福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

大乗起信論その10

2023-08-10 | 諸経

言うところの不覺の義とは如實に眞如の法の一なるを知らざる故に、不覺心起って其の念あるも、念に自相なければ本覺を離れざるをいう。猶ほ迷人は方によるが故に迷うも、若し方をはなるれば則ち迷いあることなきが如く、衆生もまた爾り。覺によるが故に迷うも、若し覺性を離るれば則ち不覺無し。不覺の妄想心あるをもってのゆえに、能く名・義を知りて爲に眞覺と説くも、若し不覺の心を離るれば、則ち眞覺の自相の説くべきものなければなり。
(言うところの不覚(迷い)とは真如がだれにとっても一つであることを知らないためにその念がおこることをいうが、その迷った念には本質がないのであるからやはり迷いも覚り(本覚)を離れることはないのである。道に迷う人は方角を立てるから迷うのであって、方角を離れると迷うことはないように、衆生も覚りという概念をたてるから迷うが覚りという概念を離れると迷いはない。迷いの妄想心があるために名称・意味を考えて真の覚りはどういうものかなどと説くが若し「迷い」を離れれば「覚り」というものもないのである。)。

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