新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

エドゥアール・マネとその時代を歩く⑤ 印象派の中心となった画家たちの現場が描かれた絵画2作

2017-03-10 | マネと印象派
 ここで、マネの友人たちの絵の現場を訪ねてみよう。

 クリシー大通りを北上し、地下鉄ラ・フルシェ駅の交差点で北西に折れると、ほどなくフィレデリック・バジールのアトリエが見えてくる。
 ここラ・コンダミーヌ通りのアトリエはバジールが1868年から2年間ルノワールと共同で使っていた場所だ。このアトリエを有名にしたのは、バジールが描いた「コンダミーヌ通りのアトリエ」による。


 この作品には、後に印象派の中心となる精鋭の画家たちが多数登場しているのだ。

 中央の長身の男性がバジール自身。向かい合わせに立つ山高帽がマネ。マネの後ろにクロード・モネがいる。
 さらに、画面左の階段上にエミール・ゾラが手すりにつかまっており、真下にルノワールが座っている。また、右端でピアノを弾いているのがエドモン・メートルだ。(なお、バジールの姿はマネによって描き加えられたことが分かっている)。

 モンペリエの富豪の家の出身であるバジールは、医学の勉強のためにパリに来たが、絵への情熱を持ち、仲間たちとの交流の中で作品を創り続けた。裕福な彼は、貧困に悩む無名のモネの作品を高額で買い上げて援助したりもした。そんな中でこのオールスター勢ぞろいの絵も生まれた。

 一緒にアトリエを使っていたルノワールが描いたバジール像も残されている。

 バジールは、この作品を描き上げた後、1870年に普仏戦争に従軍、11月28日、29歳の若さで戦死してしまった。



 同様に若き日の精鋭たちが集合した絵がもう1枚ある。アンリ・ファンタン・ラトゥール作「バティニョールのアトリエ」。これも1870年の作品だ。
 中央に座って絵筆を持つのがマネ。後ろに立つのがドイツ人画家オットー・ショルデラー。右隣りの帽子がルノワール、また隣りがエミール・ゾラ。右から2番目の長身がバジール、そして右端がモネだ。

 このように彼らはカフェだけではなくアトリエにもしばしば集まり、芸術談義を戦わせ、その中から新たな息吹が芽生えて行った。

 ところで、この両方の絵に登場する、画家ではない芸術家がいる。エミール・ゾラだ。彼は積極的に新しい絵の潮流を援護した。1867年のマネの個展パンフレットには、ゾラ自身の推薦文も掲載されている。

 その好意への感謝も込めてマネが描いた「エミール・ゾラの肖像」。1868年のサロンに入選した作品だ。
 ゾラが自身の書斎にいる場面が描かれているが、実際の場所はマネのアトリエだった。背景の壁に浮世絵と「オランピア」があるのがわかる。
 また、机にはゾラがマネを擁護した小冊子が置かれている。ゾラはこの小冊子で「オランピア」を「彼の気質の完璧な表現だ。まさしく画家の血と肉である傑作」と称賛している。

 また、壁の「オランピア」を注目すると、面白い発見がある。

 裸婦の彼女の顔の位置は、原作とちょっと違って描かれている。ここでは彼女の顔はゾラを見つめる角度に修正されているのだ。
 
 なんというユーモア!!


 ゾラの家は、バジールのアトリエのすぐ斜め向かいの白いすっきりしたビル。こんなに近ければ、バジールのアトリエにはほんの数十歩でたどり着ける距離だ。(バジールはコンダミーヌ通り9番地で、ゾラは同14番地)。

 1876年の彼の代表作「居酒屋」にはナナという少女が登場し、79年にはその名前そのままの小説タイトル「ナナ」を発表した。パリの娼婦の成功と凋落の物語だ。



 そんな時期、マネは高級娼婦をテーマとした作品「ナナ」を描いている。当時の新聞には「彼女だ。ナナだ。ゾラ風に描いた、マネのナナだ!」と論評されている。

 「ナナ」を巡るこのような経緯を見ても、2人の親しい交友関係が浮かび上がってくる。
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エドゥアール・マネとその時代を歩く④ 変貌するパリの街で、マネは観察し、語らい、描いた

2017-03-07 | マネと印象派

 当時のマネは連日パリの街を歩き、行きつけのカフェで友人と語らい、またカンバスに向かうという毎日だった。

 カフェは、ただ単にコーヒーを飲む場所というだけでなく、その場に集う様々な人たちが際限なく語り、意見を交わし、友となり、主張をぶつけ合って、時には人生の指針をも得る場所であった。

 19世紀末、パリには2万4千軒ものカフェがあったという。

 マネが通ったカフェは、まず「カフェ・ゲルボワ」。1864年にパティニョール通り34番地に引っ越したが、同じ番地にあったゲルボワには毎日のように通うところとなった。

 この店には、同様に近くに住んでいたラトゥール、バジール、カイユボットといった若き画家の卵たちが集い、さらにモネやルノワールたちも加わって、、後の印象派誕生のきっかけとなった。

 ゲルボワでマネが描いた作品の1つ「ル・ボン・ボック」。

 同地区は19世紀後半に大きく変貌した新興地区だった。1853年、ナポレオン3世によってセーヌ県知事に就任したオスマン男爵は、パリ大改革に着手した。古く狭い通りや不衛生な街並みを一掃し、広い道幅の大通り(グラン・プールヴァール)を全市域に設置、公園や広場を拡大していった。

 今もパリの中心部であるオペラ・ガルニエとオペラ大通りも、この時に整備された道の1つだ。

 また、モンマルトルに「ムーラン・ルージュ」が開店したのも1889年のことだった。

 こうした社会背景のもとに、人々が街に出る都会生活スタイルが広まりだし、そうした市民たちを収容するカフェが急速に普及していった。マネもそうした時代の若者だった。

 「ゲルボワ」の隣りにあったカフェで描いた作品「ラテュイユ親父の店にて」で、マネはまさに陽の差し込む開放的な空間での男女の語らいを作品化した。

 また、お気に入りの店だった「ブラッスリー・ド・レッシュショフェン」というカフェの賑わいの様子も2枚の絵になって残る。

 忙しく働く給仕女もまた彼の絵の対象となった。

 シルクハットの紳士は、友人でもあった版画家のアンリ・ゲラール。その隣の女性は女優エレン・アンドレ。


 エレンはドガの作品「アブサンを飲む人(カフェにて)」のモデルでもあった。
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エドゥアール・マネとその時代を歩く③ マネが試みた逆転の発想と黒の誘惑

2017-03-04 | マネと印象派
 大胆な作品を生み出したマネの創作の裏には、伝統的な絵画からのヒントが隠されていた。


 例えば「オランピア」の構図は、まさに先人の作品を下敷きにしている。


 ジョルジョーネの「眠れるヴィーナス」。

 そしてティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」。

 また、「草上の昼食」にもティツィアーノ作品がヒントになっている。

 「田園の奏楽」がそれだ。

 いずれもヴェネツィア絵画の巨匠の作品。その伝統的な手法を想定しながら、神話や聖書といったものとは真逆の位置にある世俗の現実風景を描くという、画期的な試みを実践したのが、マネだった。

 また、色彩面でもマネは全く新しい形を取り入れた。従来の絵画では、黒色はほとんど使われなかった。だが、マネは率先して「黒」を多用した。

 「草上の昼食」では、右の黒服の男性によって左の女性の白い裸体が強烈な印象を持つことになったし、

 「オランピア」の女性の首に巻かれたタイの印象的な黒は、鑑賞者の視線を引きつけずにはおかない。

 他の作品も見てみよう。「バルコニー」では、背後の黒服が女性たちの白い衣装の鮮明さを一層際立たせている。

 詩人ポール・ヴァレリイーは「スミレの花束を持ったベルト・モリゾ」について、こう話す。「何よりもまず黒。完全な黒。喪の帽子の黒。ピンクの光沢がある栗色の髪がもつれるこの小さな帽子のあご紐の黒が、私を捉えた」。

 そして、ピサロの言葉は決定的なインパクトを持つ。
 「マネは我々よりたくましい。彼は黒で光を創った!」。

 マネは黒の画家でもあった。
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エドゥアール・マネとその時代を歩く② 「神話」から「現実」へーパリ画壇をゆるがす大事件勃発

2017-02-28 | マネと印象派

 マネはサロン初入選の2年後、1863年にパリ画壇を揺るがす大事件を引き起こす。彼がサロンに出品したのは、当初「水浴」と題された作品。 のちに「草上の昼食」とされたその絵には、洋服を着た2人の青年の横に全裸の女性が座っている。

 女性の裸体は、ヴィーナスなどの神話のテーマとしてしか描かないという不文律が、何世紀にもわたって続いていた。それが、全くの日常風景の中に、堂々と鑑賞者に視線を向けた全裸の女性が・・・。

 サロンはこの作品を即座に落選としたが、落選作品だけを集めて開かれた「落選者展」には、初日だけで7千人もの観客が押し寄せるという大騒動となった。


 この年のサロンで絶賛を浴びたのはカバネルの「ヴィーナスの誕生」。

 こちらも官能的とさえいえる女性の裸が描かれたが、タイトルは「ヴィーナス」つまり神話という衣に包まれた‶理想化された”姿。それに対して、‟現実の世界に現れた生々しい女性像”という、当時の画壇の観念的な区分けに挑戦する、マネの大胆な試みだった。


 古い慣習(アンシャン・レジーム)への挑戦はさらに続く。
2年後の1865年、マネは「オランピア」を出品、前作以上の物議をかもした。今度はストレートな高級娼婦の登場だ。

 首に結ばれた紐飾りと腕輪

 たった今届けられた花束

 脱げかかったサンダル

 そして、興奮したネコ
すべてが娼婦を現していた。サロンに展示された時、観客による破壊から守るためにこの絵の前には特別に専門の守衛が配置された。

 スキャンダルになったが、それと同時に既成の概念を打破し、新しい時代の旗手として、マネを師と仰ぐ若手の画家たちも自由への扉をこじ開けて行く。

 ところで、この2作は「日常に登場した裸体」という衝撃が語られるが、個人的にもっと刺激的なものがあると感じる。それは女性の視線だ。



 なんの衒いもなく、強烈な熱を持って真っすぐ鑑賞者に向けられたまなざし。その視線を受け止めるとき、描かれた光景が、まさに現実の世界であることを容赦なく認識させられる。

 目と目が合ってしまえば、そこに「今」が存在するのだから。
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エドゥアール・マネとその時代を歩く① マネの生家はルーブル美術館のすぐ近くにあった

2017-02-25 | マネと印象派

 世界の名画を一堂に集めた、フランスが誇るルーブル美術館は、パリ1区セーヌ川のほとりに建っている。

 川を挟んで対岸には、多数の芸術家を輩出し続ける国立美術学校(エコール・デ・ボザール)。

 それと向かい合うように、しっかりした門構えの奥に一軒のビルがたたずむ。プティ・オーギュスタン街5番地。


 ここで、後に近代絵画の歴史を一変させる偉大な画家が生を受けた。名はエドワール・マネ。1832年1月23日のことだった。

 父・オーギュスト・マネは司法省の高級官僚であり、母方のフールニエ家は外交官の家柄だった。

 現在はボナパルト街となった通りは、ずらりと背の高いビルが並ぶ高級住宅街。

 マネの家も門の中に庭を持つ豊かな暮らしを連想させる建物だ。

 ここからすぐのルーブル美術館は1793年に開館し、3年後にはいったん閉鎖したが、ナポレオン1世が各国から収奪した美術品を加えて、1801年に再オープンしている。
 向かいの国立美術学校も含めて、モネは周囲に芸術的環境に恵まれた中で子供時代を送っていた。


 両親は息子が法律家になることを望んでいたが、マネは芸術に傾倒し、学問を嫌った。海軍兵学校の受験に2回失敗すると、父親はようやく息子の希望を受け入れるようになった。

 絵の勉強を始め、詩人のボードレールやファンタン・ラトゥールなど、パリの若い知識人との交流の中で、彼は戸外での作品制作を始めるようになる。

 今はなくなってしまったクリシー大通りの店「カフェ・ゲルボワ」の常連たちをモデルに何枚もの作品を描いた。


 その一枚がこれ。「カフェ・ゲルボワにて」だ。ここは印象派の集合場所の1つだった。まずマネが通い始め、次にドガ、モネ、ルノワール、バジールなどが集まり、芸術論議に花を咲かせた。

 
 そして1861年、「スペインの歌手」がサロンに初入選(佳作)。マネは画家としての順調な第一歩を歩みだした。
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