新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

上野歴史散歩㊹ エゴンシーレが師と仰いだクリムトとの出会い、そしてヒトラーとのすれ違い

2023-02-24 | 上野歴史散歩

 現在東京都美術館ではエゴン・シーレ展を開催中だ。ウイーンにあるレオポルド美術館所蔵の彼の絵を中心にしたもので、国内では30年ぶりの本格的なシーレ展となっている。

 実は私も約10年前にレオポルド美術館でシーレの絵に衝撃を受けた経験がある。また、写真撮影も可能だったので作品資料もある。そこで当時の回想も含めてシーレの作品と生涯を振り返ってみた。

 エゴン・シーレは1890年生まれ。そのころのウイーン社会は大きな変革の時期を迎えていた。街を囲んでいたリンクと呼ばれる城壁が取り払われ、その外壁跡の通りに次々と新しい建築が建てられた。

 それも、ゴシック、ルネサンス、ギリシャ様式など、過去の建築様式を取り入れて新たに建築するという画期的な手法が採用された。壮麗な建築群が並び、その天井や壁画には新しい人材が起用された。

 その一人がグスタフ・クリムト。

 ブルク劇場の天井画で才能が認められ、さらに新しい芸術を志向して「分離派」を結成、運動の中心となった。長く続いたハプスブルク帝国最終版の円熟期だった。

 シーレはそうした風潮や変革の風を感じながら成長、1906年には美術アカデミーに合格、絵の道を歩み始めた。

 シーレはクリムトを尊敬し、師と仰いでいた。その表れとして挙げられるのが「枢機卿と尼僧」だ。左に男性、右に女性を配し、膝まづいてキスするこの作品の構図。

 それはクリムトの代表作「接吻」と全く同じだ。

 だが、彼はそこに留まろうとはしなかった。

 「隠者たち」という作品で、新しい境地をそこに表現した。クリムトは生涯の尊敬の対象であった。従って濃密な関係であることを、まるで一体化したかのような姿で表しながらも、クリムトを後方に置き、師を振り向くこともせず新たに前を向いて進もうとする自らの決意を描いているように見える。

それは、風景画でもはっきりと表れる。

 母の出身地であるクルマウ(現チェスキークルムロフ)を描いた作品「モルダウ河畔のクルマウ」。ぎっしりとすき間もなく並ぶ家々は、暗い色彩で塗りつぶされ、人は全くいない。町全体が喪に服しているように見える。「僕は死にゆく町や風景の悲しみ、孤独を深く求めた」。

 一方、クリムトの風景画を見てみよう。生涯の友であったエミーリエ・フリーゲとともに幾多の夏を過ごしたカンマー湖の風景を描いた「カンマー城の公園の並木道」は、吹き抜けるような風と光と温かさを感じる。シーレの晩秋を思わせる重苦しさとは実に対照的だ。

こうして、シーレは独自の道を切り開いて行く。

 なお、シーレが学んだウイーンの美術アカデミーの時期、「 IF 」のつく大きなエピソードが残されている。

 というのは、シーレが入学した翌年の1907年と1908年、若かりしアドルフ・ヒトラーが試験を受け、不合格となって画家への道を断念するということがあった。

 美術に大きな関心を持っていたヒトラーがもし合格していたならば、そしてシーレと共に絵を学んでいたならば、政治家になることも、独裁者になることもなく、そして戦争やホロコーストという大事件を起こすこともなかったのでは・・・・という気持ちになってしまう。

 

 

 

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上野歴史散歩㊸ エゴン・シーレ展開催中の東京都美術館に行ってきた。

2023-02-21 | 上野歴史散歩

 エゴン・シーレ展開催中の東京都美術館に行ってきた。

 東京都美術館は、我が国初の公立美術館として1926年に開館した。最初の建物の設計は岡田信一郎だったが、老朽化に伴い、1975年に前川国男設計で現在の建物となっている。

 美術館の敷地に入ると、まず巨大な金属球体が出迎えてくれる。これは井上武吉の「my sky hole 85-2」という作品。

 時刻によって移り変わる周囲の風景をその球面に写し出して、美術館のシンボルともなっている。

 その球体を過ぎると、スロープによって我々は地下に誘導される。この美術館の正面玄関は地下1階。中央広場から企画常設ブロック、公募展ブロック、文化活動ブロックと目的別に独立させたスペースが、広場を取り囲むように配置されている。

 館の目玉となる企画展は、入口を入って左側のブロックで開催される。現在はエゴン・シーレ展を開催中で、シーレのポスターが大きく掲げられていた。

 数年前に入館した時には現代作家による企画展が行われていたので、まずはその模様を少々。

 塩谷亮の作品。母子の情愛を感じさせるシーンをまるで写真のような超絶技巧で描いている。

 橋本大輔「観測所」。荒々しいタッチで描かれた廃墟となった観測所の光景。

 岩田壮平の屏風絵。画面からあふれ出るほどの迫力で描き出された鯉。既成概念を破壊してしまう作品。こうした特別展もしばしば行われている。

 私たちが訪れた日はシーレ展のほかに学童たちの作品展が開催され、親子連れの観客が多数訪れて大混雑だった。

 さて、エゴン・シーレ展。今回展の主要作品を所蔵するウイーンのレオポルド美術館を以前訪れたことがあり、写真も撮ってきているので、次回から3回にわたってシーレの人と作品を紹介する予定です。

 

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上野歴史散歩㊷ 国際子ども図書館内部の階段には、硬質だけどデザイン性の強い手すりが施されていた

2023-02-17 | 上野歴史散歩

 中に入ると、まず高い天井に開放感を感じる。

 壁面の白いレンガも印象的だ。この時は絵本作家の特集をやっていた。

 一階の子供の部屋(小学生以下の部屋)の閲覧室。中央に置かれた大型の円形卓が面白く、周囲に配された無数の児童書がそれをやさしく取り囲んでいる。

 高さ20mもの吹き抜け空間を巡る大階段が美しい。

 明治期からそのまま残る鋳鉄製の手すり内側をぐるりと取り巻くガラスの衝立は、現代の手すり基準を満たすために新たに設置されたもの。オリジナルの姿をいつでも再現できるようにしている工夫の表れだ。

 上階からの見下ろしも格別の眺め。

 南側外壁の華麗なメダリオン装飾は、風格を感じさせる。

 2階西側廊下には、解説当時のものと思われる木製建具が使われていた。

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上野歴史散歩㊶ 明治、昭和、平成と3つの時代の様式が合わさった国立子ども図書館の建物

2023-02-14 | 上野歴史散歩

 国際子ども図書館。当初計画では120万冊を収蔵する東洋一の規模を想定し、4階建て正方形の四辺に建物を造り、中庭を囲む帝国図書館の予定だった。久留正道の設計で1899年に建設開始したが、工事中に日露戦争が勃発、資金不足となって東棟だけの完成で1906年開館となった。後に大閲覧室なども増築はされたが、当初計画の3分の1だけで終わってしまった。

 第二次世界大戦後、ここは国立国会図書館支部上野図書館となり、2000年からは国立子ども図書館に生まれ変わった。

 この年、ガラスボックスのエントランス(安藤忠雄設計)が増築されたため、少しモダンな感じになっている。

 通常は正面中央に玄関があるのだが、このガラスの入口は中央から左よりの通用口みたいな形。これは当初計画の正面が、今の南側側面に予定されていたことから、変則的な向きになっているということだ。

 時代を大まかに分類すると、建物中央部分の鉄骨レンガ造りは明治期、向かって左側が昭和期の鉄筋コンクリート造、そしてガラス張りの玄関ホールは平成期と、その時代の構造が一体となった建物ということになる。

 また、2015年には新たにアーチ棟が増築された。ガラスに覆われた弓状の曲線を描く最新型の建物だ。

 館内に入る前に、庭にある彫刻を見つけた。7人の子供(天使?)像だ。

 とてもかわいい表情なのでつい目を奪われてしまう。実はこの像はラフカディオ・カーン(小泉八雲)の記念碑だという。

 詩人土井晩翠が建立したもので、実は早逝してしまった子供が八雲を慕っていたことから、記念に建立したものだそうだ。

 

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上野歴史散歩㊵ 奏楽堂は芥川也寸志ら卒業生の運動で移転を免れ、今も公園で美しい音を響かせている

2023-02-11 | 上野歴史散歩

 開校以来130年もの長い歴史の中で、優れた才能を持つ音楽家たちが育っていった。その代表が滝廉太郎、山田耕作、三浦環らだ。

 建物正面右側には滝廉太郎の全身像がある。彫刻家朝倉文夫の作品だ。

 長い歴史の中で、危機が訪れることもあった。1960年代に建物の老朽化に伴って新たな音楽ホール建設が具体化した。では旧奏楽堂はどうするか ? 協議の末、愛知県犬山市にある明治村に移転することが決められた。

 その時、新たな動きが始まった。「せっかくの日本初の木造音楽ホールを、生きた形で現地に保存するべき」。芥川也寸志や黛敏郎らの芸大卒業生たちが「奏楽堂を救う会」を結成して運動を開始した。

 数年の難航の末、大学ではなく台東区が事業主体となって公園内に移築復原することを決定。1987年にクラシック専門ホールとして、改めての開館を迎えることになった。

 また、2018年には、5年間休館して行った耐震工事も完了し、現在はリニューアルした新しい殿堂でコンサートなどが行われている。

 また、パイプオルガンも奏楽堂の犬山市移転計画の際解体が予定されたが、存続に伴って修理復旧、今も豊かな音色を響かせている。

 実はこのオルガン、イギリスのアボットスミス社製らしく、貴重なものだという。

 ここにもまた、美しい階段がある。ホールへと昇る階段で、気持ちが高ぶる感じだ。

 

 

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