新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

マントヴァ⑤ 「私の人生の中でこれ以上の美しい劇場は見たことがない」。モーツアルト公演でスタートした学術劇場

2018-06-19 | イタリア・マントヴァ

 この街には美しい装飾に彩られた劇場があると聞いて出かけてみた。

 街の北東部、インフォリオーレ湖のすぐ近く。到着したらまだ開館前だったので、散歩で時間を過ごそうと湖畔に行ってみた。

 土曜の朝、何かのイベントがあるのか若者たちが集合中。

 緑の湖畔は、深呼吸すると体の中に大きな風の道が開いたかのように、スーッと心地よい涼しさが染み通る。

 湖周遊の遊覧船がスタンバイし、その手前では釣り人たちが糸を垂れている。のんびりした、いかにも週末の朝といった雰囲気だ。

さあ、もう開館時間、劇場に戻った。建物自体には特別な特徴は見られないようだ。

 ところが、内部に足を踏み入れると、目もくらむような遠近感に満ちた構造ときらびやかさにビックリしてしまった。

 オレンジの基本色に4階まで連なる観客席を仕切る黄と白との色彩が混じりあい、

 舞台中央に立つと、その空間の最奥まで吸い込まれてしまいそうな、立体的な造形に目を見張ってしまう。

 1769年12月、アントニオ・ビビエーナによって設計された。正式名称もテアトロ・アカデミア・ビビエーナと、作家名が入っている。バロック式劇場の傑作といわれるにふさわしい美しさだ。


 正面から見た形状が釣り鐘のように見えることで、その独特のスタイルを特徴付けている。

 天井のカーブを描くデザインも独特だ。

 2階に上ってみた。ここからの眺めもなかなか。

 このように舞台を見下ろす形になる。

 ローマ時代の詩人ヴェルギリウスもこの街マントヴァの生まれで、劇場内に彼の肖像が置かれ、彼に関わる資料も保存されていた。

 この劇場には今も語り伝えられるエピソードがある。劇場完成後わずか1か月後の1770年1月、オーストリアの1人の少年が招かれてこの地にやってきた。少年の名はアマデウス・モーツアルト。

 まさに、劇場のこけら落としともいうべきモーツアルトコンサートによってこの劇場の歴史のページが開かれたのだった。

 その時父レオポルドは、国に残してきた妻に宛てて「私の人生の中でこれ以上の美しい劇場は見たことがありません」と綴っている。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マントヴァ④ ドゥカーレ宮殿で渦巻アートの七変化に出会った。

2018-06-16 | イタリア・マントヴァ

 ドゥカーレ宮殿の別のスペースで、新鋭作家の作品展をしていたので、ちょっと覗いてみた。これが、意外に面白かった。
 渦巻く何かが目の前に迫ってくる。これは何だ?

 それが赤、青、白などの色の組み合わせだったり、

 赤一色だったりして、グンと突き出てくる。

 これは鉛筆。その芯の先の色も何色か変化して、

 見る者に突き刺さるかのようにとんがる。

 ただ、よく見ると微妙な揺らぎも含んでいる。

 見ているうちに、なんだかリズムが聞こえてきて、気分が高揚してくるのを覚えた。

 鉛筆だけではない。これは綿棒!

 綿棒なのに、近づけると結構な迫力を生ずる。

 ちょっと遠目にすると、まるでヤマアラシが身を縮めているようにも見えた。

 その他にも、紙を使ったアートや、

 様々な国旗を組み合わせた作品なども展示されていた。

 ドゥカーレ宮殿本体ではちょっと残念な気分になっていたのを解消させてくれた楽しい展示だった。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マントヴァ③ 屋根上には可愛らしい天使が2人、内部はすっきりした清々しさ ドゥオモ

2018-06-12 | イタリア・マントヴァ

 市中心部にはいくつもの広場が点在する。その1つドゥオモ広場に行ってみた。広場の奥にドゥオモが位置している。

 正面に立ってみた。中世の創建だが、建物は16世紀に再建されている。

 屋根の上にいくつもの像が並んでいる。その中央部分をクローズアップ。十字架を挟んで2人の天使がいた。アップしてみるとこれが、何とも可愛らしい姿だ。

 向かって左側にはちょっと偉そうな人物2人。

 右側にも同様に2人。いずれも聖人像に違いない。

 内部にはすっきりした空間が待っていた。テ宮殿を手掛けたジュリオ・ロマーノの設計とされる。

 主祭壇には大きなフレスコ画が描かれている。テーマは「三位一体」のようだ。

 中心に十字架に架けられたキリスト像があり、手前には聖人たちがずらりとにらみを利かせている。

 天井はいくつもの細かな仕切りに分けられ、それぞれに絵画が収められている。聖書の物語だろう。

 そんな天井とクーポラのアーチが複雑に組み合わさって、不思議な曲線を形成している。

 側廊の壁に珍しい作品があった。テラコッタで造られた群像のレリーフ。十字架から降ろされたキリストを囲む人々の姿だ。

 側面から見たドゥオモの全景。後方に大きな塔があることに今になって気付いた。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マントヴァ② 「芸術のミューズ」イザベラ・デステのコンプレックス。「彩色肖像画を!」再三の願いにもダヴィンチは応じてくれなかった

2018-06-09 | イタリア・マントヴァ

 マントヴァの見どころの1つドゥカーレ宮殿に入った。この宮殿の目玉である結婚の間は完全予約制になっていて、今回は入れなかった。 それで、ほかの部屋を見て回った。

 装飾された廊下の天井。

 神を讃える天井画。

 グロッタと呼ばれる人工洞窟の門。

 タペストリーも何枚か。

 キリスト誕生のシーン。

 下の部分はゴンザーガ家の人達を描いているのかも。

 いくつかの部屋を回ったが、何とも寂しい気持ちにさせる内容だった。もちろん結婚の間にはマンテーニャの力作が壁を彩っていることは承知しているが、その部屋に入れなかったことでなおさら一層喪失感を感じさせる訪問となってしまった。
 原因はマントヴァの背負った歴史にもあった。その歴史を、マントヴァの女帝として知られるイザベラ・デステの生涯と重ねてたどってみよう。


 マントヴァを訪れる上で知っておくべき名前がある。イザベラ・デステ。15世紀末から16世紀にかけてマントヴァ公国の王女として国を守り、またこの国を芸術の薫り高い都市として名を轟かせた立役者だ。

 彼女はマントヴァの隣りフェラーラの名門貴族エステ家の長女として、1474年に誕生した。幼いころから才能を発揮し、学問を始め、ダンス、音楽、絵画にも優れていたという。

 その才女は1490年、16歳の時マントヴァのフランチェスコ・ゴンザーガ公爵と結婚し、マントヴァ公国の王女となった。
 それは祝福された結婚だったが、翌年、イザベラは大きなショックを受ける出来事に遭遇する。

 1491年、妹のベアトリーチェがミラノ公国のルドヴィコ・スフォルツァと結婚するこのになったのだ。

 妹に付き添ってミラノに赴いたイザベラを待っていたのは、自らの結婚とは桁違いに華やかで豪華なセレモニーだった。服装、装飾、人数その他圧倒的な財力と洗練さに裏打ちされた式典。しかもその式典は、レオナルド・ダヴィンチとブラマンテが担当していた。
 
 当時のイタリアは、ミラノ公国、ヴェネツィア共和国、フィレンツェ共和国、ナポリ王国の4大勢力が並び立って勢力を競っていた。

 実は、ミラノのルドヴィコは、最初にイザベラとの結婚を申し込んでいた。ところがそのわずか1か月前にゴンザーガ家との結婚が成立したばかり。ベアトリーチェはイザベラの身代りの形でミラノに嫁いだのだった。ベアトリーチェはそれまで、何事にもイザベラに後れを取っていたが、突如この結婚によって二人の立場は逆転した。

 そんな状況にイザベラが嫉妬したことは疑う余地はない。イザベラはどうしたのか?

 彼女は、中小都市マントヴァでもできること、「芸術と文化のレベル向上によって世界に冠たる地位を築こう」と、一念発起したのだった。

 実家のフェラーラから大学教師を呼び、自らの教養を高めるとともに芸術家を多数マントヴァに招へいした。マンテーニャを宮廷画家に登用してドゥカーレ宮殿の装飾に当たらせ、ジュリオ・ロマーニにテ宮殿の絵画を描かせた。
 イザベラのサロンを訪れた芸術家はティツィアーノ、ラファエロ、ジョヴァンニ・ベリーニ、そしてレオナルド・ダヴィンチもいた。

 特にレオナルドには思いを寄せた。

 頼み込んで書いてもらったのが、この素描画。これだけではなく本格的な彩色の肖像画を再三にわたって手紙を出して依頼したが、結局レオナルドはそれに応えることはなかった。

 イザベラは64歳で亡くなるまで、そうした芸術絵画作品収集などのほか、国を守るための外交戦術として諸国の元首級に絶え間ないレター作戦をし続けた。その数は実にトータル4万通にも及ぶという。イザベラという女性の意志の強さと執念を見る思いだ。

 最初に掲載したティツィアーノによるイザベラの肖像画。実はイザベラが50代の時に描かれたものだ。最初に完成した作品を彼女は満足せずに、40年も若い16歳の肖像画として描きなおさせたーーというエピソードも残っている。

 彼女の努力で16世紀のマントヴァはきらびやかな芸術の都として名声を博した。が、17世紀に当主となったヴィチェンツォ2世は財政困窮の末にコレクションを売却。
 また、1707年にマントヴァを支配したオーストリアはゴンザーガ家の膨大なコレクションをウイーンの美術史美術館に持ち去ってしまった。さらに、1797年に新たな支配者となったナポレオンのフランスも美術品はパリに持ち去り、マントヴァに残ったのは剥がせなかった壁画のみになってしまった。

 そんな悲しい歴史を抱えこんだ都市であることを認識させるドゥカーレ宮殿見学だった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マントヴァ① 湖に囲まれた都市に「キリストの血に染まった土」が! サンタンドレア教会

2018-06-05 | イタリア・マントヴァ

 マントヴァはイタリア北部に広がるロンバルディア平野の東端に位置する小都市だ。


 内陸の街だが、三方を湖に囲まれるという特異な地形から、まるで海辺の街のように水面から風が涼やかに吹きすぎる。

 歴史的には15~16世紀、ゴンザーガ家の支配する公国として発展し、女王であり、芸術のミューズであったイザベラ・デステによって芸術の花開く華やかな時代を切り開いた。

 そんなマントヴァの街が、東洋からの旅人に何を語り掛けるのか、聞き耳をたてながら歩いてみることにする。

 宿はすぐに見つかった。チェックイン後すぐに近くにあったサンタンドレア教会に入った。1472年に建設が開始された典型的なルネサンス建築。

 鐘楼はゴシック様式。

 正面から見ると建物全体は見えず、まあ、普通の教会かな、といった気持ちで中に入った。

 ところが、中は思いがけないほどの規模の大きさで、びっくり。まるで体育館かと思うほどの大きさだ。

 一身廊で両側の壁全体が、あらゆる絵画装飾で埋め尽くされている。

 天井も同様だ。

 大小さまざまな礼拝堂が両側面に続き、それぞれに絵画が配置されている。

 礼拝堂を区切る柱にも隙間なくレリーフが施されている。

 天井部分の大きなアーチは波打つようにうねり、波立ち、幾重もの華麗な曲線を描いている。

 一番手前の左側礼拝堂は、ゴンザーガ家の宮廷画家であったアンドレア・マンテーニャの墓となっており、彼のブロンズ像が飾られてあった。

 クーポラに仰視法で描かれた絵は、見ているうちに自らも天に引き上げられてゆくかのような感覚を味わってしまう。

 インマコラータ礼拝堂には金色の聖母像があった。

 堂内奥に丸くガードされた場所があった。ここには「十字架に架けられた時キリストの血で染まった土」が保管されているという。

 とにかく大規模な教会にいきなり出会って、びっくりだった。



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする