福聚講秩父三十四観音霊場参拝記録
福聚講(高原耕昇講元)の第三回秩父観音霊場参拝行が8月23日(土)行われた。午前10時、西武秩父駅前に集合。この日は前日までの猛暑日続きで、真夏日になるのではと心配されたが、予報では雨の天気になるかも知れないとの観測も聞かれた。さいわい照りつけるお天道様は雲間に見え隠れして巡拝中猛暑に見舞われること無く暑さから救われるようであった。
出発から20分、国道沿いに連なる山々を見ながら歩く。沿道には民家が立ち並んでいる。時代がかった古い家もあつたが、洒落たツーバイフォーのような現代建築の家が多かった。新しく立て替えたような家々の路地を縫うように映画撮影のセットの中を歩くようだった。いきなり場面が古めかしい風情の、十二番札所・仏道山・野坂寺に出る。入母屋造りの山門前の樹齢800年はあるという巨大な柳の木に迎えられる。今日の巡礼は、何か、啓示があるかも?という予感がする。小さな池に咲いているはすの花が、ピンクの花びらを開かせている。
仏道山という山号がいいではないか。臨済禅宗南禅寺派、 御本尊・聖観世音菩薩。昔、甲州の商人が山賊に襲われたが、お守り袋に入れてあった観世音に救いを求めると、観世音から光が出て山賊の目を射た。以来、山賊は心を入れ替え、仏道に精進。商人は感動して堂宇を寄進した、と縁起にある。その当時庶民は貧しく、生きるよすがは観音信仰しか無かったに違いない。山賊も貧しさの余り弱者を危める事をせざるを得なかった。貧しく哀しい人たちの運命は切羽詰って、仏道に入ることでしか救われなかった。素朴なヒューマニズムに感動する。
御詠歌は「老乃身に くるしきものは野坂寺 今おもいしれ 後乃よのみち」。
この寺には、秩父市在住の鉄工業経営者が両親の追善供養のために、独学で寸暇を惜しんで昭和53年から、8年の歳月をかけて、十三仏を制作し寄進したという十三仏のお堂がある。玄人はだしのできばえである。やれば出来る。「やれば出来る、一念に徹せよ」と言う仏様のお声が聞こえるようだった。
そして極め付きは、法語。『感謝一割に 不満九割 感謝九割に 不満一割 さて 貴方は?』(同寺の掲示板より)
早く進もう。11時05分。途中、秋葉神社に礼拝する。遠州秋葉大権現の御分霊を秩父に奉斎して、火防の神徳を持って崇拝されてきたという。ここから5分で十三番札所・旗下山・慈眼寺。曹洞宗。 御本尊・聖観世音菩薩。
巡拝する寺々が、近くにあるので、脚力を心配することも無く、親しみもわいてくる。本堂前の聖観音様に繋がれる色鮮やかな結縁綱が、吊り下げられている
柱の紐の先端に純白の両手の軍手の手袋が付けられていた。ほほえましい。どのお寺も、今年は、60年に一度の甲午歳の総開帳とあつて、趣向を凝らして巡拝者のサービスに当たっているのである。
日本武尊東国征伐の折、この地に旗を立てたことが、ハタノ下といわれ、年を経て、ハケノ下と呼ばれるようになったという。また、「あめ薬師」という薬師如来も安置されていて、眼病平癒に功徳あらたかで、7月8日の縁日は、境内内外に二百余軒の露天が並び、ブッキリ飴が売られ、多くの参詣者で賑わい、秩父の夏の風物詩となっているという。(同寺の立札より)
さらに、同寺には、六角輪堂があり、石造りの一切経蔵の中に、黄檗版の一切経千六百三十巻、七十箱が収められて居る。経蔵の底を押すと回転するようになっている。重さにめけづ、台座を押して回転させれば、一切経を読誦したと同じご利益がある。
御詠歌は「 み手にもつ はちすのははき のこりなく 浮世の塵を はけ乃下寺」。
Tさんの先達で、順路違わづ、十四番札所・長岳山・今宮坊に着く。臨済宗・御本尊・聖観世音菩薩。秩父札所信仰に、深い関係を持つ修験道場の大宗今宮坊があり、その中心的建物は、今宮神社である。樹齢500年という、三抱えもあるような、巨木の欅の木が、鬱蒼とした濃緑の枝葉を広げ、今なお息づいていることに粛然とさせられる。
11時46分。観音堂に上がって、般若心経・観音経をお唱えする。この日も、講員が、交代で、経の「頭」を唱え「助」で、皆が唱和した。経をお唱えする時、本堂前で、立ち礼で読誦するより、床に端正に正座してお唱えする方が、ずっと気合が入る。と高原講元が言われたが、その通りだと、同感だった。やはり、座ったほうが、落ち着きがあり、精神も安定するようだ。立ち礼だと、いかにも、インスタントの感がしてならない。また、畳の上に、経本を置いてはならないとも、教示を受けた。確かに、ご詠歌の詠唱の際に、ひざの前に、教本を置く時、「打敷」という敷物の上に、教典や、鈴、撞木を置き、絶対に、畳の上には、置かないという所作がある。仏をあがめる基本的なプリンシプルな所作である。改めて勉強になった。何気ない、所作にも、仏を尊崇する気持ちを込めなければならない。
お祈りをしながら、心に湧いて来る観念があった。今日は、本当に有り難い日であった。実は、前日二夜二昼、猛暑のせいでもあったが一睡も出来ないでいた。頭がさえて眠られなかったのだ。こうした心神の状態で、この日の巡礼に参加できるか、気懸かりであった。が、ママよ、とばかり巡礼行を強行した。巡礼をしているうち、巡礼そのものが、私の小さなちじこまった心が、広がってくるような思いがする。心の動きが、変わってきたようだ。喜びが、嬉しさが、どんどん湧いてくる。そうだ!巡礼という、一見無駄な行為と思われるようなことも、ゆったりとした時間、人との挨拶や笑い顔、日ごろ、目に留まらない、山川草木、鳥や虫たちの小さないのちに触れる。みんな、心の動きと持ち様で気持ちよく楽しく生きることが出来るのではないか。これまでは、世間の処世の常識に囚われていて、巡礼行為は、無駄な時間という、考えに囚われていたのではなかろうか。拝金・生産のためには、効率・機能・管理思考などに、心が、がんじがらめになっていて、「無駄な事」が、心には、大事であることが解からないでいた。確かに、スケジュール帖に日々の項目に、びっしり予定が書かれている人を見ると、いかにもヤリ手の人のように見える。それが、強い生き方だと、錯覚していたのだ。だが、人間の生活では、心の豊かさ、潤い、余裕、無為、楽しさ、そう、芸術など文化的所産は、すべて、無為の効用の賜物なのだ。決して、機能・効率で、捗るものではない。
「無為」さがあってこそが、本当の生き方なんだ。と思い出すと心の中に三千大千世界が出来てくるような思いに浸されるようだった。「無用の用」という言葉があるが、巡礼は、必要欠くべからざる、心のたしなみになった。気が軽くなる。福聚講に参加したお蔭である。有り難い事である。感謝以外の何物でもない。
此処の御詠歌は「むかしより たつとも知らぬ 今宮に まいる心は 浄土なるらん」。
同寺裏手の、歴代の由緒のある墓地を歩き過ぎる。道端に、「江戸巡礼古道」と書かれた、白ペンキの立て札が、足元の高さに、立てられている。青々とした、雑草が元気よく生い茂っている。コンクリートの塀の脇に出来た細い割れ目から、力強く、スミレ草が生え出てきている。けなげだが、生命力旺盛だ。
芭蕉の俳句「山路来て、なにやら、ゆかし すみれ草」を思い出す。
12時30分。十六番札所・無量山・西光寺。真言宗豊山派・御本尊・千手観世音菩薩。広いゆったりとした境内。芝生の色がまぶしく光っている。大きな酒樽に、茅葺屋根をかぶった、祠が見える。「酒樽大黒」との立て札あり。所狭しと、千社札が張り巡らされ、樽の箍には、千枚近くの名刺が、差し込まれてあった。
御詠歌は「 さいこうじ ちかいを人に 尋ねれば ついのすみかは 西とこそきけ」。
十七番札所は 実正山 定林寺。曹洞宗で御本尊は十一面観世音菩薩。
ここも、瀟洒な民家が立ち並ぶ、路地を通り抜けると、山門に着く。昔は、この一体は、田や畑、野原が広がり、ところどころ南側に広い縁側を流した、奥座敷や居間が丸見えの民家が立ち並び、巡礼者を迎え励ましていたのだろうと想像する。本堂は四面四画の均整の取れた簡素な堂である。縁起には、東国の勇将といわれていた壬生良門の家臣・林太郎定元が、良門に追放されてこの地で果てたが、定元の子は、空照と言う僧に育てられ、良門は過去を悔いて、定元の子を林源太良元と名づけ、旧領を与え定元の菩提のため堂宇を立て、定と林とをとって、定林寺としたという。(同寺由緒より)
経をあげていたとき、境内に木に蝉が寄り合い、ミーン、ミーンと鳴き出した。経の、ハーモニーに載って、蝉が、伴奏を付けてくれているようであった。まさに、我々の読経とせみ時雨が、合奏して一体になった感がしたものだ。これぞまさしく「蝉声明」とでもいうべきかと法悦に浸った。
御詠歌は「 あらましを 思いさだめし 林寺 鐘ききあえづ 夢ぞさめける」。
13時58分、いよいよ、本日の最終巡拝寺である、十八番札所・白道山・神門寺を目指す。予報では、午後には、雨が降るようであったが、お天道様は、雲間に翳ったりして、雨には、ならなかった。また、猛暑にさいなまれ熱中症になる心配もなかった。狭い民家の並ぶ路地の通りを歩く。最近は、高原講元の教えに感化されて、道端や通に散乱しているゴミを見つけると、つい拾うように心がけている。これも、小さな、心の醇化する心掛けのひとつなのだが。足元に仰向けにひっくり返っている蝉の死体を見つけた。見ずに通り過ぎようか、ほったらかしにしておくわけにもいかない。命のある、昆虫だったのだ。かんかん照りに、熱くなったアスファルトの上だ。蝉にとつては、灼熱の地獄だろう。そっと摘んで、近くに生えている草花の上においてやる。仰向けになっていた蝉を摘むといきなり、両羽根震わせ、あがきだした。渾身の力を振り絞っているのだろう。この蝉の、固い殻の下には、内臓や、体液が、小宇宙のような世界が、存在している。肢でもがいている。思わず『ご同輩』と呼んでみる。
『蝉君!!長い歳月、地下の土の暗いなかで生きてきて、明るい地上にヤゴの殻から抜け出してきてからは、たった、一週間の命しかない。なんと,儚く哀しい命なのだろう。けなげに、日暮し鳴きつづける蝉が哀れに思うよ』と蝉に言ってみる。ところが、蝉のほうからは、『ちっとも、哀しくないですよ。土中の生活を満喫してきました。土のなかの世界は、何時も、常温が保たれていて、餌も水もあり、満ち足りていましたよ。十分幸福でした。でも、自然の神様から、それこそ、地中は、暗く寂しいと言う先入観を持ってる、人間と言う種族が居て、蝉たちに、同情している。蝉にとっては、地上に這い出た、つかぬまのときこそ、一見明るくとも、阿鼻叫喚の修羅場の世界である事が、よくわかるよと諭されたのです。我々、蝉の合唱を,只の雑音、うるさい声としか聞こえない人が多くいる事がわかり、静かに、耳を傾けようとする人は、少ない。私たちは、命運尽きると、仰向けにひっくりかえって、体を落ちたところに横たえます。平気で、私を、踏ん付けて行く人も数多く居ます。自動車ではよく轢かれます。地上って、怖いところですね。土中では、こんな災難はありませんでしたよ。』と言う答が聞こえてくる。
蝉と問答をしているうちに、十八番札所・白道山・神門寺。曹洞宗・御本尊・聖観世音菩薩。本修験寺で、神戸山・長生院といい、今宮坊に属していたと言う。江戸中期、焼失し、その後、再建された。村人が、神社で再建しようとしたとき 、巫女から「霊場(寺)にせよ」と言うご託宣があり、寺にしたと言う。寺名は、神社にあった榊にちなんで、命名されたと言う。14時21分。T先達が、「今日は、此の位にしておきましょう」という打ち止めのお言葉。帰り、西武秩父駅まで、タクシーで帰る。この巡拝行は、こういうおおらかさが、実にいい。
御詠歌は「ただ頼め 六則ともに 大悲をば 神門に立ちて たすけたまえる」。
お寺の大黒さんに、タクシーを呼んでくれるよう頼む。タクシー会社から、「注文の2台は行けないので1台にぎゅうぎゅう詰めで、全員乗れと」の、指図。お言葉通り、乗車して、20分で目的地の西武秩父駅に着いた。
秩父観音霊場は、秩父神社の神奈備山・ご神体として敬われ畏れてきた武甲山がある。、武甲山は、水の神、龍神がすむ、霊山として、昔から住民たちの守り神であった。この、当時の庶民たちは、甲武山信仰と深い関わりをもっていて、暮らしの切実な思いを救済して頂くため平地で、各種の観音様を選び安置して、救いを求めることをしたのだろう。今は、周辺の田んぼや野原は、美しく彩られたロマンに満ちた、瀟洒なモダン住宅が、立ち並ぶ地域になっていて、当時の模様を再現できないが、少ない集落の中で、観音様の威光を知ろしめるべく営々と経営維持にあたった寺の住職始め、檀家や信者の人々の並大抵ではない努力にただ、感謝するばかりである。
その武甲山は、わが国の高度経済成長の波には抗しがたく、他聞にもれづ、1980年9月、1336.1メートルの緑の山頂が削り取られてしまった。この山は、石灰岩が埋蔵されていて、コンクリートや、セラミックの原料になるため、大企業のむごい牙の餌食にされてしまった。このため、山頂は、削り取られてしまい山容は急変してしまった。けれども武甲山は何も言わない。
石灰岩の採掘は、秩父経済を潤した。これより前、昭和当初年間には、秩父は、絹織物の名産地でもあつた。家内手工業の規模だったので、群馬の富岡製糸所とまでは行かなかったが、大変な糸偏ブームで狂乱の巷になった。が、世界恐慌が起こり一夜にして絹織物の価格が暴落、借金金融で稼いでいた糸屋・織物屋は、没落して「秩父事件」が起きたという。金と欲に振り回された非情な歴史も武甲山は知っている。罪滅ぼしのためか、いま山頂を削りとった大企業は、裸になった地肌に、木を植えて、緑化に勤めていると言うことだった。
篤信深い地元の人たちは、「ありがとう 武甲山 武甲山旧山頂慰霊祭」を9月14日(日)に行い、その日の午後12時30分には武甲山に黙祷するそうだ。また、秩父今宮神社で、旧山頂慰霊の御護摩焚きを行い、神仏習合の原風景が体験できると言うことである。
ご案内まで。
(角田記)
福聚講(高原耕昇講元)の第三回秩父観音霊場参拝行が8月23日(土)行われた。午前10時、西武秩父駅前に集合。この日は前日までの猛暑日続きで、真夏日になるのではと心配されたが、予報では雨の天気になるかも知れないとの観測も聞かれた。さいわい照りつけるお天道様は雲間に見え隠れして巡拝中猛暑に見舞われること無く暑さから救われるようであった。
出発から20分、国道沿いに連なる山々を見ながら歩く。沿道には民家が立ち並んでいる。時代がかった古い家もあつたが、洒落たツーバイフォーのような現代建築の家が多かった。新しく立て替えたような家々の路地を縫うように映画撮影のセットの中を歩くようだった。いきなり場面が古めかしい風情の、十二番札所・仏道山・野坂寺に出る。入母屋造りの山門前の樹齢800年はあるという巨大な柳の木に迎えられる。今日の巡礼は、何か、啓示があるかも?という予感がする。小さな池に咲いているはすの花が、ピンクの花びらを開かせている。
仏道山という山号がいいではないか。臨済禅宗南禅寺派、 御本尊・聖観世音菩薩。昔、甲州の商人が山賊に襲われたが、お守り袋に入れてあった観世音に救いを求めると、観世音から光が出て山賊の目を射た。以来、山賊は心を入れ替え、仏道に精進。商人は感動して堂宇を寄進した、と縁起にある。その当時庶民は貧しく、生きるよすがは観音信仰しか無かったに違いない。山賊も貧しさの余り弱者を危める事をせざるを得なかった。貧しく哀しい人たちの運命は切羽詰って、仏道に入ることでしか救われなかった。素朴なヒューマニズムに感動する。
御詠歌は「老乃身に くるしきものは野坂寺 今おもいしれ 後乃よのみち」。
この寺には、秩父市在住の鉄工業経営者が両親の追善供養のために、独学で寸暇を惜しんで昭和53年から、8年の歳月をかけて、十三仏を制作し寄進したという十三仏のお堂がある。玄人はだしのできばえである。やれば出来る。「やれば出来る、一念に徹せよ」と言う仏様のお声が聞こえるようだった。
そして極め付きは、法語。『感謝一割に 不満九割 感謝九割に 不満一割 さて 貴方は?』(同寺の掲示板より)
早く進もう。11時05分。途中、秋葉神社に礼拝する。遠州秋葉大権現の御分霊を秩父に奉斎して、火防の神徳を持って崇拝されてきたという。ここから5分で十三番札所・旗下山・慈眼寺。曹洞宗。 御本尊・聖観世音菩薩。
巡拝する寺々が、近くにあるので、脚力を心配することも無く、親しみもわいてくる。本堂前の聖観音様に繋がれる色鮮やかな結縁綱が、吊り下げられている
柱の紐の先端に純白の両手の軍手の手袋が付けられていた。ほほえましい。どのお寺も、今年は、60年に一度の甲午歳の総開帳とあつて、趣向を凝らして巡拝者のサービスに当たっているのである。
日本武尊東国征伐の折、この地に旗を立てたことが、ハタノ下といわれ、年を経て、ハケノ下と呼ばれるようになったという。また、「あめ薬師」という薬師如来も安置されていて、眼病平癒に功徳あらたかで、7月8日の縁日は、境内内外に二百余軒の露天が並び、ブッキリ飴が売られ、多くの参詣者で賑わい、秩父の夏の風物詩となっているという。(同寺の立札より)
さらに、同寺には、六角輪堂があり、石造りの一切経蔵の中に、黄檗版の一切経千六百三十巻、七十箱が収められて居る。経蔵の底を押すと回転するようになっている。重さにめけづ、台座を押して回転させれば、一切経を読誦したと同じご利益がある。
御詠歌は「 み手にもつ はちすのははき のこりなく 浮世の塵を はけ乃下寺」。
Tさんの先達で、順路違わづ、十四番札所・長岳山・今宮坊に着く。臨済宗・御本尊・聖観世音菩薩。秩父札所信仰に、深い関係を持つ修験道場の大宗今宮坊があり、その中心的建物は、今宮神社である。樹齢500年という、三抱えもあるような、巨木の欅の木が、鬱蒼とした濃緑の枝葉を広げ、今なお息づいていることに粛然とさせられる。
11時46分。観音堂に上がって、般若心経・観音経をお唱えする。この日も、講員が、交代で、経の「頭」を唱え「助」で、皆が唱和した。経をお唱えする時、本堂前で、立ち礼で読誦するより、床に端正に正座してお唱えする方が、ずっと気合が入る。と高原講元が言われたが、その通りだと、同感だった。やはり、座ったほうが、落ち着きがあり、精神も安定するようだ。立ち礼だと、いかにも、インスタントの感がしてならない。また、畳の上に、経本を置いてはならないとも、教示を受けた。確かに、ご詠歌の詠唱の際に、ひざの前に、教本を置く時、「打敷」という敷物の上に、教典や、鈴、撞木を置き、絶対に、畳の上には、置かないという所作がある。仏をあがめる基本的なプリンシプルな所作である。改めて勉強になった。何気ない、所作にも、仏を尊崇する気持ちを込めなければならない。
お祈りをしながら、心に湧いて来る観念があった。今日は、本当に有り難い日であった。実は、前日二夜二昼、猛暑のせいでもあったが一睡も出来ないでいた。頭がさえて眠られなかったのだ。こうした心神の状態で、この日の巡礼に参加できるか、気懸かりであった。が、ママよ、とばかり巡礼行を強行した。巡礼をしているうち、巡礼そのものが、私の小さなちじこまった心が、広がってくるような思いがする。心の動きが、変わってきたようだ。喜びが、嬉しさが、どんどん湧いてくる。そうだ!巡礼という、一見無駄な行為と思われるようなことも、ゆったりとした時間、人との挨拶や笑い顔、日ごろ、目に留まらない、山川草木、鳥や虫たちの小さないのちに触れる。みんな、心の動きと持ち様で気持ちよく楽しく生きることが出来るのではないか。これまでは、世間の処世の常識に囚われていて、巡礼行為は、無駄な時間という、考えに囚われていたのではなかろうか。拝金・生産のためには、効率・機能・管理思考などに、心が、がんじがらめになっていて、「無駄な事」が、心には、大事であることが解からないでいた。確かに、スケジュール帖に日々の項目に、びっしり予定が書かれている人を見ると、いかにもヤリ手の人のように見える。それが、強い生き方だと、錯覚していたのだ。だが、人間の生活では、心の豊かさ、潤い、余裕、無為、楽しさ、そう、芸術など文化的所産は、すべて、無為の効用の賜物なのだ。決して、機能・効率で、捗るものではない。
「無為」さがあってこそが、本当の生き方なんだ。と思い出すと心の中に三千大千世界が出来てくるような思いに浸されるようだった。「無用の用」という言葉があるが、巡礼は、必要欠くべからざる、心のたしなみになった。気が軽くなる。福聚講に参加したお蔭である。有り難い事である。感謝以外の何物でもない。
此処の御詠歌は「むかしより たつとも知らぬ 今宮に まいる心は 浄土なるらん」。
同寺裏手の、歴代の由緒のある墓地を歩き過ぎる。道端に、「江戸巡礼古道」と書かれた、白ペンキの立て札が、足元の高さに、立てられている。青々とした、雑草が元気よく生い茂っている。コンクリートの塀の脇に出来た細い割れ目から、力強く、スミレ草が生え出てきている。けなげだが、生命力旺盛だ。
芭蕉の俳句「山路来て、なにやら、ゆかし すみれ草」を思い出す。
12時30分。十六番札所・無量山・西光寺。真言宗豊山派・御本尊・千手観世音菩薩。広いゆったりとした境内。芝生の色がまぶしく光っている。大きな酒樽に、茅葺屋根をかぶった、祠が見える。「酒樽大黒」との立て札あり。所狭しと、千社札が張り巡らされ、樽の箍には、千枚近くの名刺が、差し込まれてあった。
御詠歌は「 さいこうじ ちかいを人に 尋ねれば ついのすみかは 西とこそきけ」。
十七番札所は 実正山 定林寺。曹洞宗で御本尊は十一面観世音菩薩。
ここも、瀟洒な民家が立ち並ぶ、路地を通り抜けると、山門に着く。昔は、この一体は、田や畑、野原が広がり、ところどころ南側に広い縁側を流した、奥座敷や居間が丸見えの民家が立ち並び、巡礼者を迎え励ましていたのだろうと想像する。本堂は四面四画の均整の取れた簡素な堂である。縁起には、東国の勇将といわれていた壬生良門の家臣・林太郎定元が、良門に追放されてこの地で果てたが、定元の子は、空照と言う僧に育てられ、良門は過去を悔いて、定元の子を林源太良元と名づけ、旧領を与え定元の菩提のため堂宇を立て、定と林とをとって、定林寺としたという。(同寺由緒より)
経をあげていたとき、境内に木に蝉が寄り合い、ミーン、ミーンと鳴き出した。経の、ハーモニーに載って、蝉が、伴奏を付けてくれているようであった。まさに、我々の読経とせみ時雨が、合奏して一体になった感がしたものだ。これぞまさしく「蝉声明」とでもいうべきかと法悦に浸った。
御詠歌は「 あらましを 思いさだめし 林寺 鐘ききあえづ 夢ぞさめける」。
13時58分、いよいよ、本日の最終巡拝寺である、十八番札所・白道山・神門寺を目指す。予報では、午後には、雨が降るようであったが、お天道様は、雲間に翳ったりして、雨には、ならなかった。また、猛暑にさいなまれ熱中症になる心配もなかった。狭い民家の並ぶ路地の通りを歩く。最近は、高原講元の教えに感化されて、道端や通に散乱しているゴミを見つけると、つい拾うように心がけている。これも、小さな、心の醇化する心掛けのひとつなのだが。足元に仰向けにひっくり返っている蝉の死体を見つけた。見ずに通り過ぎようか、ほったらかしにしておくわけにもいかない。命のある、昆虫だったのだ。かんかん照りに、熱くなったアスファルトの上だ。蝉にとつては、灼熱の地獄だろう。そっと摘んで、近くに生えている草花の上においてやる。仰向けになっていた蝉を摘むといきなり、両羽根震わせ、あがきだした。渾身の力を振り絞っているのだろう。この蝉の、固い殻の下には、内臓や、体液が、小宇宙のような世界が、存在している。肢でもがいている。思わず『ご同輩』と呼んでみる。
『蝉君!!長い歳月、地下の土の暗いなかで生きてきて、明るい地上にヤゴの殻から抜け出してきてからは、たった、一週間の命しかない。なんと,儚く哀しい命なのだろう。けなげに、日暮し鳴きつづける蝉が哀れに思うよ』と蝉に言ってみる。ところが、蝉のほうからは、『ちっとも、哀しくないですよ。土中の生活を満喫してきました。土のなかの世界は、何時も、常温が保たれていて、餌も水もあり、満ち足りていましたよ。十分幸福でした。でも、自然の神様から、それこそ、地中は、暗く寂しいと言う先入観を持ってる、人間と言う種族が居て、蝉たちに、同情している。蝉にとっては、地上に這い出た、つかぬまのときこそ、一見明るくとも、阿鼻叫喚の修羅場の世界である事が、よくわかるよと諭されたのです。我々、蝉の合唱を,只の雑音、うるさい声としか聞こえない人が多くいる事がわかり、静かに、耳を傾けようとする人は、少ない。私たちは、命運尽きると、仰向けにひっくりかえって、体を落ちたところに横たえます。平気で、私を、踏ん付けて行く人も数多く居ます。自動車ではよく轢かれます。地上って、怖いところですね。土中では、こんな災難はありませんでしたよ。』と言う答が聞こえてくる。
蝉と問答をしているうちに、十八番札所・白道山・神門寺。曹洞宗・御本尊・聖観世音菩薩。本修験寺で、神戸山・長生院といい、今宮坊に属していたと言う。江戸中期、焼失し、その後、再建された。村人が、神社で再建しようとしたとき 、巫女から「霊場(寺)にせよ」と言うご託宣があり、寺にしたと言う。寺名は、神社にあった榊にちなんで、命名されたと言う。14時21分。T先達が、「今日は、此の位にしておきましょう」という打ち止めのお言葉。帰り、西武秩父駅まで、タクシーで帰る。この巡拝行は、こういうおおらかさが、実にいい。
御詠歌は「ただ頼め 六則ともに 大悲をば 神門に立ちて たすけたまえる」。
お寺の大黒さんに、タクシーを呼んでくれるよう頼む。タクシー会社から、「注文の2台は行けないので1台にぎゅうぎゅう詰めで、全員乗れと」の、指図。お言葉通り、乗車して、20分で目的地の西武秩父駅に着いた。
秩父観音霊場は、秩父神社の神奈備山・ご神体として敬われ畏れてきた武甲山がある。、武甲山は、水の神、龍神がすむ、霊山として、昔から住民たちの守り神であった。この、当時の庶民たちは、甲武山信仰と深い関わりをもっていて、暮らしの切実な思いを救済して頂くため平地で、各種の観音様を選び安置して、救いを求めることをしたのだろう。今は、周辺の田んぼや野原は、美しく彩られたロマンに満ちた、瀟洒なモダン住宅が、立ち並ぶ地域になっていて、当時の模様を再現できないが、少ない集落の中で、観音様の威光を知ろしめるべく営々と経営維持にあたった寺の住職始め、檀家や信者の人々の並大抵ではない努力にただ、感謝するばかりである。
その武甲山は、わが国の高度経済成長の波には抗しがたく、他聞にもれづ、1980年9月、1336.1メートルの緑の山頂が削り取られてしまった。この山は、石灰岩が埋蔵されていて、コンクリートや、セラミックの原料になるため、大企業のむごい牙の餌食にされてしまった。このため、山頂は、削り取られてしまい山容は急変してしまった。けれども武甲山は何も言わない。
石灰岩の採掘は、秩父経済を潤した。これより前、昭和当初年間には、秩父は、絹織物の名産地でもあつた。家内手工業の規模だったので、群馬の富岡製糸所とまでは行かなかったが、大変な糸偏ブームで狂乱の巷になった。が、世界恐慌が起こり一夜にして絹織物の価格が暴落、借金金融で稼いでいた糸屋・織物屋は、没落して「秩父事件」が起きたという。金と欲に振り回された非情な歴史も武甲山は知っている。罪滅ぼしのためか、いま山頂を削りとった大企業は、裸になった地肌に、木を植えて、緑化に勤めていると言うことだった。
篤信深い地元の人たちは、「ありがとう 武甲山 武甲山旧山頂慰霊祭」を9月14日(日)に行い、その日の午後12時30分には武甲山に黙祷するそうだ。また、秩父今宮神社で、旧山頂慰霊の御護摩焚きを行い、神仏習合の原風景が体験できると言うことである。
ご案内まで。
(角田記)