日々の出来事 9月16日 エルトゥールル号
今日は、エルトゥールル号遭難事件があった日です。(1890年9月16日)
1890年9月16日夜、親善訪日使節団としてトルコからやって来ていた軍艦エルトゥールル号がトルコ帰還の折、台風の強風に煽られ、和歌山県串本の樫野埼海上で岩礁に激突し遭難しました。
この時、樫野埼灯台下に流れ着いた生存者は、断崖を這い登って灯台に遭難を知らせました。
通報を受けた樫野の住民たちは、台風の中、総出でエルトゥールル号の乗員の救出にあたります。
そして、エルトゥールル号の乗員587人の内69人が救助されました。
当時、樫野は、海で漁をして獲れた魚を串本で売って生活する貧しい村でした。
それでも、樫野の住民たちは、蓄えの少ない食糧や衣類を供出し、食料が尽きると非常用の鶏までも食料として遭難者に与え献身的に介護しました。
その後、救助された乗員69人は神戸の病院に搬送され、回復を待って日本政府によってトルコに送り帰されました。
このエルトゥールル号の遭難はトルコ国内で大きな衝撃を与えましたが、樫野の住民たちによる救助活動や日本政府の尽力が伝えられ、トルコの人々は遠い異国である日本と日本人に対して好印象を抱きました。
現在、1870年に出来た石造灯台として現役で最古の灯台である樫野崎灯台のそばに、エルトゥールル号遭難慰霊碑およびトルコ記念館があります。
そして、串本町と在日本トルコ大使館の共催による慰霊祭も5年ごとに行われています。
さて、イラン・イラク戦争の1985年3月17日の出来事を思い出して下さい。
サダム・フセインのバカヤローが、突然、“今から48時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす”と宣言しました。
イランに住んでいた日本人たちは、慌ててテヘラン空港に向かいました。
しかし、どの飛行機も満席で乗ることがで出来ませんでした。
そして、世界各国は自国の救援機を出して、自国の人間を救出していました。
でも、いつもの様に日本政府は素早い決定が出来ず、飛行機はやって来ませんでした。
それで、空港にいた日本人はパニック状態に陥っていたのです。
その時、なんとトルコ航空の飛行機2機がやって来て、日本人215名全員を乗せて、成田空港に向けて飛び立ったのです。
それも、タイムリミットの1時間15分前でした。
何故、トルコ航空機が助けに来てくれたのか、日本政府もマスコミも知りませんでした。
この時、前駐日トルコ大使であったネジアティ・ウトカンは次のように語っています。
「 エルトゥールル号の事故に際し、大島の人たちや日本人がしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。
私も小学生のころ、歴史教科書で学びました。
トルコでは、子どもたちさえ、エルトゥールル号のことを知っています。
今の日本人が知らないだけです。
それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」
でも、このエルトゥールル号の話は、日本ではあまり知られておらず、教科書にも掲載されたことがありません。
自虐的な話が多い日本の歴史教育に、もっと心が温まるような日本人が出てきても良いのではないかと思います。
取り上げるべき暖かい歴史は、実は他にもたくさんあるのです。
エルトゥールル号
☆今日の壺々話
トルコ人の友人
ちょっと前になるのだが、トルコ人の友人と一緒にテレビを見ていたことがあった。
なんの番組だか忘れたけど、その番組を見ていた友人がぽつりと一言。
「 時々さー、日本人て、神様が人間は頑張ればここまで出来るってことを、他の人間に教える為に作ったんじゃないかと思うんだ。」
一瞬、なにを言われたのか分からなかった。
「 な、なに・・?」
数秒後、なにやらすごいことを言われたらしいことが、ようやく解りかなりうろたえた。
彼は、トルコ人には珍しく、あまりお世辞の得意なタイプではない。
いや、もちろん儀礼的な意味でのお世辞は言うけど。
“髪型どう?”、“似合ってますよ”くらいのは。
逆に、いつも私とは、日本やトルコの問題点を歯に衣着せぬ調子で話している。
本音を言い合える親友のような友達なのだ。
テレビがその時映していたのは、平城京のジオラマだった。
細かく精緻に作られた。その細かさに彼は見入っていた。
もちろんそんなものは、他の国にもあるだろうし、テレビで映っていたものが特にすごいものとは、私は感じなかった。
ジオラマ作りのバイトは学生時代にしたことがあるが、それはそれなりに大変だった。
細かくて。
でも、私はジオラマよりもっと細かい細工の工芸品を知ってるし、そのジオラマは日本の美術系の学生なら作ってしまえるレベルのものだった。
でも、彼はそれを見て、今まで日本で見て来た様々なものを思い起こしたようだった。
日本庭園の陰影、美しく盛り付けられた料理、和菓子の色合いと形、錦に刻まれた細かい刺繍、蒔絵のきらめき・・・。
どんなものにも手を抜くことのない、日本人の完璧な仕事・・。
彼は芸術的な素養があって、日本についてもその方面に特に関心が高いようである。
特にテレビで日本庭園が映ると、真剣に見入っている。
同時に盆栽展などに連れて行くと、めちゃめちゃ喜ぶ(笑)。
ついでに、納豆と梅干し、ワサビが大好きで、日本人と食事に行く時は、自分の箸の口をつけてない方へひっくりかえして、大皿から料理をとる(笑)。
彼ほど日本文化を愛するトルコ人を見たことがない(笑)。
だからと言って、彼がトルコを忘れてしまったのかというとそうではなく、オスマン‐トルコ時代の文化を捨て去ってしまった現代のトルコの姿を嘆いてる。
多分、彼はトルコも日本と同じ様に古いものも大事にして、自分達の精神を形作るものの元の形を、残して欲しかったのだろうと思う。
文化として。
彼は日本人が新しいものを作りつつ、古い伝統的なものも驚くほどよく残していて、それと同時に古いものから又新しいものを作りだしている様子を感嘆しながら見ている。
「 神が人間は頑張ればここまで出来るってことを、他の人間に教える為に日本人を作ったんじゃないかと思う。」
そんなことを彼に思わせてくれた、職人さんや日々黙々と働いている皆さん。
お疲れ様です。
そしてありがとう。
やる気なし・・とか言ってないで、私も頑張らんとだめだな、こりゃ(^^;
トンカツ
「 トンカツの食えない生活なんて!
俺はイスラムをやめるぞ~!」
と、叫んで出て行ったトルコ人が、さっき泣きながら帰ってきた。
神道に改宗しようとして神社に行ったら、神主さんに徳のあるお話をしてもらったらしい。
「 日本の神様は、よその神様も他国のお友達みたいに思ってるから、改宗とかカリカリしなくて大丈夫だよ、ゆっくり考えておいで。」(意訳)
みたいなことを言われて感動したとか。
俺の部屋の神棚(簡易セット)に、イスラム式お祈りを捧げている。
確かにやおよろずの神だからいいのかもしれんが、それを神主さんが言っちゃっていいのだろうか。
そして、一神教が感動しちゃっていいのだろうか。
ちょっと面白い。
これが日本人(男)の特徴だ!
●とんがりコーンを指にはめる。
●バームクーヘンをはがす。
●扇風機の前であーーーって言う。
●ポッキーのチョコの部分だけを舐めとる。
●全校生徒の前でバンド演奏という妄想。
●自分の写メを何度も撮って、自分が一番かっこよく写る角度を研究する。
●歩いてるとき余計なこと考えて足がグキッてなる。
●焼きそばを作るつもりがラーメンになる。
●自転車に乗ってる時ペダルを踏み外して空転したペダルがひざの裏にヒッ
トする。
●向かってくる歩行者をかわし損ねて、フェイントのかけ合いみたいになる。
●鏡をみて、「俺イケメンかも」とか思うけど、それは光や角度の問題で、
町でふとガラスに映った自分を見て落ち込む。
●自分の声を録音して聞いて、死にたくなる。
●深夜にやっている映画を勝手にエロだと勘違いして夜更かしして後悔する。
●街中で考え事してたら、他の人に聞かれてんじゃと思い「聞いてんだろ?」と、
意味不明なテレパシーを送る。
●部屋の電気のひもを使ってボクシング。
イタ飯屋のシェフ
近所の安くてメチャウマなイタ飯屋のシェフ。
いつもは厨房にいるけど、ときどき、
壁|・ω・) ソー…
壁|・ω・)ノシ チャオ!!
壁|ミ ピャッ
って客席を覗いてるw
お客さんの喜ぶ顔が好き、
自分もおいしい料理が好き(和食の味も研究中)、
日本の可愛い女の子も好き、なイタリア人。(店員談)
帰りに厨房に聞こえるようにおいしかったよーと言うと、
壁|ω・*)ノ
と出てくる。かわいい。
ナイジェリア人
友人にナイジェリア人と結婚した人がいる。
彼女曰く、
「ウチの旦那(ナイジェリア人)どんどん日本人化している」
1.来日したときは、バンダナ(よく分からんが黒人巻きとでも)していたが、今では、タオルでアタマを土方巻き
2.ずっとパン食だった。が、今では白いゴハンに鮭フレークがないと、ブツクサ言いやがる(さすがに生卵はいまだにムリ)。
3.ケンタッキー・フライドチキンが大好物だったくせして、今ではしょうゆ味のトリカラのほうが大好きに。
週に二度リクエストで作る。
勘弁してほしい。
4.バドワイザー系の外国ビールしか飲まなかったのに、今では、ウーロンハイか、梅干サワーばかり。
日本酒はコップ酒一杯飲むと、愉快を通り越してキケンなことになるので、与えないことにしているらしい。
5.ソファーがないと死ぬとかいっていたくせ、今では畳大好き。
座布団折ってごろ寝。
ドロのようなコーヒーから、マリモ解かしたような濃すぎる緑茶へシフト。
生茶は、甘すぎる と文句たれる。
出あった当初、イケてた黒人兄ちゃんが、どんどん日本のオッチャン化していると、少し妻は嘆いていたが、毎日、面白くて仕方ないらしい。
こたつ
家具屋でバイトしてるんだけど外国人夫婦がやってきた。
ソファを探しているようで奥さんはソファを物色。
旦那は何をしていたかというと、こたつコーナーへ行って、こたつの中にずーっと入っていた。
(こたつの中に潜り込んで首だけ出してる状態)
.。゚+.(・∀・)゚+.゚←な顔して奥さんに、
「これいいよ!!いいよ!」って訴えてた。
結局、予算の都合で旦那の訴えは却下されて(´・ω・`)な顔になってました。
Mちゃん
大学時代、米人の留学生J氏をバイト先の友人との飲み会に誘ったら、日本人の友達をほしがってた彼は喜んでついてきた。
白皙にライトブラウンの目と髪の、まごうことなきイケメンだったので、女連中は大歓迎して知ってる英語でさかんに話しかけてたんだけど、一人、短大の英文科のくせにまったく英語ができないというMちゃんだけが完全に日本語だけで話してたんで、J氏はMちゃんにばっかり話し掛けてました。
外人嫌いのMちゃんは大変迷惑そうに受け答えしていたんだけど、J氏がMちゃんの男より汚い言葉遣いを珍しがって真似し始めたので、あわてて「やめ、今のなし」とか「そうじゃない」とかいちいち訂正してやっていたけど、時すでに遅しで、次の日からJ氏は「××さんがくそたわけたことを言いました」とか、「マックス(飼い犬)の野郎がどこそこでションベンを」とかいう言葉をネイティブな日本語のつもりでか、物凄く嬉しそうに使うようになってしまった。
Mちゃんは口が悪いだけで別にDQNでもなんでもなかったので、外人さんに汚い日本語を教えてしまったと恐縮して、それからJ氏に会うたびに、「別にその言葉を覚えてもいいけど、正しくはこうだ」と、やめようとしないJ氏に丁寧に正しい同義語や口語を教えてやってました。
最初からそんな感じはしてたが、それでJ氏は完全にMちゃんが大好きになってしまい、求愛してクリスマスの一時帰国に一緒に連れてこうとしたが、Mちゃんにスパーンと断られて可哀相なくらい落ち込み、その晩初めて日本酒をあおって、「日本人に生まれたかった」と何度も言ってました。
日本食
昔、いっしょに寮で暮らしてた英人と印人がそろって日本食好きだったな。
ある日、談話室に何人かたまってると寮母さんが「カツカレーが一人前余ってるけど食べる人はおる?」と聞いてきた。
上記の二人を含む数人が挙手したんだけど、この2人が凄かった(大好物らしい)。
印「カレーはもともと我が国発祥のものだ、紳士らしく私に譲ったらどうだね。」
英「いや、カレーを日本に伝道したのは我が国である、君こそ非暴力主義に基づき私に譲れ。」
と一歩も引かなかった。
ちなみにカレーは2人が口論してる間に、2階から降りてきた空腹のアメ人が美味しくいただいてました。
その後、「アメリカはいつもこうだ」「美味しいとこだけ取りやがる」と、英・印カレー条約が結ばれました。
外交官
「外交官」といえば、華やかな仕事ばかりのように思われるが、実際は種々雑多な「仕事」が含まれている。もともと「外交官」の仕事は、外国と交渉やつきあいの最前線の仕事に加えて、「邦人の保護」という仕事がある。パスポートを持っておられる方は見ていただきたい。写真を貼った隣にこう書いてある。
「日本国民である本旅券の所持人を通路故障なく旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助を与えられるよう、関係の諸官に要請する。日本国外務大臣」
上記は日本の外務省が外国の関係機関に要請したものだが、外務省の出先機関(大使館等の在外公館)がある場合は、そこが「邦人(=日本人)の面倒」を見ることになる。例えば、旅行中にパスポートや金品をとられた場合、まず現地の警察に届け出るが、その後で「大使館領事部、領事館」に届け出て、パスポートの再発行他の手続きをとることになる。また誘拐事件などの場合は、本国と連絡を取って適切な処置をとることになっている。近年は日本人の海外旅行者が増加しているので、邦人が犯罪などに巻き込まれることが多く、外務省もホームページで注意を呼びかけている。
このように、在外公館の仕事はたくさんある。生きている人間の場合はまだ良いが、これが「死人」の場合でも「日本人」と分かると、「対応」しなければならないのである。ある日のこと、アルジェの公館(大使館)に、アルジェリア外務省経由で現地の役所から連絡が入った。「ニジェールから入国した自転車旅行の若い男が、病気で死んだ。日本のパスポートを所持している。タマンラセットに死体が保管されているので、確認の上死体を引き取ってもらいたい。」
こういう場合は、ふつう大使館「領事部」の仕事である。領事部は何人も職員がいるが、他の職員は仕事がふさがっていて、話をしてくださった方に「白羽の矢」が当たってしまった。「飛行機で運ぶのが手っ取り早い」と航空会社に問い合わせると、「死体は運ばない」というつれない返事であった。仕方がないのでトラックを手配し、大使館勤務のアルジェリア人運転手に運転させ、助手席に乗って出発した。アルジェからサハラ南端の町タマンラセットまでは片道およそ2000kmで、休まずに行っても3日はかかる。こうして苦労しながらタマンラセットにやっと到着し、連絡のあった場所に向かった。
安置所のある場所は「死体保存用冷蔵庫」がなく、物置のような場所にムシロがかけられて死体が無造作においてあった。真夏ではなかったが、サハラの町で死後一週間近くなると、腐敗がかなり進む。腐臭もすごい。室内に入った瞬間、吐き気を催した。死因はマラリアらしかった。ナイジェリア、ニジェールなど「熱帯」で蚊に刺されると、自転車でアルジェリアに入国する頃には発病する。パスポートや遺品を確認し、死体を荷台に乗せてからアルジェに向かった。エアコンのないトラックは窓を開けて走るが、後方から風に乗って腐敗臭が漂ってくる。ムカムカして何度も吐きそうになった。タオルを顔に巻いたが、後になるほど臭いは強くなった。泊めてくれるホテルもないので、車内で仮眠しながら走り続けた。こうしてまたも2000kmを走り抜き、這々(ほうほう)の体(てい)でアルジェに帰ってきた。
帰ってきたところで、日本の家族からの連絡が入った。結論からいうと、「死体受け取り拒否」だという。理由は、「あの子は定職にも就かず、勝手に海外へ出て旅行ばかりしていた。家族はずっと大変迷惑をしていた。現在は<勘当>の身なので、死体も遺品も要らない。適当に<処分>して下さい。」 これには百戦錬磨の大使館員たちも、二の句が継げなかったという。
そうこうしているうちにも、死体の腐敗は続く。飛行機で「腐乱死体」は運べないので、海岸へ運び焼くことにした。ところが今度は地元警察から「待った!」がかかった。「火葬は相ならん」というのだ。アルジェリアをはじめ、イスラム教の国は「土葬」が原則である。従って「火葬などとんでもない」ということになる。大使館は困り果て、アルジェリアの外務省に泣きついた。死体が腐敗して日本へ運べないこと、日本は仏教なので「火葬が原則」なことなどなどいろいろ説明して、やっと「火葬許可」をもらった。
こうして海岸に薪を積み上げて、死体を焼くことにした。「昼間は近隣の住民が見に来るのでまずい」として、真夜中に「こっそり」焼いた。髪の焼ける様な死体の焼ける臭いを嗅ぎながら、「因果な商売だ」と思ったという。焼けてしまうまで徹夜して、朝骨を拾い上げて陶器の壺に入れ、大使館に持ち帰った。そして後日、大使館員が「連絡業務出張」で日本に帰る時いっしょに持ち帰り、「ホトケさん」の故郷の実家まで運んだ。しかし、あまり感謝はされなかったという。
この話をして下さった方は、最後に「何度思い出しても嫌な話です」と話された。それにしても、「サハラくんだりまで好きで行った」とはいえ、「異国の果てサハラ」で亡くなった若者の「無念さ」はいかばかりであろうか?。また最期の瞬間に、彼の脳裏に浮かんだことは何だったのであろうか?
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