大峰正楓の小説・日々の出来事・日々の恐怖

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日々の出来事 5月14日 ひかりごけ

2018-05-14 19:52:15 | A,日々の出来事_






  日々の出来事 5月14日 ひかりごけ






 今日は、ひかりごけ事件が発覚した日です。
ひかりごけ事件とは、1944年(昭和19年)5月14日に北海道目梨郡羅臼町で発覚した死体損壊事件のことです。
 1943年12月、小樽に向かう徴用船が知床岬沖で消息を絶ちました。
船長が上陸したのは、知床半島ペキンノ鼻、ここは真冬の北海道で極寒のうえ雪と氷と吹雪に覆われた地域でした。
そして、1944年2月、この徴用船の船長が一人、羅臼町岬町に住む漁民一家の小屋に助けを求めてやって来たのです。
 当初、船長は、“船が難破し、他の乗組員は全て死亡したが、上陸地点近くの番屋に蓄えられていた食糧や流れ着いたアザラシを食べて生き延びた”と言っていましたが、この番屋の持ち主が、番屋近くで林檎箱に収められた白骨を発見し警察に通報しました。
 警察の調べに対し船長は、本当のことを告白します。
実は、この番屋には、船長以外にもう一人、19才の少年がたどり着いていました。
しかし、少年は寒さと飢えで死亡してしまいます。
そして、船長は生き延びるために少年を食べたのです。
 歴史上、食人が公に明らかになった事件は多く見られますが、ひかりごけ事件はそれにより刑を科せられた初めての事件だとされています。
日本の刑法には食人に関する規定が無い為、死体損壊事件として処理され、船長は心神耗弱状態で減免を考慮されて、懲役1年の刑が科せられました。
 そして、1954年、武田泰淳がこの事件をモチーフにした“ひかりごけ”と言う小説を発表したことにより、この事件は、ひかりごけ事件と言われるようになりました。
“ひかりごけ”と言う題名は、“罪を犯した人間はヒカリゴケのように光る”という設定から来ています。
















       知床半島 ペキンノ鼻
























☆今日の壺々話












大学







「 お宅の学校は、世界中の国から生徒を受け入れているんですね。
すばらしいです。」
「 でも、世界中ですから、いろんなことが起こります。」
「 たとえば?」
「 私に塩とコショウを振り掛ける生徒がいるんです。」
























食人族








 3人の男が森の中で道に迷ったあげく、人食い部族に捕らえられてしまいました。
恐ろしい人食い部族の王様を見た3人は思いました。

“ うわっ、ヤバイになったぞ・・・!”
“ あいつに、あっという間に、食われてしまうのか・・・。”
“ 何とか、逃げ出せないかな・・・。”

3人は小声で相談すると、取り敢えず、助けてくれと言ってみることにしました。

「 何とか、お助けを・・・!」

その声を聞いて、部族の王様は捕虜たちに厳かに言いました。

「 そうだな・・・・。
もし試練に耐えることが出来れば、命だけは助けてやってもいいぞ。」

3人は、感謝して試練を受けることにしました。
そして、王様は言いました。

「 試練の第1段階を言おう。
部族の者たちと共に森に入り、何でもいいから果実を10個持ち帰るのだ。」

3人は王様の言葉を聞いて思いました。

“ そうか・・・・。
果実はとっても貴重品だから、それと命を引き換えだな・・・。”

さっそく捕虜となった3人の男たちは部族の者たちと共に、それぞればらばらに森に入って行きました。

 しばらくして最初の捕虜が戻って来て、王様に言いました。

「 リンゴを10個持ち帰りました。」

それを聞くと王様は、おもむろに試練の第2段階を伝えました。

「 それでは、持ち帰ったリンゴを全部ケツの穴に詰め込め。
しかも、そのとき、顔の表情をひとつも変えてはならず、顔が少しゆがんだだけでも、お前は食べられてしまうだろう。」
「 ゲッ!!」

 最初のリンゴはなんとか無事におさまったものの、2個目を押し込んでいるときに捕虜は苦痛で顔をゆがめてしまいました。
そして、最初の捕虜はあっと言う間に食われて天国に行ってしまいました。

 2番目の捕虜が帰って来て、王様に10個の果実を差し出しました。
差し出されたフルーツはイチゴが10粒です。
王様は最初の捕虜と同じことを、この2番目の捕虜にも求めました。
2番目の捕虜は内心“してやったり”と思いました。

“ 小さなイチゴなら10個ぐらい押し込んだところで何てことはない!”

ところが、9個目のイチゴを押し込んでいるときに、その捕虜が突然大声で笑い出したのです。
このため、2番目の捕虜も、あっと言う間に食われて天国に行ってしまいました。

 天国で、その様子を見ていた最初の男のところに、食われた2番目の男がやって来ました。
最初の男が2番目の男に尋ねました。

「 何でまた笑ったりしたんだ?
あと1個で助かったと言うのに。
少しは我慢と言うものが出来なかったのか!」

2番目の男が答えました。

「 分かってる、分かってる。
でもあれを見たら、とてもじゃないが笑わずにはいられない。
何しろこっちが真剣にイチゴを押し込んでいるところに、3番目の男が嬉しそうにでっかいスイカをいくつも抱えて帰って来たんだぜ。」























神様








 探検家がアマゾンのジャングル深くを探険していたとき、突然人喰い人種の大群に取り囲まれた。
彼は心の中でつぶやいた。

「 神様、俺の悪運もつきました。」

そのとき天からひとすじの光が射し、声が響きわたった。

「 迷える仔羊よ、お前の運はまだ尽きていない。
さあ足元の石を取り、彼らの酋長の頭を殴りなさい。」

探検家は勇気をふりしぼって石をとりあげ、酋長の頭を目一杯殴った。
足元には死体が転がり、周囲には怒りに燃える人喰い人種の群れ。
探検家がどうなるかと息を殺していると、またも天からの声が響いた。

「 OK、仔羊よ、これでお前の運は尽きた。」























食人家族








 4歳の頃、祖父が死んだ。
葬式に出て出官の時に、

「 これから、どこにいくの?」

と訊ねた私に、

「 おじいちゃんを焼きに行くんだよ。」

と父。
 何の事だかさっぱりわからず寝てしまい、気が付くと家に。
しばらくして、

「 ご飯よ~!」

と母。
 で、その時のメニューが豚の生姜焼き。
急に、感極まった父が泣きながら食っているので、その肉を間違いなくおじいちゃんだと思って食べはじめた私。
 祖父が大好きだったので、私も泣きながら、

「 おじいちゃん、おいしいね。」

と言うと、父はさらに激しく泣き始めて、母が、

「 おじいちゃん、みえるの?」

と私に聞くので、目の前にある肉が祖父だと確信している私は、

「 おじいちゃん、目の前にあるよ。」

と答えると両親は二人で泣き出し、私も泣き出し、どうしようもないお馬鹿家族状態に。
(豚の生姜焼きは祖父の大好物だったのを知るのは10何年後)
 それから肉が我が家の食卓に上がると、私は決まって、

「 だれ?これだ~れ?」

と聞いたそうだ。
そのたび母は、

「 だれじゃないでしょう・・、な~にと聞きなさい。」

と小言。
 本当に恥ずかしい話だが、小学4年位まで肉は全て人肉だと思っていた。
なぜか、給食の肉(南蛮鯨)はベトナム戦争の犠牲者だと思っていた。
だから手を合わせて、いただきますと言うのだと思っていた。
























食文化







 うちに短期ホームステイしていたアメリカ人、文化の方には関心があるのに、食文化をあまり受け入れられないようだった。
仕方無いから、毎日のようにマクドナルドに行くことに。
 そしたら、この間までやっていたチキンタツタが復活してた。
アメリカ人、チキンタツタをイヤイヤ食ったのだけど、

「 ナニコレ、ウマイヨー!」

という、私たち受け入れ家族ですら聴いたことのないフレーズ連発。
その日から彼の食事はチキンタツタになった。
 しかし、彼の大学の研修で2,3日家を空けた隙に、チキンタツタが好評で売り切れてしまい、次の週から始まるグラタンコロッケバーガーが繰り上げになっていた。
 うきうきマクドに行った彼は血相変えてわめき散らす。

「 何て会社だ、マクド?、どこの国の会社だ、アメリカなら訴訟になっている!」

アメリカの会社ですよ。

 日本法人に電話までして、チキンタツタが期間限定で次の販売がいつかわからないと知ると、彼はスーパーで「竜田」と名前のつくものを買いあさりはじめた。
だが、ぞうしてもチキンタツタの感動にはほど遠いようで、今度は自分で作り始めた。
竜田を作るようになると、竜田だけではなんか寂しいので野菜も揚げるようになり、町の八百屋を襲撃しはじめた。
 そして、天麩羅屋でコロッケに開眼し、天麩羅ののった蕎麦に覚醒し、ついに真の意味で日本食に目覚めた。
ヘレンケラーの「ウォーター!」みたいな。
 ジャンク漬けの彼が言うには、彼がかつてアメリカで食べた日本食は、変な味がして、だけども両親が高い食べ物だからというから無理矢理食べて、それで受け付けなくなったんだそうだ。

 三ヶ月間だけのホームステイだったけど、大学卒業後はなんとかして日本に来るつもりで、大学の教授に就職口を斡旋してもらうんだって。
 彼は、誰にも言えない持病の痔に悩んでいたんだが、繊維質の野菜食とウォッシュレットで完治したから、たぶんウォッシュレットのない生活を長く続けることはできないだろう。
だが、ウォッシュレットを「エンジェルのキス」を呼ぶのはやめろ。























お話“耳”








 キャンプブームの頃でした。
私は友人と2人でキャンプに行きました。
夕食後、キャンプ場を歩いていると40代くらいの2人の男性に、

「 食べて行きませんか?」

と声をかけられました。
 立ち込める煙の臭いは気になりましたが、話してみると2人は兄弟で東京から来たと言います。
私は2人の雰囲気は好きにはなれませんでしたが、友人は兄の方と楽しげに話をして、

「 ちょっと、寄って行こうよ。」

と言うので、私は仕方なく、

「 じゃあ、ちょっとだけ。」

と答えました。
 焼肉とか野菜をいただいていたのですが、暫くして話の成り行きで友人が、

「 怖い話をしない?」

と言い始めました。
 私は乗り気ではなかったのですが、流れでそうなりました。
すると兄の方が、こんな話を始めました。


 小学4年の時、都心から引越して来た時に体験した話です。
タナカくんという友達ができました。
毎日一緒にいるうちに気付いたのですが、タナカくんの体にはどこかしらにアザがありました。

「 どうしたの?」

と聞いても、

「 何でもない。」

と笑って答えるだけです。
 でも、毎日のように聞こえるお母さんの、“このクソガキ”や“死ね”という怒鳴り声などで薄々は知っていました。
多分、虐待されていたのでしょう。
 ある日、救急車の音がして外へ出てみるとタナカくんが担架で運ばれてました。
坊主頭には黒く固まった大量の血がついてました。
お母さんは“弟と喧嘩して壁に頭をぶつけた”と説明していました。
タナカくんの弟は無表情で立っていました。

 数ヵ月後、タナカくんは退院しましたが頭を打ったせいなのかいつもと違った行動をとり僕を驚かせました。
それは例えば、野原で一緒に遊んでいると突然しゃがんでバッタを食べました。
また、公園の鯉を捕まえて食べようともしました。
 その頃から会う度にタナカくんは何かを食べており、弟がいつも食べ残した何かを埋めていました。
気味が悪かったですが、病気だからと仕方なく遊んでいました。
 しかし、さすがにもう嫌だなと思った事があります。
それは、公園で遊んでいたとき、ブランコに乗っている小さな子供を見て、

「 おいしそうだな。」

とつぶやいたのです。
それから段々、距離を置くようになりました。
 そんな時、事件が起きました。
当時、団地の周りはマスコミが殺到していました。
タナカくんは酔っ払って眠っているお母さんの耳を噛み切って飲み込んだそうです。


話が終わり、辺りが静かになりました。
 焚き火が、バチンとはぜる音の後に友人が、

「 それでタナカくんはどうなったの?」

と聞くと、

「 施設に入ってから消息不明。」

と、兄は私の顔を見ました。
 息が止まる感じになり急に怖くなりました。
思わず友人に、

「 トイレに行かない?」

と言うと今まで黙っていた弟の方が、

「 一緒に行こうか?」

と言ってきたので体が固まってしまいました。
 友人が明るい口調で断り、2人で来た道を戻りトイレに向かいました。
トイレから出た後、私が帰りたいと話すと友人も同意見で、兄弟を放置して車に乗ってしまいました。
 帰り道に、

“ さっきのタナカくんの話は自分自身の話なのではないだろうか・・。
あの焚き火から変な臭いがしていたがアノ兄弟は何を焼いていたのだろうか・・。”

とか考えましたが、少し時間が経つとバカな妄想だな、と笑いそうになりました。
 そのとき、運転していた友人が、突然私に話し始めました。

「 いや~、始めに話をしたときに“大きな耳だね、おいしそうだ。”なんて面白くない冗談を言っていたんだよ。
その後に、アノ話は気味が悪かったなァ、ハハハ・・・。」


















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