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私の学び歴

2008-07-05 09:18:00 | 日記
こんばんは第三部私の学び歴
(1)はらぺこいもむしの変身
(2)引っ越し10回転職11回
(3)夜のスロープ
(4)夜のカフェテリア
(5)TOJ
(6)国語教師
(7)ナイロビの熱中時代
(8)ドサまわり女優 
(9)鈍行まなび歴
(10)ビタースイートシルバー
(11)地球の迷い方
(12)夜の風
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2007/12/02
ぽかぽか春庭やちまた日記>こんばんは第三部私の学び歴(1)はらぺこいもむしの変身

 教育学者の太田堯は、『はらぺこあおむしと学習権』に、
「生き物というものはかわるのです。それも他人の力で変わるのではありません。自分の力で変わるのです」
と、述べている。

 「人は、文化という空気の中に生まれてくるのです。(中略)文化に学びながら、あるものは身につけ、いらないものは排除して、自分らしく変わっていきます。それが広い意味の学習です。ですから赤ちゃんから学習は始まっているのです。それが人間の生きる姿であり、それを助けていくのが教育の仕事です」

 エリックカールの『はらぺこあおむし』は、私も大好きな絵本。
 娘と息子にもくりかえし読みきかせをしてきた。あおむしは、むしゃむしゃ食べて、最後にはきれいな蝶に変身する。

 わたくし、はらぺこいもむしではあったけれど、蝶になった気がしない。蛾?
 ガならせめてヨナクニサンであってほしかったけれど、たぶん、蝶でも蛾でもなくて、はらぺこ芋虫の脱皮後は、だんご虫?
 
 あ、だんご虫は、昆虫ではなくて、海老や蟹の仲間が海から陸に上がってきた甲殻類なんだって。

 脱皮するときは、はじめに体の後ろ半分を脱ぎ、脱ぎすてた殻を「貴重なカルシウム源」として食べて、前半分の甲殻を作る原料にする。
 自分の脱ぎ捨てた体が消化されて、前半分の体の材料につかえる段になって、ようやく前半分を脱ぐ。

 だんご虫が脱皮で全身生まれ変わるのには、7日から10日もかかると知ると、ますます、あ、私と同じと思う。
 私はだんご虫と同じような「トロい脱皮」を何回もくりかえしたのだから。

 優秀な学生は、就活をこなし卒業と同時にぱっと華麗な蝶に変わる変身をする。あるいは、義務教育終了後、高校入学から博士課程修了まで8年間の教育だけでさっさと博士になる。

 私は、といえば、7回も入学と卒業をくりかえし、転職11回。
 半分日本語教師で半分大学院生、みたいな中途半端な脱皮姿のまますごしていた時期も長い。

 「こんばんは」シリーズの第三部「私の学び歴」は、そんなだんご虫の「ごろごろころがり」の鈍行人生について。

<つづく>



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2007年12月03日


ぽかぽか春庭「卒業7回転職11回」
2007/12/03
ぽかぽか春庭やちまた日記>こんばんは第三部私の学び歴(2)卒業7回転職11回

 私の出講先大学のひとつには、高校2年修了からの大学入学など、飛び級を続け、24歳で博士号を取得した学生もいる。高校入学から博士号まで8年間のみ。秀才ほど短期間で教育を終える。

 私は、高校入学から修士号取得まで合計17年間も学校教育を受けた。7枚の卒業証書は、よほどの「鈍才の証明書」だと思う。

 小学校中学校高校、職業訓練専修学校、私立大学、国立大学を卒業し、国立大学大学院を修了した。合計7枚の卒業証書。
 たぶん、50代の女性としては、もっとも長い期間、学校教育を受けてきたうちのひとりだろう。鈍行列車の鈍才だ。

 卒業した7校のうち、私立大には学部と大学院合わせて6年間在籍し、国立大の方は、学部4年間大学院4年間合わせて8年間在籍した。
 専攻は日本古代文学、演劇学、日本語学と変わった。

 そんな鈍才だからこそ、私には授業をする喜びがあるのだと思っている。
 私のクラスでは、「語学苦手な学生」ほど、「クラスにくることが楽しみだ」と、言ってくれる。私には、「できない学生の気持ち」がわかるから、と思う。

 私がこれまでに、受けてきた学びの数々。
 検査士の資格をとるまでの女子医大内科検査室での学び、視覚障害者のための朗読法を習ったこと、モダンダンスやジャズダンスのレッスンを30年以上続けていること、ケニアのナイロビでのアフリカンダンス修行、、、、、私はたくさんの学びを得て、自分自身を変えることができた。

 春庭プロフィール「頭も心もポカポカです」から、1~10をとばして「11とせ、転職回数11回」のところを抜き出すと、、、、

11とせ:転職したのは11回。
地方公務員を皮切りに、病院内科検査技士、英文タイピスト、役所事務、国語教師に予備校講師、劇団女優のドサ回り。編集助手にフリーライター、校正補助に日本語教師。日本語教師は20年、いちばん長いが儲からず。教えた学生の国籍は、世界中に百ヶ国。

<つづく>
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2007年12月04日


ぽかぽか春庭「夜のスロープ」
2007/12/04
ぽかぽか春庭やちまた日記>こんばんは第三部私の学び歴(3)夜のスロープ

 私の国立私立の母校のうち、国立大学のほうは、毎週月曜日に仕事にでかけていく出講先のひとつ。もっとも、私が学んだキャンパスから郊外へと移転してしまったので、私が学んでいたころの教室と同じではない。
 私立の母校、ときどき近所へ出かけるけれど、教室の中には、卒業以来入っていない。

 新聞に『こんばんは』の上映会の記事が載っていた。私立の母校で上映会がある。
 朝日新聞に掲載された「こんばんは」上映会のあゆみ
http://mytown.asahi.com/tokyo/news.php?k_id=13000180710050001

 母校での上映会、見に行きたいと思った。
 上映会当日の木曜日はさいたま市での仕事があるが、仕事帰りに十分間に合う。
 仕事を終えて、埼京線に乗った。久しぶりの母校訪問である。

 夕方、門を通り、校舎へ向かうスロープを登る。ゆっくり一歩ずつ。
 キャンパスには、授業やサークル活動などで行き交う若い学生たちの笑顔があふれている。

 34号館151番教室での『こんばんは』上映会は6時から。
 森康行監督の講演を含め、終了は9時すぎの予定。

 まだ上映時間まで時間があるので、本部キャンパスの演劇博物館学内をまわって、坪内逍遙展を見てきた。演劇は私が2度目に学生生活を送ったときの専攻である。
 3日後には、創立125周年を祝う大イベントがあるというので、学内外になんとなく華やいだ雰囲気がある。

 時代は変わり、学内の雰囲気もすっかり変わった。
 スロープのわきに以前にはなかった校舎が建てられていて、スロープがなんだかせせこましく感じたのも、学内の印象が変わった一因かも。

 5時前に文学部キャンパスへ戻り、カフェテリアで夕食を食べた。
 30年前は、「安い、混んでる、そしてまずい」だった学食。
 今のカフェテリアは、図書館横にあって、こぎれいになっている。

 カボチャの煮物、ひじき炒め煮、牡蠣フライ、サンマのつみれ汁、4品で600円。
 ごはんはとらないことにしたけれど、ちょっと、食べ過ぎ?久しぶりの学食なので、つい、あれもこれもと。

<つづく>

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2007年12月05日


ぽかぽか春庭「夜のカフェテリア」
2007/12/05
ぽかぽか春庭やちまた日記>こんばんは第三部私の学び歴(4)夜のカフェテリア

 カフェテリアのテーブル。
 隣に座ったおばさんが、「これから授業ですか」と、声をかけてきた。

 「いいえ、授業しにきたんじゃなくて、今日は映画の上映会があるというので、別のところで授業をして、それからここに来たんです」
 「そう、私は今日これから2コマあるんだけど、あなた、受講登録全部おわったの?」

 なんだか話がかみ合わないので、「いいえ、学生じゃないんで、受講登録はしてませんけれど」
 「あら、年配の人が学食で食べてるから、社会人入学の人かと思った」と、おばさん。
 彼女は、退職後、社会人入学制度を利用して入学した方だった。

 私を、夜間の授業を聴講に来た仲間と思ってもらったみたい。
 学生食堂で夕ご飯食べていれば「年配の学生」と、思ってもらえるほど、社会人学生が一般的になったということなんでしょうね。

 娘が生まれたあと私が国立大学に入学したころは、入試も18歳19歳といっしょの一般入試だったし、「母親学生」なんてのはまだ珍しくて、学内でも浮いていた。
 今は、学食に年輩者がしっくりなじんでいる。
 いい時代になってきた。
 人はだれでも、いつでも、どこでも、学びたいときが学齢期。

 「ここの出身者なので、なんだかなつかしくって、学食で食べてます。昔に比べればおいしくなってますね」と、社会人学生のおばさんに説明した。
 「あら、学生じゃないんだ」
 ええ、私がこのキャンパスで学んだのは、30年以上も前のこと。昔、むかし~、、、

 義務教育終了後、私は高校入学から17年間「学校」に籍をおく「学生」だったと書いたが、「学生だけ」だったのは、高校の3年間だけ。
 あとの14年間は、いつも「兼業学生」だった。

 「昼は英文タイプ科の学生で夜は日本文学科の学生」だったり、公立中学校の教師として働きながら、NHKのアナウンサーに「視覚障害者のための朗読法」を習ったり、演劇部指導に生かすためにモダンダンスのレッスンをはじめたり。

 「月水金は日本語教師として働き火木土は日本語学を学ぶ母親学生」だったり、大学院に通いながら「娘と息子の母兼夫の会社の手伝い兼日本語教師」を同時にこなしてきた。
 働くことと学ぶことを、いつも同時に行ってきたのが、私の生活だった。

<つづく>
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2007年12月06日


ぽかぽか春庭「TOJ」
2007/12/06
ぽかぽか春庭やちまた日記>こんばんは第三部私の学び歴(5)TOJ

 職業訓練のひとつとしてTOJ(トレーニングオンジョブ)という方法がある。実際の業務を遂行しながら職業訓練を行う。
 たとえば、飛行機のキャビンアテンダントは、このTOJによって実際の客室業務をこなすことが「訓練の仕上げ」になる。

 本屋やファミリーレストランで「訓練生」「研修生」という名札をつけた人を見かけることも増えてきた。まだ、一人前になっていない、しかし、給料はもらいつつ、実際の仕事の場でさまざまなことを学んでいく人たちだろう。

 私も「給料をもらいながら学ばせてもらった」という、いわばTOJのような期間がずいぶんあった。

 女子医科大学内科検査室で、検査補助員として働きながら、内科検査の勉強をさせてもらい、順天堂医大で行われた資格試験を受けた。
 「衛生検査技師」の資格を得て仕事をした期間は短かったけれど、内科検査室で働きながら血液病理や尿検査などを学んだこと、私にとっては、貴重な学びの期間だった。

 職業訓練生として専修学校で学んだ期間もあった。
 70年代当時は「東京都立お茶の水専修職業訓練校」といったが、現在は統合されて「東京都立中央城北職業能力開発センター飯田橋校」となっている。今は、コンピュータOAシステムやコンピュータ組版印刷(DTP)などを教える科が設置されている。

 ここで英文タイプを習ったことは、現在たいへん役に立っている「職業訓練」になった。アルファベットキーボードをタッチタイピングで70wps(1分間に英語単語を70語打てる)訓練を受けたから、現在、ワープロを「話しているスピードと同じ早さ」で打っていける。

 国語科教師として公立中学校で働いたとき、演劇部指導を任された。部員に発声法を教えるために、朗読講習会にでたことも、「働きながらの学び」のひとつ。

 県の主催で「視覚障害者のための朗読ボランティア養成講座」が開催された。講師はNHKのアナウンサー。
 週一回半年間にわたって、発声や表現の訓練を受けた。もともと滑舌はよかったが、この訓練のおかげで鼻濁音の発音ができるようになったし、今も日本語教師として働く「基礎体力」になっている。

 中学校国語教師として働く前には、大学4年生のとき、区立中学校で教育実習を行ったが、日本語教師としては、実習なしにいきなり教壇に立った。

 1988年に第1回目の「日本語教育能力検定試験」に合格し、合格通知を受けた翌月からもう日本語学校の現場で教えはじめた。

 この最初の日本語学校での授業など、わからないことだらけで教えはじめてしまい、とまどうことばかりだった。
 給料をもらいながら教育実習をさせてもらったようなものだった。私にとっては、貴重なTOJだった。

<つづく>


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2007年12月07日


ぽかぽか春庭「国語教師」
2007/12/07
ぽかぽか春庭やちまた日記>こんばんは第三部私の学び歴(6)国語教師

 仕事で成功する方法として、その職業での「めざす人あこがれの人」がいることが大きな要素になるときいたことがある。

 スポーツの世界でも、フィギュアスケートの安藤美姫や浅田真央の「あこがれの人」が伊藤みどりだったり、ゴルフの上田桃子の「目標の人」が宮里藍だったり。

 身近な人を目標として「うちの部長が仕事する上での目標」という人もいるだろうし、会ったことはなくても「マツシタに就職したんだから目標は当然松下幸之助」という人もいるにちがいない。

 私が中学校国語教師になったころ、目標にしていた国語教師が3人いた。
 無着先生、大村先生、見城先生。

 やまびこ学校の無着先生は、山形の中学校から東京の明星学園へ転出して、ラジオの子ども相談室担当者として人気を集めていた。
 無着先生が所属する「教育科学研究会・国語部会」の国語教育研究と、同系列の「言語学研究会」の奥田靖雄らの文法研究が、のちに私の文法研究の基礎になった。

 大村はま先生。1906年生まれ。国語単元学習(現在の総合学習にあたる)の開発者。
 1963年にペスタロッチ賞を受け、私が教職についたときは、すでに伝説の国語教師だった。
 私が1年生教師として出発したとき、大村先生は68歳。とっくに一般の定年退職の年齢を超えて、なおまだ一中学教師として教壇にたっておられた。

 先生は、2005年に98歳でなくなるまで、国語教育ひとすじに邁進し続けた。
 大村はま先生については春庭HPに書いたことがあるので、ごらんください。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/onna0505a.htm

 夜間中学の見城先生は、私が教職に就いた当時、荒川区立第九中学校夜間学級に勤務の中学校国語科教師だった。
 それから42年間、夜間中学の教師ひとすじに、教鞭をとってこられた。

 目標の先生方はまぶしかったが、私は未熟な教師だった。
 私は国語教師としては3年でリタイアした。

 もともと演劇は大好きで観劇をつづけていたが、中学校で演劇部指導をしたことから、もっと演劇について学びたいと思うようになり、再び大学で学ぶことになった。
 夕方から夜までは予備校講師や塾講師をして働きながら、昼は演劇学や芸能学を学んだ。

 演劇人類学、民族芸能学をめざし、ケニアでフィールドワークをするつもりでナイロビに行き、1年近くをケニアですごした。
 ボーマスオブケニアというところで、アフリカンダンスを習った。

<つづく>
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2007年12月08日


ぽかぽか春庭「ナイロビの熱中時代」
2007/12/08
ぽかぽか春庭やちまた日記>こんばんは第三部私の学び歴(7)ナイロビの熱中時代

 1979年、ケニアのナイロビに着いたその日に町の中で迷子になり、元新聞記者の日本人に出会った。親切な男は、街を案内してくれた。
 帰国後2年間、旅仲間として交際した。

 ナイロビでの出会いについては何度もカフェ日記にも書いているのだけれど、最初にかいたものは、下のぺージの2003/10/19「ナイロビ・東アフリカの裏町」にある。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/oi0310b.htm

 いずれは、ナイロビですごした1年間の写真日記をUPしたいと思っている。キリンやシマウマや熱気球の写真、、、、。夫とのツーショットは1枚だけ。

 残念なことひとつ。
 「熱中時代」というテレビドラマのスペシャル版でナイロビロケがあった。
 撮影がナイロビ市内で行われ、主演の水谷豊と相手役の浅野ゆう子が撮影のためにやってきた。

 しかし、30年前のバックパッカーたちは、「テレビの人気ドラマ」なんてものを頭から馬鹿にしていて、撮影隊に近づく人などいなかった。そういう「軽薄な文化」がいやだから、アフリカくんだりまでそれぞれが単独でやってきて、ひとりずつの旅を続けているのだ。

 「従姉妹が海外青年協力隊でハイスクール教師をしているから」という理由でケニアをフィールドに選んだ私は「ミーハー女」と思われていたから、「ミーハー行動」をとるのに躊躇はなかった。

 町中で撮影隊をみかけたので、なにかアルバイトはないかとスタッフにたずねると、その場でエキストラ出演がきまり、浅野ゆう子に紹介された。

 浅野ゆう子の友達役になり、いっしょにバスにのって、オープンカフェに座っている水谷豊に浅野が呼びかけるシーンの撮影をした。
 私が迷子になったとき、夫とはじめておしゃべりをした「ソーントゥリーカフェ」のわきを通過するバスに浅野といっしょにのり、カフェ前バスストップの停留所でおりた。

 大学正門前でおしゃべりをするシーンではセリフもついた。

 1980年にこのスペシャル版は放送されたが、放映当時、私はまだナイロビにいたので、自分の写っているドラマを見ることができなかった。実家にまだビデオがなくて、保存することができなかった。

 せっかくの「浅野ゆう子との共演?!」だったのに、自分では見ていない。
 妹の話では「色が白い浅野のとなりに立って、現地の人かと思うくらい日に焼けていた」そうだ。

 また、当時は「旬が終わった売れないアイドル」にすぎなかった浅野ゆう子に何の関心もなく、いっしょの写真をとっておかなかったことも残念。よい記念になったろうに。
 そのころは「アイドルタレント」に関心をもつなど、演劇学専攻者としてはずかしいことだと思っていた。ああ、なんて浅はかな。

 水谷豊とは絡まなかったので、サインひとつもらわなかった。この時の役柄は「ナイロビで行われる学会で講演をする大学教授」というものだったが、熱中時代で検索しても、この「スペシャル編」についてはDVDボックスにも入っていないみたい。
「水谷教授の華麗な冒険」というタイトルだったとあとで知った。日本テレビさん、スペシャル版もDVDにしてください。

 1982年、旅仲間たちといっしょにもう一度アフリカへ出かけることになり、アフリカ縦断のためにジープを共同購入することになった。
 旅の途中、ふたりが出会ったケニアで、日本大使館に「結婚届」を出す予定だった。

 アフリカ縦断旅行の費用をかせぐために、地方の小学校を回る劇団に入り、ミュージカル女優として舞台に立った。

 演劇をして暮らす生活、肉体的なハードさでは、11回の転職のうち一番きつかったかもしれない。でも、一番楽しかった。
 
 しかし、私には、俳優という仕事への「持続する志」がなかった。「持続する志」とは、才能の一部である。

 囲碁や将棋で、同じ初段といっても、アマチュア初段とプロの初段がどれくらいの差があるか知っている人なら、演劇のアマチュアとプロの差も分かってもらえるだろう。
 ただ、演劇には碁や将棋とちがって、段位はないし、勝敗がはっきり目に見えるわけではないので、「俳優になりたい、自分なら一流になれる」と、信じてプロを志す若者は、今も多い。

 リトルリーグで野球をやっているすべての子どもがプロ野球選手になれるわけではないのと同様、演劇や音楽をやっている若者の大半は、「それは趣味にしておきなさいよ」と、忠告してやったほうがいい存在。

 自分では「プロ」と思っているたいていの役者は、「アマチュア初段」にすぎない。アマチュアでも段位をもっている人は、まったくの素人に比べれば、そこそここなせる。
 私も、お金をもらって舞台に立つ以上、客に見せられるだけの演技はしたつもりだが、私のようなアマチュアと、一生を演劇にかけるプロの差を思い知る旅回り公演の日々だった。

 旅先へ乗り入れ、小学校体育館で舞台設営、午前午後の2回公演、舞台解体、次の小学校へ。旅回り、きつい毎日だったが、学ぶことも多かった。

 演劇の仕事についてたくさんのことを学び、また共演者から多くを学んだ。
 一番単純なことをいうと、舞台関係者は「金槌・とんかち」のことを「なぐり」と呼ぶ、とか。
 このころをまとめて書くなら、「なぐりの唄」ってタイトルがいいかなあ、と思う。

 「書く」ことへの「持続する志」だけは50年間変わっていない。「書く」ことを仕事として、お金をもらえたのは、1年間だけだったけれど。


<つづく>

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2007年12月09日


ポカポカ春庭「ドサまわり女優」
2007/12/09
ぽかぽか春庭やちまた日記>こんばんは第三部私の学び歴(8)ドサまわり女優

 小学校の体育館を舞台にして「こどものためのミュージカル」を上演して回ったときのあこがれの人は、森下由美さん。
 森下由美さんは、「女優として生きていくには、こういう才能が必要なのだ」と、感心させられた人だった。

 由美さんの演劇芸能に人生をかける姿は、「生半可な気持ちで女優という仕事にとびついてはいけない」と、私にさとらせてくれた。
 女優として舞台の仕事でお金を稼いだことは、人生の体験として貴重なものであったけれど、私がプロのスポーツ選手にはなれないのと同じように、踊りや演劇は仕事としてでなく趣味として楽しむべきことだとわかった。


 森下由美さんは、今もコントトリオ「だるま食堂」のリーダーとして、コントを上演し続けている。
 テレビのバラエティなどには出演せず演芸場の生の舞台を続けているため、一般の人には知られていないが、その実力には定評がある。

 17年度国立演芸場花形演芸会「審査員特別賞」(2006年6月に受賞者発表)を受け、今年2007年7月にはDVDも発売されている。『だるま食堂DVD大作戦』

 1956年生まれの由美さん。えっ、もう由美さんも50代になったんだ、と、びっくり。年末に由美さんのライブ公演を見に行くつもりだ。

 1982年の夏、北陸や九州の小学校をまわるワンクールの公演が終わり、アフリカ縦断旅行の準備に没頭。しかし、出発2週間前に妊娠していることがわかった。
 行きたかった。
 悩んだけれど、アフリカ行きを断念した。

 仲間たちがアフリカへ向けて出発したあと、結婚し、出産した。
 「親切な旅仲間」だった男は、「自己中心主義の夫」に変身した。
 よくある話だ。

 結婚して2年の間に3度離婚すると夫に宣言された。「家庭生活には向かない夫」を待ちながら、私はどんどん弱気になった。

 食うや食わずの生活の中、近所の国立大学に「日本語学科」ができ、一期生募集中という新聞記事を見つけた。共通一次試験でなく、大学独自の一次試験二次試験を行う、という。
 共通一次で理科や数学を受けなければならないなら絶対に無理だけれど、大学独自の試験で科目数も少ないなら、なんとかなるかも。

 18歳19歳の受験生といっしょに一般入試を受けた。
 日本語学科定員45名のうち、おおよその内訳、日本人学生15名、留学生30名を募集するという発表だった。

 日本人の募集は15名だけ!少なすぎ!
 100人も受験生がいたら、もうアウトだな、と思っていたのだが、受験者数は、日本人だけで1200名いた。

 1次は英語国語数学、2次は英語国語日本史の筆記試験を受けた。
 第一期生は、留学生25名、日本人20名、合計45名が合格した。

 私は、運良く合格、あるいは奇跡で合格。35歳のママさん学生になった。

<つづく>
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2007年12月10日


ぽかぽか春庭「鈍行まなび歴」
2007/12/10
ぽかぽか春庭やちまた日記>こんばんは第三部私の学び歴(9)鈍行まなび歴

 入学金は父が「孫娘の初節句に」と送ってよこしたお金をあてた。狭い団地2DKには、父が望んだ段飾りではなく、小さな小さな男びなと女びなを飾っており、初節句祝い金は入学金に「流用」

 「でも、授業料かかるんじゃない?」と、姉や妹は心配したけれど、授業料は「免除願い」を出したら免除になった。奨学金で親子の食費分はなんとか確保できた。
 今はどうなのか知らないが、国立大学のいいところは、貧乏人の授業料は免除してくれること。
 給与を普通にもらっている人は対象外。我が家のように、全収入あわせても生活保護家庭より低所得、というような、今でいう「ワーキングプア」が対象者。

 授業料が免除になったほか、既卒者なので、英語と体育の授業といくつかの基礎科目が免除になったので、1,2年生の間、時間割はそれほどきつくなかった。

 私の入学式から10日後に、娘は満2歳の誕生日をむかえた。
 自宅から朝、8時に娘を保育園に連れて行く。お昼寝ふとんのシーツとりかえ、着替え補充、連絡帳提出など、朝の保育園はあわただしい。

 保育園の連絡帳は、今では私の宝物。卒園までの連絡帳には、毎日何をしたか、何を食べたか、全部書いてある。表の連絡記録には保母さんが園の生活を記入し、裏に、私が娘の家での様子を書き込んだ。

 育児日記を克明につけるママさんもいるだろうけれど、私の場合、保母さんとの交換日記のようにつける連絡帳がなかったら、子どもの成長記録をこれほど毎日は書かなかったろう。

 大学の授業のあいまに、ライター、校正アシスタント、出版社へのメッセンジャーなど、夫の仕事の下働きを続けた。
 夫は出版社の下請けで校正の仕事を自営、働けば働くほど赤字になる零細会社。

 4年間、日本語学と日本語教育学を学んだ。
 「アフリカ縦断旅行の夢を断たれたかわりに、アジアやアフリカで日本語を教える仕事につきたい、と思うようになったから大学にもう一度入ったんだよ」と、周囲の人には説明したけれど、実は、奨学金を生活費にあてることのほうが大きな目的だった。

 3度目の大学生活、3年生の冬、1988年に第1回日本語教育能力試験(日本語教師試験)に合格し、日本語教師の仕事をはじめた。

 夫が自営する零細会社の仕事も手伝いながら、なおかつ日本語教師として働きはじめたのは、夫の会社は、仕事をすればするほど借金が増えていく会社だったので、生活費は私自身で稼がなければならなかったから。

 しかし、大学4年生の秋、息子が生まれた。子どもが乳飲み子では、日本語教師の仕事が続けられない。非常勤講師は、子どもが熱を出したりしても、休むことができないからだ。

 保育園は元気な子どもは預かってくれるけれど、病気の子どもは受け付けてくれない。子どもを預けるのに一番頼れるはずだった母親はもう死んでいる。
 未熟児で生まれた息子は、いつ病気になるかわからず、仕事を続けることは無理だった。

 日本語教師の仕事は中断し、夫の会社の仕事をしつつ、大学院へ行くことにした。大学院で受けられる育英奨学金で生活費をまかなうためだった。

<つづく>
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2007年12月11日


ぽかぽか春庭「ビタースィートシルバー」
2007/12/11
ぽかぽか春庭やちまた日記>こんばんは第三部私の学び歴(10)ビタースイートシルバー

 大学院入試、「英語」「言語学」「日本語学」の1次筆記を無事に通り、2次の面接のときは、背中に生後2ヶ月の息子をおぶって行った。面接の間だけ夫がだっこしていてくれた。
 「大学院入試に赤ん坊をおんぶしてきた女」という伝説(?!)を、母校に残した!

 先日、母校の事務室で久しぶりに会った事務官、私を覚えていてくれた。
 「ああ、あの、おさわがせの、、、、」と思い出してくれたんじゃないかな。

 夫が子育てに協力したのは、後にも先にも、このときただ一度だけ。だっこ20分間のみ。あとは、おむつを一度たりとも替えたこともなく、家事をしたこともない。
 子どもの誕生日をいっしょに祝うことも、クリスマスも運動会も学芸会も、「締め切りが迫っているんだよ。これ仕上げないとお金もらえないんだ」のひとことで、すべて却下。

 娘も息子も、誕生日を父から祝ってもらったことがないし、運動会でリレーの選手になっても、学芸会で主役を演じても、父親に見てもらったことがない。

 娘は、友達の家で晩ご飯をよばれてショックを受けたと述懐したことがある。
 普通の家は、普段お父さんもいっしょにご飯を食べているのだと知って。

 それでも父を疎むことなく成長したのは、私が「お父さんもいっしょうけんめいに働いているんだから、仕方ないよね」と、フォローしたからだと、夫は思ってもみないだろう。自分では「フツーの父親」だと思っているのだ。どこがフツーやねん。

 息子が1歳になると、夫から「会社は倒産寸前だから、もう手伝わなくてもいい。自分と子どもの食い扶持は、これから先ひとりで稼いで子どもを養ってくれ」と言われたので、日本語教師の仕事を復活した。

 日本語教師として働きながら大学院をようよう修了した。
 35歳での外国語学部日本語学科入学から、大学院修了まで8年かかった。
 大学院の卒業式には、9歳になった娘が出席し、「保護者席」に座って母の門出を祝ってくれた。

 2007年秋、娘が言う。「私、今年年女。24歳になったよ。ってゆーことは、私が生まれる半年前に結婚式をあげたおふたりさんは、結婚25年目、銀婚じゃあないですか」
 すっかり忘れていたが、そういわれれば、25年たった。
 娘に言われて思い返してみれば、25年分のうらみつらみが去来する。

 娘は、「世間じゃ、結婚10年目にはスイートテンっていう指輪とか買ってあげるんだよ。25年目なんだから、ハハにスイートシルバーのなにか、買ってあげれば」と、父に言ってみたんだって。

 夫、「そんな余裕あるわけない、父さんは、もうすぐ倒産だあ」と、いつものセリフを返したのだと。
 25年間「父さんはもうすぐ倒産」につきあってきてしまった。ぐやじい、、、、
 「家族の生活費も出せない、儲からない会社」なんてものは、趣味かボランティアでしょうがっ!

 「会社経営」を「趣味」のように続けて、25年間「今月も赤字、来月は倒産」と言い続けてきた夫。
 家事育児いっさいせず、家族をあとまわしにして、都合がついたら家計費にまわすけれど、会社の決済をするのが優先、だった夫。
 13年前、私が中国へ出稼ぎに行って稼いだ給料も全部「会社の運転資金」につぎ込んだ夫。

 いろんなことをいっぱいいっぱい学んできたのに、私が学べなかったもの。金儲け術と夫操縦法。

<つづく>
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2007年12月12日


ぽかぽか春庭「地球の迷い方」
2007/12/12
ぽかぽか春庭やちまた日記>こんばんは第三部私の学び歴(11)地球の迷い方

 25年間、倒産せずにすんだのは、「生活費よこせ」と、ひとことも言わなかった内助の功が大きかったと、思っているのは私だけで、夫からは、「あんたが足引っ張るから、うまくいかないんだ」と、文句言われ続けた。
 だれが足引っ張るちゅうねん。横っつらでも張ってやりたいワっ。

 昔は、食い扶持もない生活に同情してくれた友人や妹から、今では、「あんたがダンナを甘やかしてきたからこうなった」と、私が責められている。

 たしかに、私が悪かった面もある。「生活費よこせ」と、夫に言えなかったのは、私自身が「自立した女でありたい」と、見栄を張っていたからだ。
 「夫に依存しながら、男女同権だのなんのってぬかすどこぞの勘違いマダムと同列になりたくない」「自分の食い扶持くらい、自分で稼ぐ」と、意地を張っていたのは私だ。
 見栄っぱり意地っ張りの結果として、自分の横っつらでも張っているしかないな。

 夫に尽くして一生貧乏、ショーモない人生やった、、、、
 しかも、尽くしたはずの夫からは「鬼嫁」と思われているのみ。
 私のことを「いい嫁だ」と言ってくれるのは、姑だけだ。

 夫は、深夜、幼い息子が眠ったあとに帰ってきた。息子が保育園に行ったあとに起きた。だから、息子は夫の起きている姿をみたことがなく、たまにいっしょにすごすことができると、仕事に出ていく夫にむかって「お父さん、また遊びに来てね」と、おくりだしたものだった。
  
 そんな「父親しらず」で育った息子もなんとか成長した。
 息子は、大学の授業のないときに、アルバイトとしてときどき夫の仕事を手伝うようになった。
 
 息子がしみじみと言う。
 「父はホントいい人生おくってるよね。家族のことほったらかしで自分の気に入った仕事だけして。上得意の発注者でも、担当者の態度が気に入らないとかって、取引やめちゃうし。でも、僕にはあんなマネできないよ、家族抱えていたら。家族がどんなに苦労するか、身をもって知っちゃってるからね」
 うん、息子も大人になってよくわかってきた。

 私が大学院修士課程を修了した1993年、山田洋二監督の『学校Ⅰ』が公開された。
 この当時、夜間中学校について具体的に知っている人は多くはなかった。夜間中学のことを多くの人に知ってもらうには、とてもいい映画だった。

 大学院を修了しても就職先もない私にとって、『学校Ⅰ』は、迷いながら行きつ戻りつしている私を励ましてくれる映画だった。
 働きながら子育てしながら大学院修了までよろよろと学び続けてきた私にとって、夜間中学で学び続ける生徒たちは仲間のように思えた。

 大学院修了して1年間は、通信教育日本語教師養成講座のスクーリング講師などをしてしのぎ、1994年、やっと仕事のチャンスがめぐってきた。
 「中国の大学で教える」仕事。母校の非常勤講師として採用された上で「文部省からの派遣講師」の肩書きがつく。ただし、条件は「単身赴任」

 「僕は子どもの世話なんかできるわけがない」と、夫がいうので、実家の父と妹夫婦に4歳の息子と10歳の娘を預けて赴任した。
 文部省から自宅の通帳に振り込まれた給料は、夫が会社の運転資金にあててしまい、帰国したら一円も残っていなかった。

 夫の会社の仕事のなかで、一番大きいシェアをしめるのは、海外個人旅行のガイド本『地球の歩き方』の校正だが、それに引っかけて言えば、私のは「地球の迷い方」になる。ナイロビで迷子になって以来の迷走人生だった。
 春庭の鈍行「人生の歩き方」こけつまろびつ迷いっぱなし。

<つづく>
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2007年12月13日


ぽかぽか春庭「夜の風」
2007/12/13
ぽかぽか春庭やちまた日記>こんばんは第三部私の学び歴(12)夜の風

 学びながら人生の旅を続けてきた。鈍行列車の人生旅。
 鈍才の鈍くさい鈍行列車。
 鈍行列車の人生旅は、超特急や急行でさっさと先に進む旅とは違う。
 寄り道をしたり、行きつ戻りつ、各駅停車でのろのろすすみ、ときには車両故障で長期停車。

 「学歴」という語は好きではない。
 「学歴」ということばが使われるとき、どの学校を卒業したか、ということだけに注目があつまり、何をどのように学んだか、については、どうでもいいようなことになっている。
 私は「学び歴」という用語を使いたい。

 私の学び歴。
 女子医科大学内科検査室で働きつつ検査士の資格をとったこと、職業訓練専修校で英文タイプを習ったこと、ナイロビの「ボーマス・オブ・ケニア」でアフリカンダンスを教わったこと、ひとつひとつが私の「学び歴」

 私は、今まで学んできたこと全部が好き。学びたいから学んできたのだ。
 たいしたことのない人生だったとしても、悔やむことはない。「学ぶ喜び」を感じてきた心は残る。
 鈍行は鈍行なりに前向きの心で歩いていけばいいのだ。

 『こんばんは』上映会の夜、
 私が教室に入ったときは、パラパラしか観客が座っていなかったので、「新聞に上映についての記事が載っていたのに、見に来ている人、案外少ないな」と思って待っていたが、上映時間が近づくと、立ち見も出る盛況となった。

 『こんばんは』は、迷いつつ悩みつつ教師を続ける私を、力づけてくれた。
 私はダメ教師で、とても見城先生のようなすばらしい教育者になることはできそうにないが、悩みは多いけれど、もうちょっとこの仕事を続けていこう。

 上映会と監督講演会が終わると、午後10時ちかくになっていた。
 秋の夜、ちょうど夜間中学の授業が終わりになるころの時間であった。

 文学部スロープをおり、地下鉄の駅へむかう私の髪を、秋の夜風がゆっくりとゆすった。
 「こんばんは」、、、、だれにともなくつぶやいてみる。
 「こんばんは」

<こんばんはシリーズおわり
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