2018年2月11日(日)
大手門があった交差点、
真っ直ぐ行けば旧東海道。
左へ行くと膳所城本丸です。
まずは、右折し
膳所神社へ向かう。
12時17分『膳所神社』
膳所城と対極の位置にあります。
街道を行く人は、膳所神社と膳所城から見張られてるわけです。
鳥居をくぐると
【表門】
横の石碑に「国宝表門」と書かれて ます。
法改正で、
現在は、国重文です。
実はこの門、膳所城本丸の門でした。
和田神社の高麗門と同じく四柱ですが、切妻屋根が控柱まで伸びてます。
こちらは、「薬医門」と呼ばれ、
お城の門の典型。
瓦に、本多氏の立葵紋が描かれてます。
膳所城の門だった証拠です。
さらに、2度の転用の痕跡が見られるので、もしかしたら最初は大津城の門だったかも?
と推察されてます。
大津城の門だという証拠が出れば、間違いなく国宝ですな。
『南門』
高麗門です。
膳所城の水門だったのでは?
と言われてます。
薬医門より簡素に見えますね。
瓦に立葵紋あります
反対側に
『北門』
薬医門です。
「旧膳所城門一棟東郷…」
東郷さんが寄進されたのかな?
先ほどの表門を少し小型化した門で、脇戸の位置が右左逆。
城のどこにあったか不明。
3つの門に気をとられて
肝心の本殿は、おまけで撮影してる…。
南門を出て城下町を歩く
東海道と同じく真っ直ぐの道です。
計画された都市というのがよくわかりますね。
京阪電車の踏切を横切る
土塀が城下町らしい雰囲気を見せてくれます。
考えてみたら、大津市には
坂本城、大津城、膳所城、
3つの城下町があったわけです。
市内に3つもあるなんて全国的に珍しいのでは?
この土塀の内側に現在も住んでおられます。
羨ましいような…。
この付近は中下級の侍屋敷でした。
城下町の構造は
お城 |
ーーーー|
上級武家屋敷
ーーーーーーーー
掘
ーーーーーーーー
東海道
ーーーーーーーー
町屋
ーーーーーーーー
侍屋敷
ーーーーーーーー
このような構造は、町屋を取り込んだ『惣構え』と言われ、
優れた防備の城下町なのです。
侍屋敷の突き当たり。
左の角に石碑あり。
『寒川辰清邸趾』
さんがわとききよ。
元膳所藩士でここに屋敷がありました。
藩主を諌める文書を出したために怒りをかい、追放されて大阪で亡くなりました。
晩年は残念な結果となったが、
この人の業績として
『近江輿地志略』がある。
江戸時代の近江国の地誌で、11年かけて編纂された。
近江国内の村の由来や名跡、歴史などが詳細に記録されている。
中世の城跡、城主なども知ることができて、近江の歴史を調べるのに貴重な史料となってます。
近江を研究する者にとって欠かせない史料を残してくれた寒川氏に感謝感謝であります。
少し行くと京阪中之庄駅
踏切を越えて
東海道を逆走し、
膳所城跡へ向かいました。
その27へ
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
大手門があった交差点、
真っ直ぐ行けば旧東海道。
左へ行くと膳所城本丸です。
まずは、右折し
膳所神社へ向かう。
12時17分『膳所神社』
膳所城と対極の位置にあります。
街道を行く人は、膳所神社と膳所城から見張られてるわけです。
鳥居をくぐると
【表門】
横の石碑に「国宝表門」と書かれて ます。
法改正で、
現在は、国重文です。
実はこの門、膳所城本丸の門でした。
和田神社の高麗門と同じく四柱ですが、切妻屋根が控柱まで伸びてます。
こちらは、「薬医門」と呼ばれ、
お城の門の典型。
瓦に、本多氏の立葵紋が描かれてます。
膳所城の門だった証拠です。
さらに、2度の転用の痕跡が見られるので、もしかしたら最初は大津城の門だったかも?
と推察されてます。
大津城の門だという証拠が出れば、間違いなく国宝ですな。
『南門』
高麗門です。
膳所城の水門だったのでは?
と言われてます。
薬医門より簡素に見えますね。
瓦に立葵紋あります
反対側に
『北門』
薬医門です。
「旧膳所城門一棟東郷…」
東郷さんが寄進されたのかな?
先ほどの表門を少し小型化した門で、脇戸の位置が右左逆。
城のどこにあったか不明。
3つの門に気をとられて
肝心の本殿は、おまけで撮影してる…。
南門を出て城下町を歩く
東海道と同じく真っ直ぐの道です。
計画された都市というのがよくわかりますね。
京阪電車の踏切を横切る
土塀が城下町らしい雰囲気を見せてくれます。
考えてみたら、大津市には
坂本城、大津城、膳所城、
3つの城下町があったわけです。
市内に3つもあるなんて全国的に珍しいのでは?
この土塀の内側に現在も住んでおられます。
羨ましいような…。
この付近は中下級の侍屋敷でした。
城下町の構造は
お城 |
ーーーー|
上級武家屋敷
ーーーーーーーー
掘
ーーーーーーーー
東海道
ーーーーーーーー
町屋
ーーーーーーーー
侍屋敷
ーーーーーーーー
このような構造は、町屋を取り込んだ『惣構え』と言われ、
優れた防備の城下町なのです。
侍屋敷の突き当たり。
左の角に石碑あり。
『寒川辰清邸趾』
さんがわとききよ。
元膳所藩士でここに屋敷がありました。
藩主を諌める文書を出したために怒りをかい、追放されて大阪で亡くなりました。
晩年は残念な結果となったが、
この人の業績として
『近江輿地志略』がある。
江戸時代の近江国の地誌で、11年かけて編纂された。
近江国内の村の由来や名跡、歴史などが詳細に記録されている。
中世の城跡、城主なども知ることができて、近江の歴史を調べるのに貴重な史料となってます。
近江を研究する者にとって欠かせない史料を残してくれた寒川氏に感謝感謝であります。
少し行くと京阪中之庄駅
踏切を越えて
東海道を逆走し、
膳所城跡へ向かいました。
その27へ
馬《●▲●》助ヒヒーン♪