「上記のお手紙(その9でのべた手紙)を戴く前、たしか同じ年(1946年)の早春のころだったと思うのですが高野山の天徳院だはじめて金山先生におめにかかり、長時間にわたってお話を承ることが出来ました。その日は天徳院にとめていただいて翌日の早朝金山先生が大塔のほとりのお堂で護摩をたかれるのに同行させていただき、おいとまをするときに二年ばかり前に出版された先生の著書「真言密教も教学」を頂戴いたしました。それから二、三度天徳院をおとずれています。・・・(手紙の趣旨は)「今度あなたのいる生石村のあたりを通って下のほうにいくことになったのだが、おつれのひともいることだし、声もかけないで通り過ぎることになろうかと思う。どうか気をわるくしないでいただきたい」というご配慮を伝えるにあったことは明らかです。
そのとき先生は金剛峯寺第百四十四世の検校法印という高野山の僧職の最高位についておられたので、高野信仰も厚い有田川流域を法印さんがお通りになるということはおそらく大変晴れがましい出来事であったに違いありません。それで此の旅行のことがわたくしの耳にはいったときに気をわるくしないようにとお心くばりを戴いたのかと思われます。(続)」
そのとき先生は金剛峯寺第百四十四世の検校法印という高野山の僧職の最高位についておられたので、高野信仰も厚い有田川流域を法印さんがお通りになるということはおそらく大変晴れがましい出来事であったに違いありません。それで此の旅行のことがわたくしの耳にはいったときに気をわるくしないようにとお心くばりを戴いたのかと思われます。(続)」