福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

秘藏寶鑰8

2013-08-21 | お大師様のお言葉
聖君世に出れば四海無爲なり。賢臣機を輔くれば一人(天子)垂拱す。雖と然えども聖君には遇うこと希なり。千載に一たび御す。賢佐は得難し。五百に一たび執る。

摩尼は空しく名のみ聞く。麟鳳誰か實を見る。然れば則ち麟鳳を見ざれども羽毛之族を絶つべからず。如意を得ざれども金玉之類を抛うつべからず。尭舜再び生まれざれども生天下之主何ぞ無からん。元凱(げんがい・・八元八凱)さらに出でざれども率土之臣豈休せんや。孔麟既に摧(う)せんじかども好儒之輩毎邦連袂す(子牛は死んでもあとを慕う儒者は無数にいる)。李牛已に西せしかども求道之徒縣毎に肩を側める(老子は死んだがその道を求める徒は多い)。代に扁華無けれども醫道何ぞ斷えざる(扁じゃくや華だといった名医はなくなっても医道は絶えない)。

時に羿養(げいよう・・羿と養由基という射術の名手)絶えたれども武術誰か廢るべき。師鍾(ししょう・・「師こう」と「鍾子期」という琴の名手)天の絲綺(しき・・琴)に感じ、義獻(ぎけん・・王義之と王獻之)仙の龍管に應ず。

其人既に往く、其術誰得たる。然れども猶お彈指耳に聒(かまびすし)く、書札目を汗す所以は、並びに皆な罷むことを得ずして之をなすこのと猶ほ賢るればなり八名人がすでに死んでそのわざをつたえるものがなくなってもいまもって琴を弾くものは多く、書道を学ぶものも多いのはみなやむをえずしてこれをなすので、これをなすことがなさぬことよりもまさるからである)。

然れば則ち羅漢の聖果は一生に得がたし。是故に鈍根は六十劫、利智は則ち三生なり。
修練苦行して乃し聖位を證す。向果之賢聖無しと雖ども、其道何ぞ絶えん哉。

公子曰く、「賢聖に遇い難きは誠に其れ然る也。持戒・智慧何ぞ其れ未だ聞えざるや(賢聖はめったにお会いできないとしても戒と智恵をもった僧にあえないのはなぜか)」。

師曰。「時に増減あり、法に正像有り(われわれの住むところには増劫と減劫があり、佛法には正法・像法・末法がある。)法の増劫之日は人皆な十善を思う。減劫之年には家ごとに十惡を好む。正法千年の内には持戒得道者多く、像法千載の外には護禁修徳者少し。

今に當っては時は是れ濁惡、人根は劣鈍なり。其道に依俙(いき)たり(その道に徹することができない)。其風に髣髴たり。妙道鑚(き)り難く、輕毛風に隨う(妙道の真髄をつかむことのむつかしいことは輕毛が風に隨うがごときである)。

斯れ乃ち蒼天西に傾く。群星何ぞ東せん(天が西に傾くとき群星のみが東に行くことはできない)。黄輿(こうよ)震裂す、草木何ぞ靜かならん(天地が振動するのに草木のみが静かでいられない)。

公子曰。「若し還り答するがごときは時根にひかれて逆流猶ほ難しと。若し然らば五濁惡世には定んで持戒定慧の人無ん乎(このような答えであるとするといまは時も根機も劣悪だから持戒定慧の人はないのでありますか)」。

師曰。「何爲必其然乎。夫れ圓蓋(おおぞら)は西に轉ずと雖も、日月は東流す。南斗(北斗七星)は隨い運れども北極移ず。冬天は盡く殺せども松柏は彫(しぼ)まず。陰氣水を凍らせども、潮酒は氷ず。紂民は戸を編んで戮す可し、然れども猶三人は仁と稱せらる(紂の時代の民は凶暴で戸毎に殺戮すべきほどであるがそれでも微子、箕子、比干という3人は仁者としてたたえられた)。尭戸は屋を比べて封ずべし、然れども猶ほ四凶は殛をうけたり(尭の時代の民は皆賢善で大名としてとりたてるほどであったがそれでもなお4人の罪人がいた)。火ごとに物を燒けども布鼠中に遊ぶ。水能く人を溺らせども龍鼈内に泳ぐ。以此觀之。雖云有同者亦有和せざるものあり。此によって言はば、時は濁濫なりと雖も何ぞ其人なからん乎。」

公子曰。「既に人あることを知りぬ、其人安にか在る。」
師曰。「大方は隅なく、大音は聲希なり。大白は辱れたるごとく、大直は屈するが如し。大成は缺けたるごとく、大盈は冲(むなしき)がごとし。玄徳玄同なり(真の徳者は和光同塵であるのでつかみにくい)。聖にあらずんば孰か知らん。人を知ることの病きこと古聖亦難しとせり。

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