長崎駅南にある大波止港から船に乗り、五島列島の中通島を目指した。たまたま台風が移動中ということで心配だったが、どうにか台湾方向にそれたので、フェリーは予定通り運航となった。
最初は長崎の街並みを見ながらの航海。船のドックも見えた。
長崎から1時間40分。時折波しぶきが上がる程度で、順調な運航だ。
長崎港は、1582年に天正遣欧使節として伊東マンショら4人の少年がヨーロッパに出向した場所。
そして幕末には、四番崩れと呼ばれる隠れキリシタン弾圧で逮捕された浦上地区の人たちが島根など西日本各地に流刑となり、ちりぢりに送還された場所でもある。
そんな歴史を思い出しているうちに,目的の鯛の浦港に到着した。予約しておいたタクシーと落ち合って、まずは頭ヶ島へ。
五島のキリスト教が伝えられたのは16世紀半ば。当時の領主は自ら洗礼を受けてキリスト教を奨励した。しかし、1587年に豊臣秀吉が伴天連追放令を、次いで家康が禁教令を出し、受難の時代が訪れた。
五島に関しては、1797年から外海地方の約3000人の信者が迫害を逃れて移住、隠れキリシタンとして息を潜めるように命をつないできた。
また、1868年の五島崩れの際には全員が島を離れたが、1873年の禁教令廃止によって再び島に戻り、一気に信仰の思いが爆発して、島内各地に自らの教会を建設して行った。
今でも上五島だけで29もの教会があり、脈々と祈りの場が受け継がれている。
最初に訪れたのが、頭ヶ島天主堂。かつて離島だったこの地区は幕末までは人のいない無人島だった。従ってある意味、追及の目を逃れて潜伏するためには条件の整った場所だった。
1887年、最初の木造教会が完成、次いで改めて石造の堅固な建物が着工された。材料の石は地元で採れる砂岩。柔らかく加工しやすいこの石を自分たちで切り出し、積み上げるという労働を重ね、9年の歳月を経て1919年に完成をみた。設計はこの周辺の教会堂建設の指導者鉄川与助。石造りの教会はヨーロッパでは一般的だが、日本では非常に珍しい。
正面から見ると、がっちりとした長方形のファザードの上に八角ドームの鐘塔が載っている。
一片一片の石は大きな単位で切られ、中には設計時のものらしい数字が書かれた石もあった。
正面入口を入ろうとしてびっくり!まるで神社のさい銭箱のような「奉納箱」がでん、と置いてあった。
さらに、「ツバメが入ってきてしまうので、横の入り口から入って」と注意された。
内部は130㎡と小さな空間。だけど、左右の軒から梁が出てこれを二重アーチで支える形のハンマービームトラスと呼ばれる構造になっており、意外に広々としたイメージだ。
天井部はパステルカラーで両脇には花模様。「花の聖堂」と呼ばれるだけに、軽快で優しい気持ちにさせる内装だ。
白ツバキの彫刻は98個。折上げ部分にも菱形で囲まれた花柄が一杯。
後に回ると両脇にある窓の大きさと同じ大きさの枠が2つ、未完のまま残されていた。
また、かつて拷問に使われたという切り石が置かれていた。こんな場所にも迫害の手は容赦なく伸びていたことがうかがわれる。
隠れキリシタン発見の手段としては、有名な「踏み絵」があるが、それ以外にも様々な手段が用いられた。その1つに「算木攻め」というものがある。断面が三角の材木を5本並べてそこに正座させ、膝の上に45㌔もある板石を載せるもの。「転ぶ」まで石を積み重ねるが、頭ヶ島のキリシタンは転ばずに、ついには板石があごまで届いたこともあったという。
教会の隣りには、一帯に十字架の付いた墓が並ぶ墓地があった。地区のキリシタン墓地。「今でもこんな形の墓石を造るんですか?」と聞いてみると、もう今はこのような形は造られていないとのこと。それだけ古い時代の墓地が残っているということだ。
「だって、この島にはもう住民も少なくなってるし、新住民が住み着くこともないからね」。
雲の切れ目から青空がのぞく海辺に、十字架の列がシルエットになって浮かび上がる。
静寂の浜に、風の音だけがビューっと響いた。
長崎という街の歴史が物語っていることの1つは、正か邪かの判断は別としても、権力を握った者は自らの行く手を遮ろうとする事象に対しては容赦ない弾圧を加えることに躊躇しない、という事実だと思います。
そして、弾圧された弱者たちの行動の大半は、歴史の表舞台から抹消されてしまう運命にある。
だから、提示されている事実は注意深く見つめなおすことで初めて、真実へのアプローチが可能になるのではないか、などと思ったりしています。
gloriosaさんの記事からは、広い意味での「祈りの長崎」の
街の歴史が伝わってくるように感じました。
日本でのキリスト教の歴史も、長崎を理解することで
よりわかるのだろうなと思います。
いつか私が初めて長崎を訪れる機会を得たら、きっとここに書かれていた
いろいろな事柄を思い出すに違いありません。