第十二番同國岩槻慈恩寺(現在も第12番は華林山慈恩寺(慈恩寺観音))
武州崎玉郡太田荘岩槻華林山慈恩寺大悲刹は、天台第六祖慈覚大師の開基なり。本尊千手観世音の像は、毘沙門天王の教勅に依て、同く開山祖の彫刻なり。其の濫觴を原るに、人皇五十三代淳和帝の天長年中慈覚大師関東の霊地を巡歴し、勝道空海の𦾔跡を追って、下野日光山に攀陟り、三峯を修行し湖水を歴覧あり。李を虚空に向て擲玉ふ。倏ち奇雲の中へ巻収て、遥に南の方へ飛去ぬ。夫れより大師、日光山を下り、上野常陸下総上総を遊化して、武蔵に至て、曠野に出玉へば、忽ち錺れる車に乗て、金の甲冑を被たる老翁出、大師に対して曰ふは、此地三寶興隆の時、至れり。我佛法に帰依する者なれば、師を請ぜんがため爰に出たり。彼に大なる池あり。毒蛇栖て人を害し、百有餘家の里人、今存る者漸く半ばに不過。これ又安堵の思に住せず(素戔嗚尊、出雲國簸川上に至り、稲田姫を見玉ふ、日本紀の説と相似たり)。大師まつ゛毒蛇を降伏し玉へと。大師答て曰く、我元より佛法弘通の霊場を覓。しかれども因縁は佛家の本宗なれば、湿泥を見て種子を下すべしと。その時、老翁曰く、頃日一の奇異なることあり。我住荒瑞籬の邊に一夜に李樹出て、枝葉茂り香華今盛なりと。大師是を聞きて喜び、それこそ我卜する地なり。其樹の下へ勾引玉へと。臺氏もその車に乗り玉へば忽ち旋轉して、李樹の下に至る。大師又曰、今此の地に落ちて奇特を顕す。(延暦年中、
弘法大師入唐の時、大唐明州の津にて、我が習ふ所の密教、流布相應の勝地あらば、此の三股先に至て卜地とすべしと。深く佛陀善神を祈念して、日本の方に向て投上ぐるに、はるかに飛びて雲中に入りぬ。至ん所はしられざれども、願力のむなしからざるを、見る人感ぜざるはなし。大師帰朝の後、初めて高野山に尋入玉ふに、大唐にて投たる三鈷杵、松の枝に桂りて光を放つ。是の故に有縁の地なりとして、大師勅許を得て、伽藍を建玉ふ。是を高野山の三股の松と称す。登山の道俗皆知る所なり。)今此の李樹の奇特も亦似たり。是天より我に與ふる所と、梵刹艸創の心決定せり。老翁又云、我佛法擁護の誓あれば、時来たりて師が為に力を戮すべしと。件の寶車を轟して雲中に入玉ふ。(彼の老翁の来玉ふ寶車、于今虚空に軣く聲に差別あり。此の地に老たる者は、自然とその吉凶を聞知りて、或は喜び或は慎むの意得となる。是又當山七奇の随一なり)
斯て大師彼の池を尋玉ふに、忽ち三足の雉一羽飛来たり(七奇の一)、先へ翩りて勾引躰なれば、その行くに従って歩を進るに程なく大なる池の邊に至る。遥かに池の面を見徑せば忽ち波立て大蛇現出、大師を目がけて泳来る。大師安祥として印明を結誦し玉へば、虚空より二人の童子降り利剣を振て大蛇を池の中へ追退く(今其の所を蛇追が岳と云)。
慈覚大師、池の辺に艸菴を締び、佛場興隆の素願にて、蛇追の岳に瑜伽の道場を構へ、不動護摩を修行し玉ふ。然に何地ともなく一人の小女出て、毎朝閼伽水を獻来る。大師怪しみて其子細を問玉へば、小女答て曰、我は此の池に住者なり、尊師の御法を渇仰して、天竺無熱池の水を汲来ると。大師重ねて告玉はく、汝が佛縁浅からず。尚亦その本形を復さば、苦趣得脱の方便ありと。小女忽ち數丈の蛇體を現じ、頭を護摩壇の前にたれて、其の身は池の中に横徑れり。大師散杖を以て加持水を灑ぎ、小枝を以て炉の灰を汲かくる。又蛇形を變じて小女となり、落涙して大師を拝し、今、幸いに殊勝の法縁にあずかる。定て畜身解脱の善縁と成べし。尚願くは一夏の間、如法經の功徳を回向し、遄(はや)く傍形の苦を救ひ玉はれ。我畜趣解脱の印には池の中に七の嶋を浮むべしと。堅く誓て水底に沈みけり。尒後、大師一夏の法會を設け、小石を集て玅典を書寫し、結願の後、池の中え投入玉ふ。此の時、池の水常よりも澄透り倏ち七の嶋水上に浮出る。大師是を見て歓喜し玉ひ、一夏の所修功徳力にて蛇身得脱の印として、斯く浮出せる嶋なれば、即ち大師夏嶋と名つ゛け玉ふ。今も堅固持律の修行者、一夏の𦾔式を勤れば必ず七嶋浮と云。坂東巡礼の道俗も浮く夏嶋の言の葉を三十一文字に言つつ゛け、貴賤遠近の隔てもなく、最貴きことにぞ傳へ侍る。
巡禮詠歌「法の華 匂ふ林の寺の池 しつ゛める身さへ 浮む七嶋」
昔此の池に住たる彼の大蛇の畜類だも法縁に與りて解脱し、その験に七嶋を浮出せり。況や佛性を具て、萬物の霊たる人、此の地に詣て大悲の弘誓を祈らば、何ぞ彼の畜身に劣べきや。必ず現世安楽後生浄土、更に疑ふまじきとぞ。(又一首、沈む身の池に夏嶋を浮べける、深き慈恩の寺のいにしへ)
華林山の号は李樹は當山の瑞木なれば、堂塔神社の地はさらなり。僧坊民家に至るまで、此種を移し植るに、橐駝が傳(たくだ。柳宗元の「種樹郭橐駝伝」に出てくる植木屋郭の背骨が曲がっていて橐駝と呼ばれていたところから) 植木職人の異称)を假子ども頻りに蕃茂して李樹の林となる。一山花の時に至りては、香気四至の外までも薫ずれば、風雅の詞人も樹下に遊び。自ら華の林の山と名つ゛くると云。今十月の會式の間多くの柚子を賣買ものは彼の瑞果の餘風なりと云。
池の中に本より一の小嶋あり。その嶋に彼の蛇身を辨才天と祀る。又池の形半月の如く、常に水清く澄透りて富士の嶽秩父山の影を移して、古歌に所謂、降士之嶽 漕麼(こぐ)海士之釣舟とも詠べきにぞ。又諸伽藍の棟は高く林表に涌出て風景その侭大慈恩寺に似たれば開山祖の入唐歸朝の後、所見に任せて、慈恩寺と号し玉ふ。慈恩寺は唐の高宗皇帝の御母公文徳皇后長孫氏の為に建立する所なり。長孫夫人嘗て高宗を孕、月満ちて難産に罹り数日の間、太子誕生し玉はず。太醫院の博士李洞玄に詔して診はしむ。乃し奏して曰く、太子の手、母后の心系を執て産生し玉はず。必ず子母二ながら全くしがたしと。太宗帝憂思沈吟して決し玉はず。皇后奏して曰く、太子全ときは、帝継永く昌し。妾が身命を以て天子の為に竭さば我死すとも又何ぞ恨か有んと。貞観十年(868年)六月廿一日李洞玄、勅を奉じて皇后の腹に鍼す。太子即ち誕生して母后は尋で崩じ玉ふ。太子後に帝位を践で高宗皇帝と稱す。天陰る時は手掌に瘢痕有りて痛む。大朝の日、是を諸臣に問玉ふ。臣具に御母君崩御の故を語る。帝聞て悶絶悲泣して曰く、不幸にして母公早く崩ず。此高恩を報ぜんと為るに、昊天も極りなしと。即ち勅して大慈恩寺を造り、京城の宿徳五十人を請じ、侍者各六人を補佐せしむ。境内に旻天観(こうてんかん)と罔極宮(もうきょくきゅう)(昊天(コウテン)極まり罔(な)し、と訓読みして、報いようと思っても、報いきれない、果てしがない父母の恩をいう)を造り、道士五十八人を度して、作善孝養すと(西京寺記に見)。永徽三年(652)に亡母文徳順聖長孫皇后の衣物財帛を用て一百四十尺の塔を建つ。此西域の製度に倣ふ。五級の層々皆舎利を葬る。南面に碑銘を立つ。高宗帝自ら碑の文を製す(具に佛祖通載に出)。又云、唐の慈恩寺は長安の曲江池の側にあり。池の形半月の如く、澄水山水の影を映し、長安無雙の絶景なりと。又岑参(しん しん、715年 - 770年)、唐の詩人)が慈恩寺の浮圖に登ると云詩に、塔勢涌き出るが如く、孤高の天宮に聳ゆ。登臨、世界を出、磴道(とうどう。石段のある道)虚空に盤(わた)る。四角白日を碍へ、七層蒼穹を摩す云々。(「高適(かうせき)と薛據(せつきょ)と同に慈恩寺の浮圖に登る」「塔勢湧出するが 如く,孤高天宮に聳ゆ。登臨世界を出で,磴道虚空に盤(わだかま)る。
突兀として神州を 壓し,崢嶸(さうくゎう)として鬼工の如し。四角白日を礙(ささ)へ,
七層蒼穹を摩す。下窺して高鳥を指し,俯聽して驚風を聞く。連山波濤の 若く,奔走東に朝(むか)ふに似たり。青松馳道を夾み,宮觀何ぞ玲瓏たる。秋色西より來り,蒼然として 關中に 滿つ。五陵北原の上(ほとり),萬古青濛濛。淨理了に悟る可し,勝因夙に宗とする所。誓ひて將に冠を挂けて去り,覺道無窮に 資せんとす。」)
慈覚大師、池の南より北岸え渉んとするに、池水深く如何ともすべき様なし。然る所へ甲冑を著し玉杖を持ちたる人来り、池の南北へ藤の蔓を曳渡し大師を延て北の岸に渡る。(根は藻並みの岸にあり。二十餘丈水底を潜り未は北岸に蔓出る。数百年の于今朽ちず。俗に池渡の藤と云。山内七奇の一也)一樹の下に至り、大師に告げて曰く、此の靈木を伐て千手の像を造り此の地の本尊と成て救世の浄刹を創玉へ、我は佛法擁護の多聞天なり、前には老翁の形を現し、李樹の奇瑞を示したり。今より尚も跡を垂れて永く山内の鎮守たらんと。誓約をなして消失玉ふ。即ち多聞天の教勅に信(まかせ)て手親千手の像をを彫玉ふ。今の本堂札所の本尊是なり。其後多聞天を上院大権現と祀り山内山外の鎮守と崇奉り、毎年十月十六日の前後に三日晝夜神事祭礼厳重なり。是を小春の會式と云。俗に慈恩寺の柑子まちとも云。
永正年中松山の宿に寺嶋善六と云者あり。常に此の山へ歩を運び来り、観音幷上院権現を信仰せり。六十余歳にして久しく煩ひ已に露命も消ゆる可なり。其の妻子を近つ゛け曰く、我平日慈恩寺の霊場に帰依して、月次七日の参詣凢そ四十年なり。若き比は貧窮なりしが、慈恩寺の御利益にて、今は世財に乏きことなし。汝等代参して我病の平癒を祈れと。即ち母子共に華林の御堂に至り至心に禮拝祈念して供僧に請て籤を占ふに、供僧籤文を按じて曰く、此人定業必死の御告なり。除病延命を祈んよりは臨終正念往生浄土を願ふべしと。二人家に歸て父に斯と告げたるに、病人喜悦の眉をひらき、湯薬飲食を断て、単に正念往生の事を願へり。然るに四日目の朝妻子に告げて曰く、慈恩寺の觀世音幷上院権現その外數の聖衆を伴ひ、今我が屋敷の空に充満して我極楽浄土へ迎接玉ふぞと、寶号を唱へながら眠る如くに臨終せり。夫れより五十日ほどの間その家近き邊まで名香の薫ありしとぞ(利生記)。
釈圓仁は(慈覚)壬生氏下野都賀郡の人也。人皇十代崇神帝の皇子豊城入彦東國を治玉ふ。其の次子留て郷人となる。仁は其の後胤なり。延暦十三年(794年)に生れる。是日紫雲産屋を覆ふ。幼にして錐嚢の才あり。始め同郡大慈恩寺廣智大徳の室に入り、十五にして傳教の門に入。二十にして具足戒を受、承和五年(838年)の夏入唐。悉曇を学び梵學に通ず。顕密の諸經論に達す。又、曼荼羅に入て両部灌頂を受。登州赤山の神祀に至り、玅經弘通の冥助を祈り、本國に歸ば神洞を建んと誓ふ。其夜夢に一商人来り、仁に対して権(はかり)を買しむ、三千大千界を量(はか)る秤子也と。夢覚て後、一心三觀の理(一切の存在には実体がないと観想する 空観 、それらは仮に現象していると観想する 仮観 、この二つも一つであると観想する 中観 を、同時に体得すること)通暁せり。文宗帝許して諸州を巡礼せしむ。大徳に毎遇に經法を随學す。五臺山に登り文殊より念佛三昧の深法を傳ふ。歸朝の後、石墨草筆を以て玅典を書寫し且四種三昧(比叡山で最も歴史の古い、基本的な修行です。 中国の天台大師による『摩訶止観』に基づく修行で、常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧の四種)を修す。其經を小塔に蔵て一菴に置、是を如法堂と名く。其の菴は今横川の首楞厳院なり。其經を書寫するを如法行と云。仁壽四年(854年)延暦寺の座主となり、貞観六年(864年)正月十四日口に呪を誦し手に印を結び、北首右脇にして逝す。年七十一臘四十九。元亨釈書、日本紀等略出。(四巻終)