馬ひでの助

街道歩き&城廻りの記録、
そして滋賀県情報&つぶやき
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【旧東海道歩き26】膳所神社~侍屋敷

2018-12-20 21:58:00 | 東海道歩き『近江路』
2018年2月11日(日)

大手門があった交差点、

真っ直ぐ行けば旧東海道。

左へ行くと膳所城本丸です。

まずは、右折し

膳所神社へ向かう。

12時17分『膳所神社』

膳所城と対極の位置にあります。
街道を行く人は、膳所神社と膳所城から見張られてるわけです。

鳥居をくぐると
【表門】

横の石碑に「国宝表門」と書かれて ます。

法改正で、
現在は、国重文です。

実はこの門、膳所城本丸の門でした。
和田神社の高麗門と同じく四柱ですが、切妻屋根が控柱まで伸びてます。
こちらは、「薬医門」と呼ばれ、
お城の門の典型。


瓦に、本多氏の立葵紋が描かれてます。
膳所城の門だった証拠です。
さらに、2度の転用の痕跡が見られるので、もしかしたら最初は大津城の門だったかも?
と推察されてます。
大津城の門だという証拠が出れば、間違いなく国宝ですな。


『南門』

高麗門です。
膳所城の水門だったのでは?
と言われてます。

薬医門より簡素に見えますね。
瓦に立葵紋あります

反対側に
『北門』

薬医門です。

「旧膳所城門一棟東郷…」

東郷さんが寄進されたのかな?

先ほどの表門を少し小型化した門で、脇戸の位置が右左逆。
城のどこにあったか不明。

3つの門に気をとられて

肝心の本殿は、おまけで撮影してる…。

南門を出て城下町を歩く

東海道と同じく真っ直ぐの道です。
計画された都市というのがよくわかりますね。


京阪電車の踏切を横切る


土塀が城下町らしい雰囲気を見せてくれます。

考えてみたら、大津市には
坂本城、大津城、膳所城、
3つの城下町があったわけです。
市内に3つもあるなんて全国的に珍しいのでは?

この土塀の内側に現在も住んでおられます。
羨ましいような…。

この付近は中下級の侍屋敷でした。

城下町の構造は


お城  |
ーーーー|
上級武家屋敷
ーーーーーーーー

ーーーーーーーー
東海道
ーーーーーーーー
町屋
ーーーーーーーー
侍屋敷
ーーーーーーーー

このような構造は、町屋を取り込んだ『惣構え』と言われ、
優れた防備の城下町なのです。


侍屋敷の突き当たり。

左の角に石碑あり。

『寒川辰清邸趾』

さんがわとききよ。
元膳所藩士でここに屋敷がありました。
藩主を諌める文書を出したために怒りをかい、追放されて大阪で亡くなりました。

晩年は残念な結果となったが、
この人の業績として

『近江輿地志略』がある。
江戸時代の近江国の地誌で、11年かけて編纂された。
近江国内の村の由来や名跡、歴史などが詳細に記録されている。
中世の城跡、城主なども知ることができて、近江の歴史を調べるのに貴重な史料となってます。
近江を研究する者にとって欠かせない史料を残してくれた寒川氏に感謝感謝であります。


少し行くと京阪中之庄駅

踏切を越えて

東海道を逆走し、

膳所城跡へ向かいました。


その27へ

馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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【旧東海道歩き25 】和田神社~膳所城中大手門跡

2018-12-19 16:56:00 | 東海道歩き『近江路』
2018年2月11日(日)

旧東海道は、響忍寺の前の道を約300m進み右折すると膳所城と並行するように直進する

右手に

11時55分、

『和田神社』

白鳳年間の創建。

本殿は、一間社流造、屋根は檜皮葺。
正面に軒唐破風がある。
この様式が鎌倉時代の様式をあらわしてるので、国重文となった。



昨年3月の探訪の時は桜が咲いてました。


すっかり落葉してますが、このいちょうの木は、琵琶湖からの目標になるほどの巨木。
関ヶ原の戦いで敗れた石田三成が京都に護送される途中、この木に繋がれた。

高麗門は、膳所藩校遵義堂の門を移築した。

明治維新になって膳所藩は、財政難となり、お城を維持するのが難しくいち早く廃藩届を出した。
その際、天守や石垣など売りに出されました。

現在、膳所地区の寺社などに門などの建造物の一部が残されてる。

この高麗門もその1つです。

*『高麗門』とは、
秀吉時代以降に造られ、寺社や城の門として採用された。
柱が4本。
前柱の2本の上に切妻屋根が乗り、
後ろの控え柱2本の上には小さな切妻屋根が乗る


わろてんかのポスター。
この人、今も活躍してるのかな?


たこ焼き屋を前を通り真っ直ぐ進む。
右手に
『縁心寺』

旧膳所城主御菩提所と書かれてます。

藩主は色々代わってますが、こちらは本多家の菩提寺。
膳所藩本多家初代藩主本多康俊の父が徳川四天王の1人の酒井忠次で、
その忠次の菩提を弔うために創建された。
最初は三河国西尾にあったが、こちらに移された。

さらに、膳所藩主だった戸田一西夫妻の墓も境内にある。



墓地に入りました。





残念ながら、戸田家の墓は見つけられなかった。


さらに進むと交差点があり、



ここに大手門がありました。




ここで一旦街道を離れて、寄り道。

城跡と城下町を探索します。

その26へ


Φ(*^ひ^*)Φ

今日は暖かく天気が良いという予報だったので、朝から窓拭きした。

しかし、

天気悪いぞ!

冷たい風が吹いてるぞ!

あーさぶー!

天気予報のお姉さんに騙された


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

ようやく、年賀ハガキ買いました。

でも、まだ書きません

三連休終わってから書くわ。

相変わらず、なかなか前に進まない年末の今日この頃です。


馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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【旧東海道歩き24 】響忍寺へ

2018-12-18 16:20:00 | 東海道歩き『近江路』
2018年2月11日(日)

スーパー平和堂のある相模川を渡り

大きくカーブする道をゆく

↑そこのお嬢さん、歩きスマホは危ないよ!


T字路に突き当たる。


電柱に「↓→旧東海道」の表示あり。

右折します。


少し行くと
『響忍寺』ごうにんじ。
難読ですね。

立派な塀と門があります。

膳所藩家老村松八郎衛門の屋敷がこちらに移されたのです。
長屋門が風格あります。

膳所の六門の1つです。

よく見ると、

「仁丹 膳所網町」の住居表示。
ナイスです。

境内に入りました。
ちょうど住職さんが帰ってこられたので、洪水の石碑の場所を聞いたら、
教えてくれました。

入って右手の親鸞像の後ろにありました。
明治29年に瀬田川の大洪水があった。

それを伝える洪水石碑です。

本来の瀬田川洗堰の役割は下流に水を供給するのではなくて、洪水対策なのです。

本堂


長屋門の内側




先ほど街道が大きくカーブしたが、相模川が堀として、
響忍寺が城下町の要として西の防衛ラインの役割を担ってるようです。


響忍寺の門の前で街道は、折れ曲がる。

直線道をゆくとまた折れ曲がり。

左へ行けば湖岸。

街道は右折する。

これより真っ直ぐの道が城下町を貫きます。

街道が膳所城下町と一体になって組み込まれてしまってますね。



その25に続く


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

朝ドラまんぷく。
土曜日見逃したら、なんと
また牢屋に入ってるじゃないですか!
これで3度目。
なんべん入るねん!

それにしてもこんな苦労があったとは、驚き。

今更ながら、まんぷく氏の凄さに感心します。


一方、大河ドラマ西郷どん。

西南戦争をもっと詳しく取りあげてほしかった。
官軍側にもドラマがある。

西南戦争だけでも一年間引っ張るだけの内容あると思うのですが…。

ともかく、今年はけったくそ悪いドラマだったわ。



馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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【旧東海道歩き23】膳所馬場~相模川

2018-12-14 16:41:06 | 東海道歩き『近江路』
2018年2月11日(日)


前回、馬場北町会館の前を通ったが、会館の裏側
というか、西武百貨店の向かい側に

『馬場児童公園』がある。

県の探訪の時に休憩のために立ち寄ったが、
実はここに芭蕉の句碑がある。
∇『草の戸や日暮れてくれし菊の酒』
義仲寺無名庵に住んでた芭蕉が元禄四年九月九日に詠んだ句。
重陽の節句の日ですわ。
節句では一番マイナーな日ですが、
この日に菊の花を酒に浮かべて飲むと健康長寿になるそうですよ。

残念ながら、石碑を撮影してない

うーん…。

寄り道はこれくらいにして
街道を行きます。

平野小学校東の交差点から東へ向かう

11時28分。
右手に煙突。

「大津板紙」という工場の煙突です。
板紙とは、段ボールの原紙のこと。
回収された古紙を再生してつくるそうです


四つ角に来ました。
街道は先で右にカーブしてます。

ここに
『膳所城北総門跡』石碑

門番がいて街道をゆく人を見張ってたようです。
これより膳所城下町に入ります

道を折れ曲がりにして見通しがきかないようにしてるのです

しばらく直進

右手に

『法傳寺』

左手に

『桃源寺』

そして、右手に
『石坐神社』

いわい、と読む。
読めませんね。

いつ建てられたのかよくわかってないが、この地域を開発した治田連(はるたのむらじ)の先祖の彦坐王(ひこいますおう)、天智天皇、大友皇子、伊賀采女が祀られてる。
この四柱の神像は非公開ですが、国重文に指定されてます。

なので、この神社は天智天皇の頃に創建されたかも?

ただし、関ヶ原の戦いの時に西軍がここに陣所を置いた。
戦いに敗れて、境内を焼いたため古記録や宝物が焼失したそうです。

しかし、鎌倉時代に建てられた本殿はなんとか残りました。

県の指定文化財となってます。

天智天皇といえば、近江神宮ですが、こちらにも立ち寄ってほしいものです。

ちなみに現在は八大龍王神をアピールしてます。

昔、琵琶湖は日本海の入り江だったが、その街道がふさがれて淡水湖が誕生した。
これが淡海・琵琶湖で、このびわ湖の神様が石坐神社に鎮座されてるそうです。

びっくりポンですね。


街道をゆく。


今度は左に折れ曲がります。

前方に平和堂あり!

平和堂(フレンドマート大津西の庄店)横の相模川の橋を渡る



その24へ続く


馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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【旧東海道歩き22】義仲寺(大津市)後編

2018-12-11 21:57:00 | 東海道歩き『近江路』
2018年2月11日(日)

義仲寺境内の北端に来ました


∇『さまざまの露ひとむらのさかり哉』露城

↑この露城さんの墓が↓

 
隣に文芸評論家の保田 與重郎氏の墓もある。

この人も寺の再建に尽力されたそうです。

木曽義仲と芭蕉のファン、多いですね。

隅っこに

『曲翠墓』

膳所藩士菅沼曲翠の墓。

芭蕉の門人で、石山の幻住庵を芭蕉のために提供した。

曲翠は、藩の悪家老曽我権太夫を殺し自分も責任をとって切腹した。

芭蕉にとって尊敬すべき人だったろうね。
 

∇『旅に病で夢は枯野をかけ廻る』

芭蕉の時世の句ですね。

書き順が左上→右→左と移動してるので、最初わからなかった


『木曽八幡社』

義仲公を祀る

 

『粟津文庫』

1791年、蝶夢法師が創設した。

芭蕉の門人で、芭蕉の句を収集し文庫に収納した。

 

∇『初雪や日枝より南さり気なき』

蝶夢幻阿佛の句。

日枝は、比叡山のことだろうね。

大津市草津市など湖南平野はめったに雪降らない。
降っても大したことないです

 

『山吹塚』

義仲公の側室山吹御前の塚。

病身だったが、京都から大津まで義仲に逢うためにやって来たが、義仲戦死の報せを聞いて自害した。
捕らわれたという説もある。

JR大津駅前に供養塚があったが、駅の改築のため、こちらに移された。

 

この他にもたくさんの句碑があります。
狭い狭い境内で、普通に見学すれば数分で一周できます。

でも一つ一つ句碑を読み、

芭蕉や義仲公に思いを馳せると、
とても値打ちのある境内です。

我が輩は25分かかりました。

大津市に来たら是非とも立ち寄ってほしいお寺です。

 以上、義仲寺参拝おわり。


 11時23分、
旧東海道歩き再開、
東へ向かう


ときめき坂との交差点

右折すれば膳所駅、
左折すれば西武百貨店、

街道は直進。


左手に『馬場北会館』
「ばば」じゃなくて、「ばんば」と読みます。

この付近に馬場があったそうです。
て、そのまんまですな。


「福正寺」


「北村整形外科」

前回は、この先を右折して膳所駅に向かったので、

今回はここからリスタート。


街道を膳所城跡へ向かいます



Φ(*^ひ^*)Φ
いやはや、昨日からグッと冷え込みました。
我が地方、初雪、初霜、初氷
三役揃い踏み。

底冷えで、昼間もこたつにかじりついてます

一気に師走らしくなりましたよ。


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

今朝の新聞の見出し

『紀平 リカ バリー』

紀平梨花とリカバリーを掛けてます。
最初演技を失敗したが、後でうまくリカバリーしたからですって!


座蒲団三枚!




馬《●▲●》助ヒヒーン♪


 

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【旧東海道歩き21】義仲寺(大津市) 前編

2018-12-10 22:04:00 | 東海道歩き『近江路』
2018年2月11日(日)

旧東海道歩き、前回は膳所駅で終了したので、

今回は膳所駅がスタート!

 

まず最初に寄り道。

駅から真っ直ぐ坂を下り北上する。

この道を『ときめき坂』という。

朝夕と夜は賑やかな通りで、今や大津市一番の繁華街では?

分岐の場所に

【道標】

『はせを翁の墳 是より二丁』

『右 義仲寺』

はせを翁の墳→芭蕉翁の墓

 
道標の通りに200mほど歩けば旧東海道の交差点に出るので、

左折するとすぐに

 【義仲寺】に到着。

 
門前に
『国史跡義仲寺境内』碑

室町時代に佐々木六角氏が建立した。

境内に木曽義仲の供養塔、
松尾芭蕉の墓、
があるので、昭和42年に境内全域が国史跡となった。

ただし、寺は洪水、火災、戦争などで何度も壊滅し現在の建物は昭和40年に個人の寄進によって再建された。

入り口の右手に
『巴地蔵堂』

木曽義仲の側室巴御前の冥福を祈るために建てられた。

入ってすぐに寺務所があり、

300円払いました。

『初めてですか?』
と、おばさんが聞いてきた。


「いや、30数年ぶりかな?」

 
『ずっと全然変わってないですよ』

 
狭い境内なので、構造を変えるわけにはいかないのだろうな。

 というか、前回来たときは、
結婚前、妻とのデートだった。
妻に誘われて訪れた。

だから、ほとんど境内の様子は覚えてない。

妻が言うには、
西武百貨店に行くなら、
まずは、義仲寺に寄るべし。
市街地のなかにひっそりと佇む寺だが歴史的に貴重なもの、
だと。

 当時、義仲寺のことを我が輩は全く知らなかったのです。
今思うと情けない。

隣に
『史料観』

いや普通、史料館じゃないの?
なぜ「観」なのだろうか、不思議ですね。

 

境内には、これでもかこれでもかと、
句碑がある。

 

∇『行春やあふミ(おうみ)の人とおしみける』

文字は芭蕉の自筆だとか?
晩年、近江の地を愛した芭蕉が行く春を惜しんでます。

 
『朝日堂』

義仲寺の本堂。

朝日将軍と呼ばれた木曽義仲が名前の由来。
観音菩薩、義仲公の像、芭蕉翁の位牌などが納められてます。

 

記帳しました。
 

我が輩も一句詠んだ
「冬寒し前途を祝う義仲寺」
この日の街道歩きが無事であることを願っての気持ちを込めてます

 というか、我ながら下手な句やな…。

 

∇巴
『かくのごとき をみなのありと かつてまた おもひしことは われになかりき』

室町将軍と言われた三浦義一翁の歌碑。
この人が再建に尽力されたようですな。

 

∇『古池や蛙飛びこむ水の音』
言うまでもなく、芭蕉翁の句です。
 

『佐渡の赤石』

三浦翁が寄贈されたようですね。


『巴塚』

木曽義仲の側室だが、武勇に優れて敵将を討ち取ったそうです。
後に尼僧となり、ここで義仲の菩提を弔った。
最後は木曽で90歳まで生きたという。


『義仲公墓(木曽塚)』

芭蕉翁は木曽塚ととなえた。

「寿永三年正月21日歿」と看板に書かれている。
義仲は、義経に追われて近江に逃れこの粟津付近で決戦となり敗死した。
31歳でした。

その隣に

『芭蕉翁墓』

元禄七年、十月十二日に亡くなられたが、芭蕉の遺言に従って遺体を大坂から舟で淀川→伏見まで運び義仲寺で葬儀をおこない、義仲の墓の隣に埋葬された。

墓はその当時のままです。

 ホントに貴重な墓です。

 合掌!


『翁堂』




正面の祭壇に芭蕉翁座像。

左右の脇に内藤丈艸居士(芭蕉の門人)と向井去来先生の像。

 側面に、蝶夢法師像。
翁堂を再建した人です。

 壁の上には、36俳人の額。

天井の絵は、伊藤若冲。

これを見られるだけでも凄いと思いませんか!

 
後編に続く


馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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【旧東海道歩き20】吾妻川~膳所駅

2018-11-30 16:28:00 | 東海道歩き『近江路』
2017年12月02日(土)

吾妻川を越えると東国、
いわゆる東山道の国ということかな?

そういや東海道は古代、東山道と呼ばれてた。
鈴鹿峠越えの東海道は平安時代9世紀後半以降の新しい道なのです。

大河川を越えなきゃならない東海道よりも山道の東山道のほうが歩きやすかったので、
東山道(後の旧中山道)のほうがメインの街道でした


さらに東へ進む


和泉町


右手に『西方寺』

電話で法話が聞けるのかな?


旧大津町の東端に来ました

中町通りと合流



さらにまたここで浜通りと合流

大津町が斜めに三筋あった名残です。



15時23分

京阪電車の踏切を渡る



石橋駅を見てます。

その向こうの建物は、NHK、大津郵便局かな?

さらに東へ進む

が、ここでまたまたまた寄り道

………………………………………………
15時31分
湖岸へ。


打出浜です

江戸時代は、東海道から琵琶湖が見えたと思う。

今は見えないので見に来た!

江戸時代は、大津港にかけてずらっと荷上場があったはず。


『紫の道』

紫式部がお父さんと一緒に打出浜から越前を目指した。
これにちなんでます。


琵琶湖花噴水

『石橋の常夜灯』

たくさんの船が出入りするための目印となりました。

江戸時代、湖上交通を独占していた
大津百艘船と彦根三湊との間でバトルが繰り返され、徐々に彦根藩が大津百艘船の権利を奪っていきました。

お城のような形の
『琵琶湖文化館』

昔、遠足で来ました。
その頃は博物館、水族館でした
ガラス板の下を魚が泳いでましたよ。
現在は、県内文化財美術品などの収蔵庫になってます…。

しばらくなぎさ公園を散策し

寄り道終わり。


琵琶湖を見ないと東海道を歩いた値打ちがないですな

………………………………………………

15時54分

街道へ戻りました

『義仲寺』

夕方なので、通過。

次回の歩きの時に立ち寄ります


左手に西武百貨店が見えます。
県内で初めての百貨店でした。

右へ行けば膳所駅ですが、
少し遠回りして向かう



平野小学校を越えて右折


大津高校の横を通り

線路を越えて

16時10分
膳所駅南口。

新駅舎は橋上駅となり南側へ行けるようになった。
なので、南口を見たかったのです


本日の歩きはここまで。

29361歩、約17.6km

ただし、
旧東海道山科駅~膳所駅までは
直線距離にして7.5キロです。

我ながらよく歩いたものですな。


その21へ続く

馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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【旧東海道歩き19】札の辻分岐~吾妻川

2018-11-29 16:32:00 | 東海道歩き『近江路』
2017年12月02日(土)

大津市、西近江路と東海道の分岐の
札の辻を右折し、京町通りを東へ向かう


上の看板に旧東海道の表示



吉田医院横に
「京町の由来」




ちょこっと宿場の雰囲気


中央二丁目南の交差点を突っ切る

徳永用品店横の四つ角に

『此付近露国皇太子遭難之地』石碑

有名な大津事件があった場所です。

ロシア皇太子に斬りつけた犯人の津田三蔵は、西南戦争では八代市まで従軍してます。

この時に怪我をして戦場から退くが、
西南戦争で勲章をもらった津田巡査は、大津市に立つ西南戦争記念碑に対してロシア皇太子ニコライ一行が敬意を表さず、西郷隆盛を復活させると邪推し、自分の勲章がはく奪されることを恐れた結果、襲撃に及んだ。

という説があります。
真偽のほどはよくわからないが、
このことを
大河ドラマ西郷どんの作者は知ってるのだろうか?
知ってたらドラマで触れてほしい!

て、無理やわね。


街道をゆく

あゆら


大津魚忠


餅兵

お腹空いてきた…。


唯泉寺


京町三丁目、旧東海道の表示

『華階寺(けかいじ)』

門前に、
「俵藤太矢根地蔵月見石」石碑
ここに俵藤太の屋敷があったとか?
ムカデを退治した大矢の根(鏃)で彫った地蔵があるらしい。

中に入ってないのでわからない。

ちなみに今回は立ち寄ってないが、
すぐ近くに天孫神社がある。
大津祭りが有名ですね。

『京町通り』の由来

この通りは、江戸時代に「大津百町」として賑わった旧大津市街地を東西に貫く三本の通りの一つです。

この通りは、旧東海道とも重なっており、京都への道筋にあたるところから「京町通り」と呼ばれてきました。
かつては多くの商家が軒を連ね、分岐点にあたる札の辻以西は、北国街道となっていました。




さらに東へ

『近江度量衡株式会社創業記念館』

計量器、はかりの会社ですね。
1900年創業なので、118年目です。

右手に滋賀県庁。

2年前に国の登録有形文化財に指定されました。

全国の県庁、高層ビルが増えてるなかで貴重な県庁舎です。

『旧境川町』由来

この東に吾妻川が流れてる。
吾妻→東
この川を越えると東国だと考えられてたようです。

東国へ向かう



右手に「清源寺」

『吾妻川』です

あがつまがわ、じゃなくて
あづまがわ、です。
念のため。

琵琶湖へそそぐ細い川です

ときわばし、

漢字で書くと常盤橋かな?




その20へ続く


馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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【旧東海道歩き18】蝉丸神社~札の辻

2018-11-23 17:53:00 | 東海道歩き『近江路』
2017年12月02日(土)


蝉丸神社を出て北上すると
現在の東海道本線の上を通る

この逢坂山トンネルのなかに電車が入ると耳が痛くなるから嫌なんですが…。

さらに下ると
『妙光寺』

こちらもイチョウが素晴らしい

外から見ただけです。

この付近の寺社は京阪電車が参道を分断してる

次に
『小町湯』

小野小町が浸かったお湯だとか?
玄関の唐破風が古い由緒を想像させられます。

今や町の中の銭湯は貴重ですな。


春日町


御幸町(みゆきちょう)交差点


ここで、少し寄り道
……………………………………………………


左へ向かうと
京阪電車『上栄町駅』

狭いため、上下線のホームが離れてます。

だから、改札口も別々にある。

ホームの幅も狭い

駅の北側に
『犬塚の欅』

京都から大津へ逃げてきた蓮如上人が他宗の門徒(おそらく天台宗だと思う)によって毒殺されかけた時に、
忠犬が身代わりになって死んだ。

なので、ケヤキを植えて弔った

というお話。

合掌!

北側に
『大津赤十字病院』

反対側に

本長寺、大津代官菩提寺と書いた看板。
ただし、キリンの絵の建物は、本願寺近松保育園だと思う

『本長寺』


代官の墓の石碑もある。

石原代官と小野代官がいた。




墓地の中に入る


小野家の墓


大津寄家之墓がある


山形藩士の墓も。

江戸時代、大津奉行があったが、
基本的には京都奉行の支配下にあった。
後に大津代官が、大津町を治めるようになった。
明治維新後は、大津裁判所→大津県→滋賀県へと変遷します。

江戸時代の朝鮮通信使は、
京から逢坂山を越えると大津代官菩提寺の本長寺で休憩、宿泊したそうです。


一旦、街道のある電車道(京阪電車が路面電車に)に戻ったが
すぐにまた寄り道

『蓮如上人近松御旧跡』石碑

北国街道を歩くと嫌というほど蓮如上人が登場します。
というか、福井県では北国街道よりも蓮如道のほうが馴染み深いようです。

『是より半町』

で、突き当たりに
『近松別院』

蓮如上人が開いた寺。
蓮如上人は京都東山大谷の本願寺が延暦寺に攻撃されて潰され、近江に逃走。
山科本願寺が再建されるまでの10年間、ここが事実上の本願寺でした。

先ほどの犬塚も近松別院の一部です


寄り道終わり!

……………………………………………………

街道に戻りました。

前方に見えるのは東横イン、
正式には
「東横イン京都琵琶湖大津」
という長ったらしい名前。
大津だけでいいのにわざわざ改名して京都琵琶湖を入れたのは、京都の観光客を大津に呼ぶためです。

知らない人は、大津や琵琶湖は京都の一部と受け取ってしまうのでは?

15時00分
『京町一丁目』交差点
ここは札の辻。

真っ直ぐ行けば、浜大津(大津城跡)
左に行けば、北国海道(西近江路)、
そして、右に行けば
東海道です。

大津宿は、東海道五十三次の53番目、つまり最後の宿場で、
東海道では最大規模だったとか?

大津町の人口は17000人を越え
本陣2軒や脇本陣1軒、200軒近い旅籠が軒を並べてたそうですが、
その面影がイマイチ…。




その19へ

馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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【旧東海道歩き17】関蝉丸神社

2018-11-22 13:38:13 | 東海道歩き『近江路』
2017年12月02日(土)

「大津市のマンホール」

ミシガン船、ヨット、観覧車、 市の鳥・ユリカモメ、エイザンスミレ、ヤマザクラ、 花火大会、レガッタ、びわ湖花噴水、犬…

ごちゃごちゃたくさん入れ過ぎ!

ポンプ場の北側に

『安養寺』

こちらには
「立聞観音 たちぎきかんのん」があります。
蝉丸の奏でる琵琶を立ち聞きしていた僧侶が姿を替えたとされる観音菩薩像があるのでこの名前に。

中に入れないので見られません。
残念無念

門前に
「蓮如上人旧蹟」石碑


「逢坂(おうさか)」地名由来

日本書紀によると、神宮皇后の将軍武内宿禰がこの地で忍熊王(おしくまおう)とぱったりと出会った。
ので、逢坂と呼ばれるようになったそうです。


昔は、関寺というのがここにあったようですな。

14時16分

京阪電車の踏切を越える


『逢坂一丁目北』交差点

道路標識には161号線敦賀まで88km
とある。
現在西近江路歩きは、大津市北部まで進んでます。
敦賀に到着するのはいつになるやら…。

『関蝉丸神社』

3つある蝉丸神社、いよいよ最後。
というか、蝉丸神社といえば、ここがメイン。

横には貴船神社と書かれてますね。


京阪電車の踏切を渡って神社へ。

歌碑がある。

「これやこの ゆくもかへるも わかれては
しるもしらぬも 逢坂の関
蝉丸」
超有名ですな


拝殿の手前に
「せきのしみつ」石碑

関の清水、です。

が、
江戸時代からすでにこの井戸の水は枯れてたらしい…。


こちらの石碑は、
「逢坂の関の清水に影みえて今やひくらん望月の駒」(紀貫之)

本殿


屋根がかなり痛んでます

修繕費の足しに、お賽銭少しはずんだけど、焼け石に水かな?


記帳しました


謡曲の解説

「時雨灯籠」国重文

六角形の石灯籠、
銘文は無いが、
蕨手の笠


と蓮華朱紋帯の竿

が鎌倉時代の特色を表してるそうです



奥に小町塚があるようなので向かう。

歌碑



こちらが小町塚かな?

小野小町に関しては全国至るところにあるので、なんとも言えません


貴船神社。


イチョウがナイス!



いよいよ大津市街地、中心部へ突入です


その18へ


馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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