をしているのに救われない、という声を聞きますが、「これだけ拝んでいる、善行をしている」という意識をもっている間はまだ救われないのかもしれません。救われるためには布施行が必須ですが(大師の「御請来目録」に「それ釈教は浩汗にして際なく涯なし、一言にしてこれを蔽えばただ二利にあり。常楽の果を期するは自利なり、苦空の因を救うは利他なり。・・」)、その布施行は「三輪清浄」といって施者・受者・施物の三輪が清浄つまり「空」となっていなければならない、と言われます(大般若波羅蜜多經・大乗本生心地観経等)。そういう意味ではわすれっぽいことが救いになるのかもしれません。(自分も老境に入り、この忘れっぽいという点だけは人後に落ちなくなりつつあります。これくらいが唯一ともいえる老人のメリットでしょう。)