新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

ボッティチェリとフィレンツェ② 画家のスタート。メディチ家の人びとを描き込んだ出世作

2018-09-28 | ボッティチェリとフィレンツェ

 画家としてのスタートは15歳の時。当時の代表的画家であったフィリッポ・リッピに入門したことからだ。
 初期にはリッピの画風に似た絵を描いていたが、次第に腕を磨いてゆく。1467年、リッピがスポレートに移住したことから一時ヴェロッキオ工房に参加した後、1470年自らの工房を構えた。

 そんな時に舞い込んだのが、彼の本格的画家デビューとなる仕事だった。
フィレンツェ商業評議所が「美徳」の擬人像7点をピエロ・デル・ボッライオーロに発注していたが、ピエロが制作期限になっても完成しなかったため、ボッティチェリに追加発注を行った。

 そうして1470年に完成したのが「剛毅」の擬人像だ。ボッライオーロの制作した信仰。賢明などの像がどちらかろいえば平凡だったのに対して「剛毅」は表情の豊かさ、肉体表現の量感などいずれも高い完成度だった。

 ボッティチェリは、この絵によってフィレンツェ画壇に鮮烈なデビューを果たすことになった。
 当時のフィレンツェはロレンツォ・イル・マニフィコ(ロレンツォ豪華王)がメディチ家の当主となり、実質的にフィレンツェを支配していた。そのロレンツォから絶大な支持を受けたボッティチェリは、次々と傑作を完成させて行く。

 象徴的な作品は「東方三博士の礼拝」だろう。
 キリスト誕生に際して祝福に訪れた三博士、という聖書の物語をえがく際、メディチ家の人びとを登場人物に擬して描くという手法を使った。

 中央にいる聖母に抱かれたキリストの足先を支えるのはメディチ家の始祖コジモ・イル・ヴェッキオ、中央の赤いマントがその長男ピエロ・イル・ゴットーソ、その右の白い服が次男ジョヴァンニ、さらに右側黒い服がピエロの次男ジュリアーノ・ディ・メディチと並ぶ。

 そして、当時の当主ロレンツォ(ピエロの長男)は左端に胸を張って自信にあふれた姿を見せている。

 絵全体を見ても中央の聖母を頂点としたピラミッド型の構図をしっかりと形成している。

 ロレンツォはボッティチェリを評してこんな言葉を残している。
 「ボッティチェリ、食いしん坊のボッティチェリ。彼はハエよりもやかましく食いしん坊。
  彼のおしゃべりを聞くのは何と楽しいことか・・・」


 そんな気に入られ方をしていたボッティチェリ自身はどんな姿をしていたのだろうか?

 その疑問を解消してくれるものが、この絵に残されている。絵の右端でこちらを見ている茶色の服がボッティチェリその人。彼の自画像はこれ1枚しかないといわれている。

 ここでこぼれ話を1つ。当時描かれた自画像はすべて観客と視線が合ってしまうようになる。なぜなのか?

 それは、写真などがない時代は、自画像は自らの顔を鏡で見ながら描いていた。従って視線が常に正面を向く結果になってしまうのだそうだ。

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ボッティチェリとフィレンツェ① まずはボッティチェリの眠るオンニサンティ教会へ

2018-09-24 | ボッティチェリとフィレンツェ

 ボローニャ滞在最終日、フィレンツェに日帰りで出かけた。それも1日でメディチ家礼拝堂、バルジェッロ国立博物館、パラティーナ美術館、そしてウフィツィ美術館と4つのミュージアムを全部見て回ろうという、無謀な計画だ。
 というのは、これまでフィレンツェには何度も行っており、大体の作品は見ていたが、作品の撮影は禁止されていた。しかし、近年撮影がOKとなったことから、好きな作品を改めて撮影しようというのが目的だ。そして多くの作品をカメラに収めてきた。

 ただ、それらを羅列的に掲載するのも面白くないので、まずはボッティチェリをテーマに、彼の生涯と作品を重ね合わせてたどって行こう。

 ボッティチェリ。フィレンツェに生まれ育ち、フィレンツェルネサンスの寵児としてヴィーナスの誕生、春(プリマヴェーラ)などの代表作品を残しながら、晩年は孤独の中で生涯を終えた画家だ。

 「アレッサンドロ・デイ・フィリペーピ」。これが彼の正式な名前だ。1444年(又は1445年)フィレンツェのほぼ中心地区オンニサンティ28番地で生まれた。

 現在そこに建っている建物はボッティチェリとは無関係だが、オンニサンティ教会のすぐ近くに位置している。

 オンニサンティ教会は、新大陸アメリカの名付け親となったアメリゴ・ベスプッチ家の菩提寺。そこに今はボッティチェリの礼拝堂が造られ、彼が眠りについている教会だ。

 父は皮なめし職人。4人兄弟の末っ子として生まれ、1度だけローマに出てバチカンの仕事をした以外は終生フィレンツェに住んだ「フィレンツェ人」だった。
 なお、ボッティチェリという愛称の由来はこうだ。長男のジョヴァンニが大酒飲みで、樽のように太っていた。それで小さな樽を意味する「ボッティチェロ」のあだ名がつき、次第に弟たちも同様に呼ばれていたということのようだ。


 オンニサンティ教会に入った。内部は薄暗い空間。ひっそりと沈むその中で照明が灯された主祭壇だけが輝いている。

 ここの主祭壇の美しさは数ある教会の中でも特別なきらめきを感じる。

 大きな2枚の絵が両側の壁に架けられている。

 これがギルランダイオ作「聖ヒエロニムス」

 そして反対側の壁にボッティチェリ作「聖アウグスティヌス」。ここでちょっとユーモラスな発見がある。

 アウグスティヌス像の背後にある書物部分には何やら細かい文字が書いてある。

 「コルティーノ修道士はどこだい?」
                     「逃げてしまったよ」
 「それで どこへ逃げてしまったんだい?」
                     「プラートの門を通って町の外さ」

 当時のフィレンツェにはフィリッポ・リッピという著名な修道士の画家がいた。リッピは画家としては一流だが無類の女好き。素敵な女性が現れると描きかけの絵をほっぽり出して女性の元に行ってしまうほど。そんな彼がプラートの大聖堂に絵を依頼されて出かけたが、修道院の尼僧に一目ぼれ、プラートの祭りの日に修道女を連れ出して逃げてしまうという‟事件”を起こしていた。
 
 そんなエピソードを連想させる会話を、ボッティチェリはさりげなく作品に仕込んでしまった。実はリッピは彼の絵の師匠。なのにこうした仕掛けをしてしまう彼のユーモラスな性格がうかがわれる。

 そのリッピの代表作がこれ。聖母はエピソードの修道女、キリストは2人の間に生まれた子供をモデルにしているという。


 教会内部紹介に戻ろう。ジョット作「キリスト磔刑」。

 大きな天井画も見所に1つだ。
 さあ、ボッティチェリの墓に進もう。教会の向かって右側奥に彼の礼拝堂がある。

 近年掲げられた「ボッティチェリの墓」と書かれたプレート。

 床には本名の書かれた円があった。「アレッサンドロ・フィリペーピ」と読める。

 正面に礼拝堂。

 祭壇にはこんな像が置かれていた。

 天井にも絵が施されている。

 しっかりとお祈りをして、さあボッティチェリ巡礼のスタートだ。


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