7月6日
カーブになっていてホームが狭いので
膳所城の天守風の建物になってます
版籍奉還、廃藩置県、西南戦争などの記載。
大塩平八郎の乱、和宮下向、
御用池普請の事。
泉水寺というのは現在見当たらないが
響忍寺の門は立派な長屋門で城下町の西側を見張る重要な位置だったことがわかります。
本来の東海道は防塁を避けて通るようになってたようで、これが枡形の意味なのでしょう。
臨時としてこの図の白い点の仮道を移動させたのでは?
グーグルマップ
以上、おしまい
あくまでも個人の独善的推敲なので
京阪膳所駅
カーブになっていてホームが狭いので
腰高ベンチになってる
膳所公民館(市民センター)へ移動
膳所城の天守風の建物になってます
膳所藩士羽太(はぶと)家史料展が開催されてたので見学に来ました
幕末から明治にかけての古文書が公開されてました
史料は自由に撮影してよいと係員さんが仰ってくださったので感謝です
有名な大津事件
ロシア皇太子を斬りつけた津田巡査はこの公民館近くに収監されたようです
版籍奉還、廃藩置県、西南戦争などの記載。
京都に近いから情報入手が早かったようです
大塩平八郎の乱、和宮下向、
桜田門外の変は「彦根騒動あり」と簡単な記述。
機密事項だったからね。
御用池普請の事。
羽太家が池の浚渫の役目を負った。
藩士みんな総出でモッコ担いで普請をしたようです。
城下町から山の麓まで大変な労働だったと思います
実は5月の連休に御用池を見に行った
史跡の解説板は無くて
有料の釣池になってました…
他にも史料あったが、
気になったのが、
天保7年の水害記事
大雨続きで琵琶湖の水位が高くなり
城下町のあちこちで水没した。
城下町には旧東海道が通ってたので
大事な通行は水没してない別の道を案内したという。
で、1つ気になったのが、
往還道というのは東海道のこと。
膝付近まで水没したようです
※※※※※※※※※※※※※※※※※※
一、当町筋水漬ハ霊照院前少々有之、響忍寺前泉水寺桝形迄西ノ庄宮
之前五十間計、大津二而ハ石場七、八十間計浜町通り小舟入五十間計、
何レも膝之当り迄水漬候由、
※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「響忍寺前泉水寺枡形前」
水没したため枡形前を避けて響忍寺横から仮道を通らせるようにした、
ということかな。
泉水寺というのは現在見当たらないが
響忍寺で、東海道が屈曲してます。
これが街道の枡形のことだと思う
以前にブログでアップしたことあるが、
響忍寺の門は立派な長屋門で城下町の西側を見張る重要な位置だったことがわかります。
だから、わざとここで街道を折れ曲がるようにさせてます。
長屋門は枡形門のような役割かな?
で、先の図を見ると
東海道を通せんぼするように防塁があったようです。
東海道を通せんぼするように防塁があったようです。
おそらく水害対策と城下町防護のための土塁だったのでしょう。
この防塁は壊されて
現在は
スーパーマーケットと橋付近が少々高くなってるだけ。
天井川の堤としての高まりとしか見えない
で、市民センターの係員さんにお話を伺ったら、
本来の東海道は防塁を避けて通るようになってたようで、これが枡形の意味なのでしょう。
通行人は
防塁と響忍寺で囲まれた空間を移動させられるわけです。
いやぁ、これは知らなかった。
いやぁ、これは知らなかった。
全く知らずに東海道歩きをしてたわけで
いやはや汗顔の至りですわ。
前述の水害の時は
臨時としてこの図の白い点の仮道を移動させたのでは?
と思いました
グーグルマップ
響忍寺裏の川沿いに緑地があり、
この緑地が防塁跡の痕跡かな?
この緑地が防塁跡の痕跡かな?
と推測したが、単なる堤跡の名残かも?
以上、おしまい
あくまでも個人の独善的推敲なので
鵜呑みしないようにお願いします
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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