新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

畳のある教会と東シナ海の夕陽・・・長崎紀行⑨

2016-11-12 | 長崎紀行

 3番目に訪れたのは旧鯛の浦教会。鯛ノ浦の深い入り江に立地している。

 途中、白く輝く丸尾教会もチラリと姿が見えた。

 1979年に新しい教会が近くに完成し、こちらは図書資料室になって子供たちの集いの場所としても利用されている。そのためか、もとはなかった畳のスペースが付け加えられ、和洋折衷の変わった構造になった。

 2階に上がって見下ろしてみた。細身のリブが自由にアーチを描いて創り出す柔らかい線は、とても楽しい。

 青砂ヶ浦天主堂の彩色空間に対して、ここの真っ白な内部もまたまぶしいほどに美しい。

 正面の鐘塔は、1949年に増築された。その時使われたのは、1945年8月9日に原爆で崩壊した旧浦上天主堂のレンガを活用したものだ。

 午後5時、鯛ノ浦港から高速船に乗って長崎へ。約1時間40分の船旅。地図を見ると、港を出て乗り出した海は東シナ海に入るのかも。東シナ海という海を、生まれて初めて実感した気分。

 まもなく北にポツンと小さな島が見えてきた。多分相ノ島。鮮やかな海の青さと控えめに霞みがちな島影
 とが対称的だ。


 「人間がこんなにも哀しいのに、主よ 海があまりにも青いのです」。

 遠藤周作が棄教した宣教師を描いた小説「沈黙」に記した言葉が ふっと浮かんだ。

 長崎に近づくにつれて空に夕焼けが始まった。

 その色が海面に映って、見事な黄金の海に変わってきた。

 西の空は茜色に染まっている。

 女神大橋にさしかかった。横浜のベイブリッジと同様に主塔から斜めに張ったケーブルが主桁を支える斜張橋だ。

 斜めに広がるケーブルの奥で空が炎のように燃えていた。自然から思わぬプレゼントをいただいた夕べだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京駅よりも早く列島西端に出現した赤レンガの名建築・青佐ヶ浦天主堂・・・長崎紀行⑧

2016-11-08 | 長崎紀行

 次に青佐ヶ浦天主堂に向かった。中通島の奈摩湾に面した、ここも海辺の教会だ。五島の教会の多くは海に面して建てられている。中には船でしか行けないところもある。隠れキリシタンとして、お上の目を逃れるには、そうした地理的条件が必要だったのだろう。

 こちらの材料はレンガ。設計はやはり鉄川与助だ。鉄川が手掛けた教会は約50棟に上るが、1910年完成のこの天主堂も彼の代表作の1つだ。

 赤レンガのファザードに「天主堂」の文字。その上に十字架が載る。

 中に入って、その美しさに一瞬息をのんだ。リブヴォルト天井。幾重にもアーチが重なり合い、透き通るような黄の衣をまとった空間が果てしなく続いてゆく。最奥の壁は、ステンドグラスを通した光によってピンクに色づいている。100年も前に造られたものとはとても思えない輝きで、圧倒的な美を形成していた。
 
 ヨーロッパのゴシック教会でも何度か、リブヴォルト曲線が天に昇って行くかのようなイメージに囚われたことがあるが、そうしたものにも全く遜色のない美しさが、ここにあった。

 ステンドグラスから漏れる赤や緑の光が、床に個性的なデザインを施す。

 本当に素晴らしい空間だ。

 そのステンドグラスはフランスから、祭壇の像はイタリアから取り寄せたものだという。

 裏に回ってみた。長い建物の直線が、湾に向かって伸びていた。

 正面入口横にはこんな優しいマリア像が佇む。

 聖ミカエルのやんちゃな像もあった。

 クリスマスになると、この教会でも盛大なミサが開かれる。クリスチャンでなくとも地元民がこぞってミサに参加するという。その様子を一目見てみたいと思った。

 天主堂から少し南に行ったところに、元海寺という寺の門が立っていた。この門も実は鉄川与助が手掛けた。鉄川与助はまさに五島列島の教会建築の第一人者。曽根天主堂建築を手伝ったのが皮切りで、以後鯛ノ浦、冷水、野首、青佐ヶ浦と次々に赤レンガの教会を造り上げていった。与助本人もこの近くの墓地に眠っている。

 ちなみに青佐ヶ浦天主堂を完成させたのは1910年。辰野金吾設計で有名な赤レンガの東京駅完成(1914年)より4年も早く、日本列島の西のはずれにこのように壮麗な赤レンガ建築が出現していたことに、本当にびっくりしてしまう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五島列島の天主堂を巡る・頭ヶ島天主堂、海辺のキリシタン墓地・・・長崎紀行⑦

2016-11-04 | 長崎紀行

 長崎駅南にある大波止港から船に乗り、五島列島の中通島を目指した。たまたま台風が移動中ということで心配だったが、どうにか台湾方向にそれたので、フェリーは予定通り運航となった。

 最初は長崎の街並みを見ながらの航海。船のドックも見えた。

 長崎から1時間40分。時折波しぶきが上がる程度で、順調な運航だ。

 長崎港は、1582年に天正遣欧使節として伊東マンショら4人の少年がヨーロッパに出向した場所。

 そして幕末には、四番崩れと呼ばれる隠れキリシタン弾圧で逮捕された浦上地区の人たちが島根など西日本各地に流刑となり、ちりぢりに送還された場所でもある。

 そんな歴史を思い出しているうちに,目的の鯛の浦港に到着した。予約しておいたタクシーと落ち合って、まずは頭ヶ島へ。

 五島のキリスト教が伝えられたのは16世紀半ば。当時の領主は自ら洗礼を受けてキリスト教を奨励した。しかし、1587年に豊臣秀吉が伴天連追放令を、次いで家康が禁教令を出し、受難の時代が訪れた。

 五島に関しては、1797年から外海地方の約3000人の信者が迫害を逃れて移住、隠れキリシタンとして息を潜めるように命をつないできた。
 
 また、1868年の五島崩れの際には全員が島を離れたが、1873年の禁教令廃止によって再び島に戻り、一気に信仰の思いが爆発して、島内各地に自らの教会を建設して行った。

 今でも上五島だけで29もの教会があり、脈々と祈りの場が受け継がれている。

 最初に訪れたのが、頭ヶ島天主堂。かつて離島だったこの地区は幕末までは人のいない無人島だった。従ってある意味、追及の目を逃れて潜伏するためには条件の整った場所だった。

 1887年、最初の木造教会が完成、次いで改めて石造の堅固な建物が着工された。材料の石は地元で採れる砂岩。柔らかく加工しやすいこの石を自分たちで切り出し、積み上げるという労働を重ね、9年の歳月を経て1919年に完成をみた。設計はこの周辺の教会堂建設の指導者鉄川与助。石造りの教会はヨーロッパでは一般的だが、日本では非常に珍しい。

 正面から見ると、がっちりとした長方形のファザードの上に八角ドームの鐘塔が載っている。

 一片一片の石は大きな単位で切られ、中には設計時のものらしい数字が書かれた石もあった。

 正面入口を入ろうとしてびっくり!まるで神社のさい銭箱のような「奉納箱」がでん、と置いてあった。
 さらに、「ツバメが入ってきてしまうので、横の入り口から入って」と注意された。

 内部は130㎡と小さな空間。だけど、左右の軒から梁が出てこれを二重アーチで支える形のハンマービームトラスと呼ばれる構造になっており、意外に広々としたイメージだ。

 天井部はパステルカラーで両脇には花模様。「花の聖堂」と呼ばれるだけに、軽快で優しい気持ちにさせる内装だ。

 白ツバキの彫刻は98個。折上げ部分にも菱形で囲まれた花柄が一杯。

 後に回ると両脇にある窓の大きさと同じ大きさの枠が2つ、未完のまま残されていた。

 また、かつて拷問に使われたという切り石が置かれていた。こんな場所にも迫害の手は容赦なく伸びていたことがうかがわれる。

 隠れキリシタン発見の手段としては、有名な「踏み絵」があるが、それ以外にも様々な手段が用いられた。その1つに「算木攻め」というものがある。断面が三角の材木を5本並べてそこに正座させ、膝の上に45㌔もある板石を載せるもの。「転ぶ」まで石を積み重ねるが、頭ヶ島のキリシタンは転ばずに、ついには板石があごまで届いたこともあったという。

 教会の隣りには、一帯に十字架の付いた墓が並ぶ墓地があった。地区のキリシタン墓地。「今でもこんな形の墓石を造るんですか?」と聞いてみると、もう今はこのような形は造られていないとのこと。それだけ古い時代の墓地が残っているということだ。
 
 「だって、この島にはもう住民も少なくなってるし、新住民が住み着くこともないからね」。

 雲の切れ目から青空がのぞく海辺に、十字架の列がシルエットになって浮かび上がる。

 静寂の浜に、風の音だけがビューっと響いた。



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長崎に「神ノ島」があった。中町教会には「微笑みの十字架」が・・・長崎紀行⑥

2016-11-01 | 長崎紀行

 長崎市郊外に神ノ島という島がある。そこの教会を目指してバスに乗った。長崎駅前から約30分。教会下というバス停で降りる。

 海に突き出した岬の上に像が見えた。純白のマリア像だ。

 この島は、今は埋め立てによって陸続きになったが、禁教時代はキリシタンの潜伏場所の1つだった。島の住民、西忠吉、政吉の兄弟は、大浦天主堂のプチジャン神父の布教を手伝い、それが発覚して逮捕されたという記録が残っている。


 そんな島に立つマリア像。近づくと意外に大きい。4m60㎝。

 見上げれば威圧感たっぷりだ。戦後の1949年に船の安全を願って建てられたもので、「岬の聖母」と呼ばれる。

 この岬からの眺めは、うっとりするくらい美しかった。ただ、対岸に見える高鉾島付近の海には、当時多くの殉教者の遺体が沈められたという。

 教会は険しい坂の上。1892年にレンガの教会が造られた。

 内部はこじんまりした印象だ。

 集落のあぜ道を歩いていると、ジロリと睨まれたような気がした。
横を向くと、猫がいた。端正な顔立ちで、おもわずパチリ。

 すると、次の路地でも真っ黒な猫が。こちらも1枚。

 通り過ぎて気が付いたのだが、この地方の猫は「尾曲がり猫」と言って、しっぽの先が曲がっているのが特徴なのだそうだ。 幕末に到来したオランダ人などが、航海時に船内のネズミ退治のために連れてきたヨーロッパ原産の品種だという。
 そんな特徴を確かめることをすっかり忘れていたので、写真にも尻尾は写していなかった。

 港の漁船を眺めながら、長崎市内に戻るバスに乗った。

 戻ってから向かったのは市内中心部にある中町教会。

 キリシタン大名・大村純忠の大村藩屋敷のあった場所に建っている。原爆によって大きな被害を受けたが、その土台の上に1951年に再建された。

 1597年の26聖人の殉教後も何度も大規模な迫害が行われたが、この教会脇には1633~37年に西坂で殉教したドミニコ会の司祭ら16人の碑が立っている。16人は1987年にバチカンによって列聖された。1862年に26聖人が聖人とされてから125年ぶりの日本人関係者の列聖だった。

 内部は明るい空間だ。

 「微笑みの十字架」。日本に初めてキリスト教を伝えたザビエルが信仰の原点としていたもので、スペイン・バスク地方のザビエル城に安置されている。その姿を再現したものが2004年にこの教会に奉献された。

 キリスト磔刑のステンドグラスも新しい。

 青空に映える尖塔が印象的だった。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「私を身代わりに」と、アウシュビッツで命を落とした神父の足跡が長崎に・聖コルベ記念室…長崎紀行⑤

2016-10-29 | 長崎紀行

 大浦天主堂の裏手に祈念坂と呼ばれる坂道がある。

 坂を歩くと、天主堂の塔越しに長崎の港が垣間見える。

 坂上には南山手レストハウスがあり、休憩したりガイドブックを開いたりできるスペースがあった。

 その後ハウス前の小さな広場から港と反対側の街を眺めた。斜面を埋め尽くすように住宅が建ち並ぶ光景は壮観だ。

 一方で港側は、胸がスッとする晴れやかな風景。

 祈念坂を降りる。細く静かな道だ。

 切支丹に関する小説の構想を胸に長崎を訪れた遠藤周作は、この道をこよなく愛したという。
 その思索の道を経て「沈黙」や「女の一生」2部作などが誕生した。

 私が訪れた時は、絵画愛好のグループがこの坂でスケッチ会を開いていた。

 曲がりくねった道なりに下ってゆくと「祈りの三角ゾーン」と呼ばれる角地に出会った。

 左手に大浦諏訪神社の鳥居、右手に妙行寺の山門、その中間に大浦教会の鐘楼が見える。3つの異なった信仰の社が1点で見える〝奇跡”の地点だ。

 さらに下って土産物店の並ぶ大浦天主堂前のにぎやかな通りに出た。

 ここには、国宝となって多くの観光客も出入りする大浦天主堂に替わって通常のミサを行う場所として、大浦教会が出来ている。ここも落ち着いた雰囲気の内部だった。

 そんな一角に聖コルベ記念室がある。


 コルベ神父は1930年に来日。長崎で布教活動に従事した。その際、故郷ポーランドで刊行していた「聖母の騎士」日本語版冊子を定期的に発行し続けた。

 その拠点となった洋館は焼失してしまったが、焼け残った赤レンガの暖炉を軸として記念室が保存されている。

 当時は軍国主義が台頭し戦争に向かう時代。特高から目をつけられるなど苦難の時を過ごした。


 1936年、ポーランドに帰国したが、ナチスによって捕えられアウシュビッツ強制収容所に。ここでは脱走者が出る度に無関係な囚人10人が殺されるという見せしめが行われていた。

 ある時無差別に選ばれた10人のうちの1人が、「私には家族も子供もいるのに・・・」と嘆くと、コルベ神父は「私を身代わりに」と申し出、進んで「餓死独房」に送られ、命を落とした。

 彼は長崎での布教の際も常に次のような言葉を語っていた。

 「人 その友のために死す それより大いなる愛はなし」

 そのコルベ神父が「聖母の騎士」を記載、発行していたのが、この場所だった。そして、今でも「聖母の騎士」は発行が続けられている。

 30数年前、取材旅行で訪れた遠藤周作が、暖炉だけが残された跡地を見て、修道士に保存を訴えた。

 「天主堂にはたくさんの修学旅行の学生が来ます。100人中98人は無関心かもしれないが、1人か2人はコルベ神父の話に感動を覚えるかもしれない。何とか保存を」。

 今は土産物店の一角がコルベ記念室となり、見学が可能となった。

 コルベ神父のエピソードは、遠藤周作著の「女の一生 サチ子の場合」に生かされている。
 
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする