春庭やちまた日記>はじめの一歩
(1)一陽来復苦尽甘来
(2)粒々辛苦疲労困憊
(3)苦心惨憺有為転変
(4)暗中模索気息奄々
(5)七転八倒青息吐息
(6)孤軍奮闘隠忍自重
(7)悪戦苦闘阿鼻叫喚
(8)家内安全捲土重来
(9)四海兄弟心機一転
(10)獅子奮迅縦横無尽
=====
2008/11/12
ぽかぽか春庭やちまた日記>はじめの一歩(1)来復苦尽甘来
母親にとって、子どもの誕生日が近づくとしみじみしてきます。
子どもの成長を年ごとに喜び、なによりもその年まで育ってくれたことがありがたくて、誕生日の前後の日々は、どこのだれよりも感慨深い、慈母でいられます。
ましてや、20歳まで育ってくれたとなると、ああ、親業もこれで卒業、もう子どもは立派に成人し、ひとりで生きていくこともできると、しみじみし、これまで子どもの成長に関わってくれたすべての人に感謝したい気持ちでいっぱいになります。
1988年、前置胎盤妊娠、出産時の出血多量により母子ともに死ぬかも知れないといわれました。
予定日より2ヶ月前に破水してしまい、救急車で入院。絶対安静の入院中も、日に日に母胎が衰弱し、「もう母胎がもたない」と、緊急手術が行われました。
大量出血大手術の末に、高齢の母親から仮死状態で生まれた息子。
普通の帝王切開では、下半身の局部麻酔だけで、全身麻酔をしないと聞くのに、私の場合は全身麻酔をかけました。
医師の判断では「子どもはもう助からないだろうから、母親だけでも助けなければ」ということだったのだろうと思います。
赤ん坊は死んでしまっているだろうという判断だったのでしょうが、幸いにも仮死状態で出生し、かろうじて命をとりとめました。
40日早産の未熟児。
母親の私が「子どもは助かったんですか、生きているんですか」と、必死にたずねても、看護婦さんは「そうですね、今はお母さんが元気にならないと、、、、」と、ことばを濁し、子どもの安否は教えてもらえませんでした。命がつながるかどうか、医師にもまだ予測がつかなかったのでしょう。
出産後3日たって、ようやく保育器を見に行くことを許されました。赤ちゃんは、たくさんの管につながれていましたが、生きていました。保育器の中で、いっしょうけんめい生きようとしていました。
息子は、1ヶ月新生児室に入院していました。肝臓がはれて黄疸がでたり、危ない時期もありましたが、命つながっただけでありがたい。
2500g以下の低体重児ではありましたが、2400gあったので、なんとか命保つことができました。
保育器のなかで、声もあげられずにいたちいちゃな赤ん坊が、立派に20歳を迎えるのですから、母にとって、これ以上のプレゼントはありません。
ありがとう、生まれてくれて。ありがとう、生きていてくれて。
<つづく>
2008/11/13
ぽかぽか春庭やちまた日記>はじめの一歩(2)粒々辛苦疲労困憊
高校1年生のとき、息子が「もう高校に行かない」と言ったときも、「うん、自分で決めたならそれでいい」と、言うことができました。
センター試験を受けたあと、2つの大学から合格通知がきたけれど、「大学に行く気になるかどうかわからない」と、息子が言いました。
母は、「自分の人生なんだから自分で決めなさい」と答えました。
いつも「命さえあればよい」という気持ちがあったから。
娘と息子に「お母さんの人生にとって、ふたりが生まれたことが最高の幸せ。ふたりは最高の宝物」と、言ったりすると、たちまち「ほら、そういう押しつけがましい母親の感慨ってやつが、子供にとっては重荷なんだよ」
「宝物と思うなら、もっと貴重品として扱ってほしいよ。小遣いもっとくれ」などと返ってくるだけですから、そんなことは面と向かってはいいませんけれど、親にとって、子供がなによりの宝物であることは、どの親にとっても言うまでもないこと。
私と息子の20年。ほんとうによくぞここまでたどり着いた。
5歳の息子を妹に預けて、中国に単身赴任で働きに出かけたときも、息子が高校中退し、これからどうなっていくのか、悩みになやんだときも、保育器にいて、生きるか死ぬかの戦いを生き抜いてきたあのころを思い返していました。
息子の保育器のとなりには、900gという超低体重で生まれ、1年間も保育器に入院している赤ちゃんがいました。お母さんは、1年たって、ようやく体重が2000gを越えたと、涙していました。
保育器のなかで必死に生きようとしている赤ちゃんたちを見ていると、大人なんだから、どんなつらいことにも堪えていかなければ、この赤ちゃんたちに申し訳ない、と思えました。
小さな保育器のなかで、賢明に生きようと呼吸をしていたときの、ちっちゃな手と足。
肝臓が悪いと聞かされ、黄疸で黄色くなっていた胸や顔。鼻に酸素と栄養液のチューブをはめられていた。
胸の母乳をしぼる。夫や妹に病院保育室へ届けてもらい、赤ちゃんのようすを見てもらう。体重が増えたと、聞かされたときのうれしさ。
未熟児保育室から退院してきたあとは、毎日11時ごろになると裸にして日光にあて、マッサージをしました。
現在では、赤ちゃんマッサージが良いと言われ、ママさん教室などで講習会が開かれているのですが、私は、そんなことは全く知らず、ただ、日光浴がいいと信じてやっていたのです。
これが息子の成長にはよかったのだと思っています。
お日様にあてること、母の手のぬくもりでなでてやること。
息子が生まれて、日本語教師の仕事にすぐに復帰できる見込みがなくなりました。しかし、食べていかなければならない。
大学院の入試を受けました。入学できれば、奨学金が借りられる。
奨学金で親子して食べていく算段をしました。
夫の会社は相変わらず赤字つづきです。
<つづく>
2008/11/14
ぽかぽか春庭やちまた日記>はじめの一歩(3)苦心惨憺有為転変
まだ首がすわらない息子をおんぶして、母校の大学院2次試験の面接を受けました。
「試験に赤ちゃん背負ってきた人、初めて見た」と、言われましたが、無事合格。育英奨学金受領ができました。いまだに奨学金の返済をつづけています。
夫の仕事を手伝いつつ、大学院での勉学を続け、息子が1歳になって日本語教師の仕事も再開しました。夫に「もう、会社は倒産しそうだから、働きに出てくれ」と言われたので。
大学院を修了しても、就職先はみつからず、1年後にやっとみつけた仕事は、「中国での単身赴任、子連れ不可」
10歳の娘と5歳の息子を妹夫婦に託し、出稼ぎにいきました。
幼いむすこを残していくのはつらかったけれど、働かなければ食べていけず、やっと得られた中国での仕事。
毎晩こどもを思ってすごしました。
半年後の夏休みに、娘と息子いっしょに中国ですごしたのち、帰国。
息子が小学校1年生になったとき、週1回、非常勤講師として大学で教えはじめ、2年生のときは週2回、3年生は週3回、だんだん増やしていきました。
息子が4年生のとき、娘は中2の秋から中3の卒業まで不登校を続けていたので、私は娘のことばかり気がかりで、あまり息子を見てやれず、かわいそうなことをしてしまいました。
(娘の成長については、2006年3/22~3/30のカフェ日記「日々雑記いろいろあらーな」に書きました。)
息子はこのころ、「ボーイスカウトにはいって、キャンプをしてみたい」と、言ったのに、経済的にも精神的にも、息子の希望を叶えてやることができませんでした。
息子が5年生になると、私の大学での授業は週5回。
娘が高校に入学し、ようやく息子に気持ちを向けてやれるようになりました。
息子の学校の学童保育は小学校3年生まででした。4年生のときは、娘が毎日家にいたので、学童保育は必要ありませんでしたが、娘が高校進学した後は、放課後、私の帰宅までの居場所が必要になりました。
5年生になると、学童クラブがわりに、習い事の塾へ通うようになりました。
「つかこうへい劇団児童教室」に週1回通って、演劇やダンスの練習。スイミングスクールに週2回、お習字は、娘の同級生のお母さんに見てもらって週1回、学習塾へ1回。
私の帰宅が遅いし、娘は高校の生徒会活動などで帰りが遅いため、学童保育がわりに、塾に預けたのでした。
5年生6年生のつかこうへい児童演劇教室で主役を演じたときのビデオは、私の宝物です。
小学校5年生2学期になると、塾の先生から中学入試を勧められるようになりました。
息子が学童保育がわりに通った塾は、大手進学塾と提携しており、模擬試験を受ける機会があります。息子の偏差値が高かったので、塾の先生から「ぜひ、受験してみてください」と、進められるようになりました。
<つづく>
2008/11/15
ぽかぽか春庭やちまた日記>はじめの一歩(4)暗中模索気息奄々
偏差値が70を越すと、先生の「受験のおすすめ」もいっそう熱がはいるようになりました。息子もだんだんその気になり、自営業赤字社長の夫も「学費がかからないところなら受験してもよい」と、言うようになりました。
国立大学付属校を受験することになり、息子は第一希望の中高一貫男子校に合格しました。
毎年、高校の卒業生4クラス160人のうち、100人近くが東大へ進学するというスーパーサイエンススクール。高校数学オリンピック、科学オリンピックなどの常連出場校です。
息子は中学校の3年間、毎年、文化祭では演劇班役者として出演し、水泳部では中学校水泳部区大会でメドレーリレーチームの第二泳者として出場し優勝しました。
江東区辰巳プールでの都大会にも出場しました。
保育器育ちで身体があまり丈夫でなかった息子、躰が丈夫になるように願ってスイミングスクール通いをさせたのですが、「スクールのお客さん」として泳ぐのと、学校の部活でしごかれながら泳ぐのでは疲れ具合も違っていました。
地下鉄で2線乗り換えてラッシュアワー40分の通学が苦痛だと、中学校時代から言っていましたが、なんとか義務教育の間は休み休みでも通学しました。
鉄緑会(中高6年一貫校の生徒を対象とした、東京大学受験指導専門塾)などの塾へ通う子が大半なのに、息子は塾へは行かず、勉強面ではしんどい思いをしたし、もともと引っ込み思案の子でした。
小学校の時、つかこうへい児童演劇教室に入ったのも、「声がだせない子も大きな声で話せるようになるし、引っ込み思案の子が舞台にたてるようになる。役者養成の教室ではなく、積極的な心を育てる教室」というふれこみの教室だったからなのです。
しかし、息子、舞台では「違う自分」になって大きな声がだせても、ふだんの人間関係をこなすのが苦手なのは、相変わらず。
姉と妹と、私の娘は、だれとでもうまくつきあえて、世話好きなところが亡き母とそっくり。一方、伯母と私と息子は、人間関係をうまくこなせないことで、つらい思いをするところが遺伝しています。伯母は、幼い頃、学校の中では一言も口をきかない緘黙児でした。家族とは普通に話せるのに。
私も、文章ではいくらでもおしゃべりができるのに、顔を合わせて話すのは、実は苦手で、人と会うときものすごく緊張するし、エネルギーを使い果たします。人が集まるところでは、無理矢理ハイテンションでしゃべるので、「いつも元気ね」といわれます。
授業は「先生という役を演じる舞台」で、別人格と思っていますが、学生からは「いつもハイテンションで元気いっぱいな先生」と、言われます。
2003年07月19日の日記に、
『学校からは「親がそんな甘い態度でいると、あとで泣くことになる」と言われてしまうのだろうが、東大だけを目標とするのでなければ、なんとかなると思ってしまうこの甘さ。あとで、泣くことになるのだろう。きっと」
と、書いてありますが、息子の勉強をほったらかしにしていて、ほんとに泣くことになりました。
息子の中学校3年生の中間試験問題について、以下のページに書いてあります。(2003/07/19)
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/0307b7mi.htm
中学校の成績で苦しみ、通勤ラッシュで苦しんだけれど、息子は2004年に高校に入学しました。高校入学といっても、中学からの内部進学エスカレーター組です。3クラス120人から、高校は4クラス160人になってのスタートです。
<つづく>
2008/11/17
ぽかぽか春庭やちまた日記>はじめの一歩(5)七転八倒青息吐息
2004年、高校1年の秋。「文化祭の劇にいっしょに出演する」というクラスメートとの約束をはたしたあと、文化祭の翌日から通学しなくなりました。
学校へは行かないのに、高校演劇部の「演劇大会」へは、遠くの会場までわざわざ見に行きました。
演劇好きな友達と仲良く話しているのを演劇部の先生が見ていて、「あんなに明るく話せていて友達もいるのに、なぜ不登校なのかわからない」と、話していたと担任の先生との面談で言われました。私にもなぜ学校に行かないのかわからなかった。
ただ、「もう、限界」という、息子のことばを聞き、私も学校に行きたくなかった高校生だったことを思い出して、息子が「高校行かない」というのを尊重しました。
私は高校へは自転車通学だったので、朝お弁当を持って家を出て、サイクリングして帰宅していました。成績はトップからビリに落ちましたが、なんとか卒業はしました。
息子の不登校を認めたのは、学校以外の学びを信じていたから。
娘は高校のとき、「万が一また学校に行けなくなったときの保険」として、高校1年のとき「大検」を受けました。単位制高校だったので、受験が出来たからです。
数学をのぞいて、他の科目は合格しました。数学は、積み上げ科目なので、中学不登校で中1の数学しかわからなかったので、合格できなかったのです。
それから推測して、一応中学3年生まで学校に通った息子なら、必ず「高校卒業資格認定試験」に、全科目合格するだろうと言う予測がありました。息子の中学校の数学は、大学教養科目レベルの範囲をやっていましたから。
2005年、16歳の夏に、文科省の「高認試験(高等学校卒業資格認定試験)」を受験して全科目合格し、2006年3月に高校を退学しました。2006年4月、同級生たちは高校3年生に進級しました。
以前の大検(大学入学資格検定試験)は、全日制高校在学中は受験できなかったのですが、高認試験は、全日制在学中でも受験できます。このことは、一般には知られていないので、宣伝しておきます。
また、大検合格は、高校卒業資格認定ではなかったので、大学に入学しない限りは、学歴欄は中卒扱いですが、「高認」は高卒扱いとなります。高卒が出願条件の資格試験なども「高認」は「高卒」と同等です。
ただし、15歳で高卒資格を得ても、16歳で合格しても、大学受験は18歳をすぎるまでできません。
息子は、16歳で高認試験に合格したあと、18歳まで、ずっと家の中ですごしました。
頼まれると夫の事務所に手伝いには出かけていく。あとは、ゲームソフトを仕入れに自転車でゲーム屋を回るだけが息子の「外出」です。
毎日ゲーム。
テレビを見る。ゲームをする。攻略本を読む。またテレビ、ゲーム、攻略本。
<つづく>
2008/11/18
ぽかぽか春庭やちまた日記>はじめの一歩(7)悪戦苦闘阿鼻叫喚
私にできることは、「見守る」だけでした。
もっとも、息子に言わせると「見守るだけじゃなかっただろ、ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ、うるさかった」
今思えば、息子をカウンセラーのところに通わせて、カウンセリングを受けさせたりしたのも、「息子のために何もしていないのでは不安になる」という、私自身の心の安定のためのカウンセリングだったような気もします。
息子にしてみれば、「カウンセリングなんか受けたくないけれど、受けないと母が不安がるから」という理由で通っていただけで、息子にとっての効果は何もなかった。
息子が歴史好きになったのは、小学校のころから『信長の野望』『太閤伝』などのゲームにハマったたからですが、「毎日が日曜日」の息子が、ゲームのほか家ですることは、歴史関連の本を読むことぐらい。
古本屋へ行くと、息子が好きな歴史関連の本を探して、「読んでも読まなくてもいいから」と、渡しました。
歴史の本といっても戦国ゲームに関わる戦国史や織豊政権の本ばかり。
新聞を毎日、朝夕刊読むことが娯楽のひとつになっているので、読解力があることはわかっていました。
大学レベルの専門書でも、歴史書は、自分の好きな分野だから、読みこなして楽しんでいました。
息子、16歳で高校卒業資格認定試験に一発合格したといっても、毎日ハハは不安でした。
これからどうしたいのか、さっぱり息子の気持ちもわからず、はがゆいばかりです。
「何か目標があって、やりたいことがあるなら、大学に行かないのもいいけれど、まだやりたいことが、見つからないなら、とりあえず大学へ行く方がいい」という母親のアドバイスも、息子には「うざったい」だけ。
それでも、センター試験だけは受験する気になりました。
センター試験を受験するからと言って、問題集や参考書の一冊も目にしていません。ずっと昼夜逆転でゲームを続けていました。試験前日の夜まで。
2006年の秋にセンター試験願書を出してから「ちょっとは勉強してみたら」というひとことを言わずにがまんして2007年1月になりました。
ひとことでも「勉強したらどうなの」と言ったら、「それじゃ受験やーめた」と、なったでしょう。
問題集などはまったくやっていませんが、国語と歴史は大丈夫。実質中卒の息子ですが、大学レベルの実力はあるはず。
模擬テストを受けさせなくとも、息子の日本語力と、歴史知識が豊富なことはわかりました。
また、「たとえ、大学に合格できなくても、これだけの国語力があれば、少なくとも夫の事務所で校正の仕事をつづけることができるだろう」と思えました。
その点では、たとえ赤字会社であっても、息子に働く場を与えてやれる夫に感謝感謝でした。
また、学校に通わなくても成長できるし、いくらでも生きていく方法がある、ということを確信できたのは、妹が関わっているNPO法人の「不登校生徒のためのフリースペース」の活動をみてきたおかげ。妹にも感謝。
悪戦苦闘の毎日、心の中は阿鼻叫喚でしたが、表面に出さずにすんだのは、周囲のおかげ。
<つづく>
2008/11/19
ぽかぽか春庭やちまた日記>はじめの一歩(6)孤軍奮闘隠忍自重
息子は、2007年1月に、大学入試センター試験を受けました。
「大学に行く気になるかどうかわからない」と、受験をしぶる息子に「センター試験だけは受けてみたら」と、ハハのアドバイス。
「でも、合格したらハハは、せっかく受かったんだから大学へ行けって言い出すでしょ」
「あらま、合格する気があるんかい、あんた」という言葉は胸に押し込めて、「ぜったいに、無理矢理行けとは言わない。行く気になったら行けばいいし、行く気にならなかったら行かなくてもいい」という約束で受験。
センター試験受験といっても、大学合格の可能性なんて、まったくありませんでした。 なにしろゲームおたくの引きこもりでしたから。
それでも息子は、センター試験のみで合否を決定できる大学へ願書を出す気になりました。
息子が希望したのは次の3つの条件を満たしている大学。
(1)センター試験だけで合否判断してくれる大学。2次試験がある国立は受験しない
(2)歴史を学ぶことのできる学科があること
(3)できるだけ自宅から近いこと。
受験勉強はまったくしていないけれど、息子には実力がある、そう信じて、ハハはただ息子の幸運を祈って、試験会場に送り出しました。
センター試験は、夫の事務所に近い大学が会場でした。事務所へいくときいつも乗り降りしている地下鉄駅から徒歩5分の会場。そんな安心感も息子にとっては、よい方向へ気持ちが向いたのでしょう。
センター試験のみで合否判定をしてくれる東京23区内の大学のうち、歴史学科のあるところに願書を送り、ふたつの私立大学から合格通知を受けることができました。
ひとつは夫の出身校の大学。もうひとつは、我が家から自転車15分の大学。どちらも古い学校で、独自の伝統ある校風です。
合格した大学、歴史が学べるという点では、ふたつとも息子の希望に合っていましたが、私としては夫の出身校を勧めました。
夫から、履修登録とかいろいろな面でアドバイスがあったほうが安心できると思ったのです。しかし、息子は「家から近い」ことを優先しました。
夫の出身校は、夫の実家からは徒歩30分。
夫にとって「家から徒歩で通える範囲の大学にいく」という方針に合っていました。でも、現在の自宅から通うには、地下鉄で40分くらいかかります。
夫としては、自分の出身校を選んでほしいようなようすでしたが、息子は、夫の昔の方針通り「我が家から近い方」を選びました。
我が家から自転車で15分、歩いても通えない距離ではありません。
しかし、入学金納入後も、息子は「大学、行く気になるかどうか、わからない」と言っていました。
<つづく>
2008/11/20
ぽかぽか春庭やちまた日記>はじめの一歩(7)家内安全捲土重来
2007年3月から8月まで、私は、再び中国の大学で仕事をすることになりました。
ハハのいない家で、入学するのやらする気がないのやらわからないまま、私は2007年3月に中国へ赴任してしまいました。
母親があれこれ言わないほうがよい結果がでると信じて。
4月、娘が「当日あわててネクタイを買いに行ったり、たいへんだったけど」とのメッセージつきで「大学入学式」の立て看板の横に立つ息子の姿をケータイで写し、中国にいる私にメールを送ってくれました。うれしかったです。
「あれま、入学する気になったんかい、やれやれ、、、、」です。
入学した4月からの大学生活について、息子は「最初は基礎的なことばかりだったけれど、歴史の勉強は楽しい」と、言い、大学生活になじんできたようでした。
私が中国赴任の間、4月から7月まで息子が大学に休まず通ったというのも、小うるさい母親がいなくなって、「自分の意志で寝起きせねば」と思えばこそだったでしょうから、ここでひとこと余計なこと言うと、この年頃の男の子、反発するだけでしょう。
自分一人で動けて、エネルギーも「地球にやさしい」自転車が好きなところはハハと同じですが、バスや電車にただ乗っているだけの旅が好きなハハとは似ていません。
大学へは、雨の日を除いて、自転車通学を続けています。
高校は中途リタイアだったけれど、大学は好きな科目を選んで、なんとか楽しく学んでいってほしいと願うばかり。
大学2年生になって、専門科目もふえ、歴史の勉強もどんどん深まっています。息子は、日本史を専攻し、学芸員資格取得の科目も単位をとっています。
交通安全学業成就健康長寿天下太平。ハハは、ひそかに祈り、息子の自転車通学を応援しています。
息子は、2年生の大学生活も相変わらずマイペースで「したくないことはしない」という方針です。順調に単位はとれているので、卒業もできるとは思いますが。さあ、その先は何がしたいのやら。
息子の元クラスメートたち、やはり160人の同級生のうち半分は東大へ。卒業後のクラス会も「駒場」でやっているそうです。息子も中学卒業生として一応同窓会名簿には名前があるのですが、「駒場で毎日顔あわせているヤツラ、駒場で同窓会やって、どうすんだよ」と言って、我が道を進んでいます。超スローマイペースな息子ですが、一歩一歩、少しずつ。
はじめの一歩。
あなたが歩き始めて、最初の一歩を踏み出したころを思い出します。よちよちところびながらも、保育園へ迎えに行った私の胸の中へ、歩いてきてくれました。
これまでの20年間が、母にとっては、何千万歩の距離のようにも思えますし、同時にほんの一歩だったようにも思えます。
おめでとう、11月19日、20歳の誕生日。
ありがとう、生まれてきてくれて。
20歳、はじめの一歩。
これからの大人の一歩を力強く自分の足で踏みしめていけますように。
<つづく>
2007/11/20
ぽかぽか春庭やちまた日記>はじめの一歩(8)番外編・悩みは皆おなじ
以上、不登校・高校中退だった息子が今は大学2年生、というお話でした。
まだまだ、たよりない足取りではありますが、あとは、息子自身が自分の人生を歩いていくことでしょう。
「バイトする気は?」と、息子に話しかけてみても、
「父の事務所の仕事がいつ入るかわからないから、よそには行けない」
息子は、夫の会社の人手が足りないときの助っ人要員。校正の仕事を、高校入学後からやらされている。
一般の若者に比べて、語彙、漢字と歴史や雑学には強くて、「やたらな校正者に依頼するより、息子のほうが確実に誤記誤字を拾うよ」と、夫も言っているのですが、母親としては「赤字会社の夫のところで働くより、もっとお小遣いが稼げそうな所へ行ってもいいのに」と、思うのですが。
「旅行でも行って来たら」と、すすめても、「出無精だし、乗り物に乗りたくない」
大の乗り物嫌い。休まず大学に通えたのも、自転車通学だからだ、というのです。
相変わらず、人とつきあうことは苦手。
でも、息子は息子なりに成長してきたのだと、思います。
もし、今現在、お子さんが不登校で不安を抱えている人がいたら、いつでもお話をうかがいます。メールでも掲示板でもどうぞ。
一番肝心なことは、「ある時期学校へ行けないことがあっても、子どもは何らかの方法で成長できるし、あせることはひとつもない」ということ。
こどもの成長は、学校という場でなくても、いつでもどこでもできるから、親が子どもの可能性を否定してしまわないこと、それが一番大切だと思います。
文部科学省は、義務教育不登校生徒12万人の時代に、ようやく教育方針の転換を発表しました。
「子の養育者は、子どもを学校に通わせる義務を負う」であった「義務教育」制度から、「子どもが教育を受ける権利」という「子の教育権・成長権を守る」という方向への転換です。
学校へ行かなければならない、という強迫観念を脱して、「子どもがその子なりに学び、成長していく権利」を大切にしていく方向への変換。
フリースクールでも、通信教育でも、どんな方法でも子が成長できればいいのです。
アメリカでは数百万人が行っている「ホームスクール(家で親が学習指導を行うことを正規の教育を受けたと認める方法)」を、日本でも認められるようにしたい、という運動も起きてきました。
とは言っても、子どもが不登校の渦中にあるとき、親は、自分を責めたり子育て方法が間違っていたのかと悩んだり。
皆、おなじです。私も娘が中学校で不登校になり、息子が高校で不登校になり、ずいぶん自分を責め、悩み続けました。
<つづく>
2007/11/20
ぽかぽか春庭やちまた日記>はじめの一歩(9)番外編・愚痴こぼし合い
娘が大学を卒業し、息子も大学2年生の今から見ると、不登校の最中の悩みがよく見えます。
悩んでいる方、親が気持ちをはき出す場があって、子どもの問題を話せると、それだけでも違います。
私にとって救いになったのは、近所に東京シューレがあったことです。
子どもはふたりとも「フリースクールもイヤ」と、行きたがらなかったけれど、私は東京シューレ主宰の講演会によく出かけていきました。
椎名誠は息子の岳、久田恵は息子の稲泉連が「学校教育に頼らない成長の方法」を選んだことを話し、羽仁未央も、自らの「小学校を中退して以来、学校へは行かずに大人になった」ことを話しました。
さまざまな成長の方法があることを知るのも、不登校の子どもや親にとって、心を安定させる方法です。
成長の方法は、何によっても大丈夫。たぶん、私の息子は、「ゲーム」によって成長したのだろうと思います。
平田オリザのように、「ひとりで自転車にのってユーラシア大陸横断」という成長の過程を選ぶ子がいてもいいし、ひとりで引きこもってゲーム三昧だっていい。
子が生きる方法をつかみさえすれば、親は子を見守っているだけでよい。
大切なことは、親が子の可能性を否定してしまわないこと。子の生き抜く可能性を信じること。それさえできるなら、何も不安がることはありません。
私がよく聞くのは「親が作家だったり映画監督だったり、特殊な家庭ならわかるけれど、うちみたいな平凡な家庭で、子ども親も平凡な能力しか持ってないのに、学校行かなかったら、どうなるのやら」という悩み。
多くの「不登校生の親」は、「子どもがかわいい」と言いながら、「世間様に名を出して恥ずかしくない学校へ行ってほしかった」とか「親戚の手前、学校に行ってないとは言えない」というのです。結局のところ、子の人生より親の体面を優先してしまう。これじゃ、子どもは救われません。
親の能力なんて関係ないんです。親に必要なのは、子どもを心から愛し、その存在をありのままに認め、好きな人生を選ぶ自由を認めること。ところが、自分に能力があると思っている親ほど、子どもにも期待をかけてしまう。期待通りにいかないと落ち込んでしまうのです。
娘は中学校の1年半、学校へ行かず、息子は高校1年秋から学校へ行かず、渦中にあるときは、つらい思いもしました。落ち込みもしました。
でもね。人生たった3万日。親も子も、もっと気楽に楽しくすごしましょうよ。
きっと未来は開けます。
これまでに、地球に夜明けがこなかったことはなかった。
北極に3ヶ月夜が続いても、必ず夜明けはありました。
明日を信じましょう。
<おわり>
(1)一陽来復苦尽甘来
(2)粒々辛苦疲労困憊
(3)苦心惨憺有為転変
(4)暗中模索気息奄々
(5)七転八倒青息吐息
(6)孤軍奮闘隠忍自重
(7)悪戦苦闘阿鼻叫喚
(8)家内安全捲土重来
(9)四海兄弟心機一転
(10)獅子奮迅縦横無尽
=====
2008/11/12
ぽかぽか春庭やちまた日記>はじめの一歩(1)来復苦尽甘来
母親にとって、子どもの誕生日が近づくとしみじみしてきます。
子どもの成長を年ごとに喜び、なによりもその年まで育ってくれたことがありがたくて、誕生日の前後の日々は、どこのだれよりも感慨深い、慈母でいられます。
ましてや、20歳まで育ってくれたとなると、ああ、親業もこれで卒業、もう子どもは立派に成人し、ひとりで生きていくこともできると、しみじみし、これまで子どもの成長に関わってくれたすべての人に感謝したい気持ちでいっぱいになります。
1988年、前置胎盤妊娠、出産時の出血多量により母子ともに死ぬかも知れないといわれました。
予定日より2ヶ月前に破水してしまい、救急車で入院。絶対安静の入院中も、日に日に母胎が衰弱し、「もう母胎がもたない」と、緊急手術が行われました。
大量出血大手術の末に、高齢の母親から仮死状態で生まれた息子。
普通の帝王切開では、下半身の局部麻酔だけで、全身麻酔をしないと聞くのに、私の場合は全身麻酔をかけました。
医師の判断では「子どもはもう助からないだろうから、母親だけでも助けなければ」ということだったのだろうと思います。
赤ん坊は死んでしまっているだろうという判断だったのでしょうが、幸いにも仮死状態で出生し、かろうじて命をとりとめました。
40日早産の未熟児。
母親の私が「子どもは助かったんですか、生きているんですか」と、必死にたずねても、看護婦さんは「そうですね、今はお母さんが元気にならないと、、、、」と、ことばを濁し、子どもの安否は教えてもらえませんでした。命がつながるかどうか、医師にもまだ予測がつかなかったのでしょう。
出産後3日たって、ようやく保育器を見に行くことを許されました。赤ちゃんは、たくさんの管につながれていましたが、生きていました。保育器の中で、いっしょうけんめい生きようとしていました。
息子は、1ヶ月新生児室に入院していました。肝臓がはれて黄疸がでたり、危ない時期もありましたが、命つながっただけでありがたい。
2500g以下の低体重児ではありましたが、2400gあったので、なんとか命保つことができました。
保育器のなかで、声もあげられずにいたちいちゃな赤ん坊が、立派に20歳を迎えるのですから、母にとって、これ以上のプレゼントはありません。
ありがとう、生まれてくれて。ありがとう、生きていてくれて。
<つづく>
2008/11/13
ぽかぽか春庭やちまた日記>はじめの一歩(2)粒々辛苦疲労困憊
高校1年生のとき、息子が「もう高校に行かない」と言ったときも、「うん、自分で決めたならそれでいい」と、言うことができました。
センター試験を受けたあと、2つの大学から合格通知がきたけれど、「大学に行く気になるかどうかわからない」と、息子が言いました。
母は、「自分の人生なんだから自分で決めなさい」と答えました。
いつも「命さえあればよい」という気持ちがあったから。
娘と息子に「お母さんの人生にとって、ふたりが生まれたことが最高の幸せ。ふたりは最高の宝物」と、言ったりすると、たちまち「ほら、そういう押しつけがましい母親の感慨ってやつが、子供にとっては重荷なんだよ」
「宝物と思うなら、もっと貴重品として扱ってほしいよ。小遣いもっとくれ」などと返ってくるだけですから、そんなことは面と向かってはいいませんけれど、親にとって、子供がなによりの宝物であることは、どの親にとっても言うまでもないこと。
私と息子の20年。ほんとうによくぞここまでたどり着いた。
5歳の息子を妹に預けて、中国に単身赴任で働きに出かけたときも、息子が高校中退し、これからどうなっていくのか、悩みになやんだときも、保育器にいて、生きるか死ぬかの戦いを生き抜いてきたあのころを思い返していました。
息子の保育器のとなりには、900gという超低体重で生まれ、1年間も保育器に入院している赤ちゃんがいました。お母さんは、1年たって、ようやく体重が2000gを越えたと、涙していました。
保育器のなかで必死に生きようとしている赤ちゃんたちを見ていると、大人なんだから、どんなつらいことにも堪えていかなければ、この赤ちゃんたちに申し訳ない、と思えました。
小さな保育器のなかで、賢明に生きようと呼吸をしていたときの、ちっちゃな手と足。
肝臓が悪いと聞かされ、黄疸で黄色くなっていた胸や顔。鼻に酸素と栄養液のチューブをはめられていた。
胸の母乳をしぼる。夫や妹に病院保育室へ届けてもらい、赤ちゃんのようすを見てもらう。体重が増えたと、聞かされたときのうれしさ。
未熟児保育室から退院してきたあとは、毎日11時ごろになると裸にして日光にあて、マッサージをしました。
現在では、赤ちゃんマッサージが良いと言われ、ママさん教室などで講習会が開かれているのですが、私は、そんなことは全く知らず、ただ、日光浴がいいと信じてやっていたのです。
これが息子の成長にはよかったのだと思っています。
お日様にあてること、母の手のぬくもりでなでてやること。
息子が生まれて、日本語教師の仕事にすぐに復帰できる見込みがなくなりました。しかし、食べていかなければならない。
大学院の入試を受けました。入学できれば、奨学金が借りられる。
奨学金で親子して食べていく算段をしました。
夫の会社は相変わらず赤字つづきです。
<つづく>
2008/11/14
ぽかぽか春庭やちまた日記>はじめの一歩(3)苦心惨憺有為転変
まだ首がすわらない息子をおんぶして、母校の大学院2次試験の面接を受けました。
「試験に赤ちゃん背負ってきた人、初めて見た」と、言われましたが、無事合格。育英奨学金受領ができました。いまだに奨学金の返済をつづけています。
夫の仕事を手伝いつつ、大学院での勉学を続け、息子が1歳になって日本語教師の仕事も再開しました。夫に「もう、会社は倒産しそうだから、働きに出てくれ」と言われたので。
大学院を修了しても、就職先はみつからず、1年後にやっとみつけた仕事は、「中国での単身赴任、子連れ不可」
10歳の娘と5歳の息子を妹夫婦に託し、出稼ぎにいきました。
幼いむすこを残していくのはつらかったけれど、働かなければ食べていけず、やっと得られた中国での仕事。
毎晩こどもを思ってすごしました。
半年後の夏休みに、娘と息子いっしょに中国ですごしたのち、帰国。
息子が小学校1年生になったとき、週1回、非常勤講師として大学で教えはじめ、2年生のときは週2回、3年生は週3回、だんだん増やしていきました。
息子が4年生のとき、娘は中2の秋から中3の卒業まで不登校を続けていたので、私は娘のことばかり気がかりで、あまり息子を見てやれず、かわいそうなことをしてしまいました。
(娘の成長については、2006年3/22~3/30のカフェ日記「日々雑記いろいろあらーな」に書きました。)
息子はこのころ、「ボーイスカウトにはいって、キャンプをしてみたい」と、言ったのに、経済的にも精神的にも、息子の希望を叶えてやることができませんでした。
息子が5年生になると、私の大学での授業は週5回。
娘が高校に入学し、ようやく息子に気持ちを向けてやれるようになりました。
息子の学校の学童保育は小学校3年生まででした。4年生のときは、娘が毎日家にいたので、学童保育は必要ありませんでしたが、娘が高校進学した後は、放課後、私の帰宅までの居場所が必要になりました。
5年生になると、学童クラブがわりに、習い事の塾へ通うようになりました。
「つかこうへい劇団児童教室」に週1回通って、演劇やダンスの練習。スイミングスクールに週2回、お習字は、娘の同級生のお母さんに見てもらって週1回、学習塾へ1回。
私の帰宅が遅いし、娘は高校の生徒会活動などで帰りが遅いため、学童保育がわりに、塾に預けたのでした。
5年生6年生のつかこうへい児童演劇教室で主役を演じたときのビデオは、私の宝物です。
小学校5年生2学期になると、塾の先生から中学入試を勧められるようになりました。
息子が学童保育がわりに通った塾は、大手進学塾と提携しており、模擬試験を受ける機会があります。息子の偏差値が高かったので、塾の先生から「ぜひ、受験してみてください」と、進められるようになりました。
<つづく>
2008/11/15
ぽかぽか春庭やちまた日記>はじめの一歩(4)暗中模索気息奄々
偏差値が70を越すと、先生の「受験のおすすめ」もいっそう熱がはいるようになりました。息子もだんだんその気になり、自営業赤字社長の夫も「学費がかからないところなら受験してもよい」と、言うようになりました。
国立大学付属校を受験することになり、息子は第一希望の中高一貫男子校に合格しました。
毎年、高校の卒業生4クラス160人のうち、100人近くが東大へ進学するというスーパーサイエンススクール。高校数学オリンピック、科学オリンピックなどの常連出場校です。
息子は中学校の3年間、毎年、文化祭では演劇班役者として出演し、水泳部では中学校水泳部区大会でメドレーリレーチームの第二泳者として出場し優勝しました。
江東区辰巳プールでの都大会にも出場しました。
保育器育ちで身体があまり丈夫でなかった息子、躰が丈夫になるように願ってスイミングスクール通いをさせたのですが、「スクールのお客さん」として泳ぐのと、学校の部活でしごかれながら泳ぐのでは疲れ具合も違っていました。
地下鉄で2線乗り換えてラッシュアワー40分の通学が苦痛だと、中学校時代から言っていましたが、なんとか義務教育の間は休み休みでも通学しました。
鉄緑会(中高6年一貫校の生徒を対象とした、東京大学受験指導専門塾)などの塾へ通う子が大半なのに、息子は塾へは行かず、勉強面ではしんどい思いをしたし、もともと引っ込み思案の子でした。
小学校の時、つかこうへい児童演劇教室に入ったのも、「声がだせない子も大きな声で話せるようになるし、引っ込み思案の子が舞台にたてるようになる。役者養成の教室ではなく、積極的な心を育てる教室」というふれこみの教室だったからなのです。
しかし、息子、舞台では「違う自分」になって大きな声がだせても、ふだんの人間関係をこなすのが苦手なのは、相変わらず。
姉と妹と、私の娘は、だれとでもうまくつきあえて、世話好きなところが亡き母とそっくり。一方、伯母と私と息子は、人間関係をうまくこなせないことで、つらい思いをするところが遺伝しています。伯母は、幼い頃、学校の中では一言も口をきかない緘黙児でした。家族とは普通に話せるのに。
私も、文章ではいくらでもおしゃべりができるのに、顔を合わせて話すのは、実は苦手で、人と会うときものすごく緊張するし、エネルギーを使い果たします。人が集まるところでは、無理矢理ハイテンションでしゃべるので、「いつも元気ね」といわれます。
授業は「先生という役を演じる舞台」で、別人格と思っていますが、学生からは「いつもハイテンションで元気いっぱいな先生」と、言われます。
2003年07月19日の日記に、
『学校からは「親がそんな甘い態度でいると、あとで泣くことになる」と言われてしまうのだろうが、東大だけを目標とするのでなければ、なんとかなると思ってしまうこの甘さ。あとで、泣くことになるのだろう。きっと」
と、書いてありますが、息子の勉強をほったらかしにしていて、ほんとに泣くことになりました。
息子の中学校3年生の中間試験問題について、以下のページに書いてあります。(2003/07/19)
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/0307b7mi.htm
中学校の成績で苦しみ、通勤ラッシュで苦しんだけれど、息子は2004年に高校に入学しました。高校入学といっても、中学からの内部進学エスカレーター組です。3クラス120人から、高校は4クラス160人になってのスタートです。
<つづく>
2008/11/17
ぽかぽか春庭やちまた日記>はじめの一歩(5)七転八倒青息吐息
2004年、高校1年の秋。「文化祭の劇にいっしょに出演する」というクラスメートとの約束をはたしたあと、文化祭の翌日から通学しなくなりました。
学校へは行かないのに、高校演劇部の「演劇大会」へは、遠くの会場までわざわざ見に行きました。
演劇好きな友達と仲良く話しているのを演劇部の先生が見ていて、「あんなに明るく話せていて友達もいるのに、なぜ不登校なのかわからない」と、話していたと担任の先生との面談で言われました。私にもなぜ学校に行かないのかわからなかった。
ただ、「もう、限界」という、息子のことばを聞き、私も学校に行きたくなかった高校生だったことを思い出して、息子が「高校行かない」というのを尊重しました。
私は高校へは自転車通学だったので、朝お弁当を持って家を出て、サイクリングして帰宅していました。成績はトップからビリに落ちましたが、なんとか卒業はしました。
息子の不登校を認めたのは、学校以外の学びを信じていたから。
娘は高校のとき、「万が一また学校に行けなくなったときの保険」として、高校1年のとき「大検」を受けました。単位制高校だったので、受験が出来たからです。
数学をのぞいて、他の科目は合格しました。数学は、積み上げ科目なので、中学不登校で中1の数学しかわからなかったので、合格できなかったのです。
それから推測して、一応中学3年生まで学校に通った息子なら、必ず「高校卒業資格認定試験」に、全科目合格するだろうと言う予測がありました。息子の中学校の数学は、大学教養科目レベルの範囲をやっていましたから。
2005年、16歳の夏に、文科省の「高認試験(高等学校卒業資格認定試験)」を受験して全科目合格し、2006年3月に高校を退学しました。2006年4月、同級生たちは高校3年生に進級しました。
以前の大検(大学入学資格検定試験)は、全日制高校在学中は受験できなかったのですが、高認試験は、全日制在学中でも受験できます。このことは、一般には知られていないので、宣伝しておきます。
また、大検合格は、高校卒業資格認定ではなかったので、大学に入学しない限りは、学歴欄は中卒扱いですが、「高認」は高卒扱いとなります。高卒が出願条件の資格試験なども「高認」は「高卒」と同等です。
ただし、15歳で高卒資格を得ても、16歳で合格しても、大学受験は18歳をすぎるまでできません。
息子は、16歳で高認試験に合格したあと、18歳まで、ずっと家の中ですごしました。
頼まれると夫の事務所に手伝いには出かけていく。あとは、ゲームソフトを仕入れに自転車でゲーム屋を回るだけが息子の「外出」です。
毎日ゲーム。
テレビを見る。ゲームをする。攻略本を読む。またテレビ、ゲーム、攻略本。
<つづく>
2008/11/18
ぽかぽか春庭やちまた日記>はじめの一歩(7)悪戦苦闘阿鼻叫喚
私にできることは、「見守る」だけでした。
もっとも、息子に言わせると「見守るだけじゃなかっただろ、ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ、うるさかった」
今思えば、息子をカウンセラーのところに通わせて、カウンセリングを受けさせたりしたのも、「息子のために何もしていないのでは不安になる」という、私自身の心の安定のためのカウンセリングだったような気もします。
息子にしてみれば、「カウンセリングなんか受けたくないけれど、受けないと母が不安がるから」という理由で通っていただけで、息子にとっての効果は何もなかった。
息子が歴史好きになったのは、小学校のころから『信長の野望』『太閤伝』などのゲームにハマったたからですが、「毎日が日曜日」の息子が、ゲームのほか家ですることは、歴史関連の本を読むことぐらい。
古本屋へ行くと、息子が好きな歴史関連の本を探して、「読んでも読まなくてもいいから」と、渡しました。
歴史の本といっても戦国ゲームに関わる戦国史や織豊政権の本ばかり。
新聞を毎日、朝夕刊読むことが娯楽のひとつになっているので、読解力があることはわかっていました。
大学レベルの専門書でも、歴史書は、自分の好きな分野だから、読みこなして楽しんでいました。
息子、16歳で高校卒業資格認定試験に一発合格したといっても、毎日ハハは不安でした。
これからどうしたいのか、さっぱり息子の気持ちもわからず、はがゆいばかりです。
「何か目標があって、やりたいことがあるなら、大学に行かないのもいいけれど、まだやりたいことが、見つからないなら、とりあえず大学へ行く方がいい」という母親のアドバイスも、息子には「うざったい」だけ。
それでも、センター試験だけは受験する気になりました。
センター試験を受験するからと言って、問題集や参考書の一冊も目にしていません。ずっと昼夜逆転でゲームを続けていました。試験前日の夜まで。
2006年の秋にセンター試験願書を出してから「ちょっとは勉強してみたら」というひとことを言わずにがまんして2007年1月になりました。
ひとことでも「勉強したらどうなの」と言ったら、「それじゃ受験やーめた」と、なったでしょう。
問題集などはまったくやっていませんが、国語と歴史は大丈夫。実質中卒の息子ですが、大学レベルの実力はあるはず。
模擬テストを受けさせなくとも、息子の日本語力と、歴史知識が豊富なことはわかりました。
また、「たとえ、大学に合格できなくても、これだけの国語力があれば、少なくとも夫の事務所で校正の仕事をつづけることができるだろう」と思えました。
その点では、たとえ赤字会社であっても、息子に働く場を与えてやれる夫に感謝感謝でした。
また、学校に通わなくても成長できるし、いくらでも生きていく方法がある、ということを確信できたのは、妹が関わっているNPO法人の「不登校生徒のためのフリースペース」の活動をみてきたおかげ。妹にも感謝。
悪戦苦闘の毎日、心の中は阿鼻叫喚でしたが、表面に出さずにすんだのは、周囲のおかげ。
<つづく>
2008/11/19
ぽかぽか春庭やちまた日記>はじめの一歩(6)孤軍奮闘隠忍自重
息子は、2007年1月に、大学入試センター試験を受けました。
「大学に行く気になるかどうかわからない」と、受験をしぶる息子に「センター試験だけは受けてみたら」と、ハハのアドバイス。
「でも、合格したらハハは、せっかく受かったんだから大学へ行けって言い出すでしょ」
「あらま、合格する気があるんかい、あんた」という言葉は胸に押し込めて、「ぜったいに、無理矢理行けとは言わない。行く気になったら行けばいいし、行く気にならなかったら行かなくてもいい」という約束で受験。
センター試験受験といっても、大学合格の可能性なんて、まったくありませんでした。 なにしろゲームおたくの引きこもりでしたから。
それでも息子は、センター試験のみで合否を決定できる大学へ願書を出す気になりました。
息子が希望したのは次の3つの条件を満たしている大学。
(1)センター試験だけで合否判断してくれる大学。2次試験がある国立は受験しない
(2)歴史を学ぶことのできる学科があること
(3)できるだけ自宅から近いこと。
受験勉強はまったくしていないけれど、息子には実力がある、そう信じて、ハハはただ息子の幸運を祈って、試験会場に送り出しました。
センター試験は、夫の事務所に近い大学が会場でした。事務所へいくときいつも乗り降りしている地下鉄駅から徒歩5分の会場。そんな安心感も息子にとっては、よい方向へ気持ちが向いたのでしょう。
センター試験のみで合否判定をしてくれる東京23区内の大学のうち、歴史学科のあるところに願書を送り、ふたつの私立大学から合格通知を受けることができました。
ひとつは夫の出身校の大学。もうひとつは、我が家から自転車15分の大学。どちらも古い学校で、独自の伝統ある校風です。
合格した大学、歴史が学べるという点では、ふたつとも息子の希望に合っていましたが、私としては夫の出身校を勧めました。
夫から、履修登録とかいろいろな面でアドバイスがあったほうが安心できると思ったのです。しかし、息子は「家から近い」ことを優先しました。
夫の出身校は、夫の実家からは徒歩30分。
夫にとって「家から徒歩で通える範囲の大学にいく」という方針に合っていました。でも、現在の自宅から通うには、地下鉄で40分くらいかかります。
夫としては、自分の出身校を選んでほしいようなようすでしたが、息子は、夫の昔の方針通り「我が家から近い方」を選びました。
我が家から自転車で15分、歩いても通えない距離ではありません。
しかし、入学金納入後も、息子は「大学、行く気になるかどうか、わからない」と言っていました。
<つづく>
2008/11/20
ぽかぽか春庭やちまた日記>はじめの一歩(7)家内安全捲土重来
2007年3月から8月まで、私は、再び中国の大学で仕事をすることになりました。
ハハのいない家で、入学するのやらする気がないのやらわからないまま、私は2007年3月に中国へ赴任してしまいました。
母親があれこれ言わないほうがよい結果がでると信じて。
4月、娘が「当日あわててネクタイを買いに行ったり、たいへんだったけど」とのメッセージつきで「大学入学式」の立て看板の横に立つ息子の姿をケータイで写し、中国にいる私にメールを送ってくれました。うれしかったです。
「あれま、入学する気になったんかい、やれやれ、、、、」です。
入学した4月からの大学生活について、息子は「最初は基礎的なことばかりだったけれど、歴史の勉強は楽しい」と、言い、大学生活になじんできたようでした。
私が中国赴任の間、4月から7月まで息子が大学に休まず通ったというのも、小うるさい母親がいなくなって、「自分の意志で寝起きせねば」と思えばこそだったでしょうから、ここでひとこと余計なこと言うと、この年頃の男の子、反発するだけでしょう。
自分一人で動けて、エネルギーも「地球にやさしい」自転車が好きなところはハハと同じですが、バスや電車にただ乗っているだけの旅が好きなハハとは似ていません。
大学へは、雨の日を除いて、自転車通学を続けています。
高校は中途リタイアだったけれど、大学は好きな科目を選んで、なんとか楽しく学んでいってほしいと願うばかり。
大学2年生になって、専門科目もふえ、歴史の勉強もどんどん深まっています。息子は、日本史を専攻し、学芸員資格取得の科目も単位をとっています。
交通安全学業成就健康長寿天下太平。ハハは、ひそかに祈り、息子の自転車通学を応援しています。
息子は、2年生の大学生活も相変わらずマイペースで「したくないことはしない」という方針です。順調に単位はとれているので、卒業もできるとは思いますが。さあ、その先は何がしたいのやら。
息子の元クラスメートたち、やはり160人の同級生のうち半分は東大へ。卒業後のクラス会も「駒場」でやっているそうです。息子も中学卒業生として一応同窓会名簿には名前があるのですが、「駒場で毎日顔あわせているヤツラ、駒場で同窓会やって、どうすんだよ」と言って、我が道を進んでいます。超スローマイペースな息子ですが、一歩一歩、少しずつ。
はじめの一歩。
あなたが歩き始めて、最初の一歩を踏み出したころを思い出します。よちよちところびながらも、保育園へ迎えに行った私の胸の中へ、歩いてきてくれました。
これまでの20年間が、母にとっては、何千万歩の距離のようにも思えますし、同時にほんの一歩だったようにも思えます。
おめでとう、11月19日、20歳の誕生日。
ありがとう、生まれてきてくれて。
20歳、はじめの一歩。
これからの大人の一歩を力強く自分の足で踏みしめていけますように。
<つづく>
2007/11/20
ぽかぽか春庭やちまた日記>はじめの一歩(8)番外編・悩みは皆おなじ
以上、不登校・高校中退だった息子が今は大学2年生、というお話でした。
まだまだ、たよりない足取りではありますが、あとは、息子自身が自分の人生を歩いていくことでしょう。
「バイトする気は?」と、息子に話しかけてみても、
「父の事務所の仕事がいつ入るかわからないから、よそには行けない」
息子は、夫の会社の人手が足りないときの助っ人要員。校正の仕事を、高校入学後からやらされている。
一般の若者に比べて、語彙、漢字と歴史や雑学には強くて、「やたらな校正者に依頼するより、息子のほうが確実に誤記誤字を拾うよ」と、夫も言っているのですが、母親としては「赤字会社の夫のところで働くより、もっとお小遣いが稼げそうな所へ行ってもいいのに」と、思うのですが。
「旅行でも行って来たら」と、すすめても、「出無精だし、乗り物に乗りたくない」
大の乗り物嫌い。休まず大学に通えたのも、自転車通学だからだ、というのです。
相変わらず、人とつきあうことは苦手。
でも、息子は息子なりに成長してきたのだと、思います。
もし、今現在、お子さんが不登校で不安を抱えている人がいたら、いつでもお話をうかがいます。メールでも掲示板でもどうぞ。
一番肝心なことは、「ある時期学校へ行けないことがあっても、子どもは何らかの方法で成長できるし、あせることはひとつもない」ということ。
こどもの成長は、学校という場でなくても、いつでもどこでもできるから、親が子どもの可能性を否定してしまわないこと、それが一番大切だと思います。
文部科学省は、義務教育不登校生徒12万人の時代に、ようやく教育方針の転換を発表しました。
「子の養育者は、子どもを学校に通わせる義務を負う」であった「義務教育」制度から、「子どもが教育を受ける権利」という「子の教育権・成長権を守る」という方向への転換です。
学校へ行かなければならない、という強迫観念を脱して、「子どもがその子なりに学び、成長していく権利」を大切にしていく方向への変換。
フリースクールでも、通信教育でも、どんな方法でも子が成長できればいいのです。
アメリカでは数百万人が行っている「ホームスクール(家で親が学習指導を行うことを正規の教育を受けたと認める方法)」を、日本でも認められるようにしたい、という運動も起きてきました。
とは言っても、子どもが不登校の渦中にあるとき、親は、自分を責めたり子育て方法が間違っていたのかと悩んだり。
皆、おなじです。私も娘が中学校で不登校になり、息子が高校で不登校になり、ずいぶん自分を責め、悩み続けました。
<つづく>
2007/11/20
ぽかぽか春庭やちまた日記>はじめの一歩(9)番外編・愚痴こぼし合い
娘が大学を卒業し、息子も大学2年生の今から見ると、不登校の最中の悩みがよく見えます。
悩んでいる方、親が気持ちをはき出す場があって、子どもの問題を話せると、それだけでも違います。
私にとって救いになったのは、近所に東京シューレがあったことです。
子どもはふたりとも「フリースクールもイヤ」と、行きたがらなかったけれど、私は東京シューレ主宰の講演会によく出かけていきました。
椎名誠は息子の岳、久田恵は息子の稲泉連が「学校教育に頼らない成長の方法」を選んだことを話し、羽仁未央も、自らの「小学校を中退して以来、学校へは行かずに大人になった」ことを話しました。
さまざまな成長の方法があることを知るのも、不登校の子どもや親にとって、心を安定させる方法です。
成長の方法は、何によっても大丈夫。たぶん、私の息子は、「ゲーム」によって成長したのだろうと思います。
平田オリザのように、「ひとりで自転車にのってユーラシア大陸横断」という成長の過程を選ぶ子がいてもいいし、ひとりで引きこもってゲーム三昧だっていい。
子が生きる方法をつかみさえすれば、親は子を見守っているだけでよい。
大切なことは、親が子の可能性を否定してしまわないこと。子の生き抜く可能性を信じること。それさえできるなら、何も不安がることはありません。
私がよく聞くのは「親が作家だったり映画監督だったり、特殊な家庭ならわかるけれど、うちみたいな平凡な家庭で、子ども親も平凡な能力しか持ってないのに、学校行かなかったら、どうなるのやら」という悩み。
多くの「不登校生の親」は、「子どもがかわいい」と言いながら、「世間様に名を出して恥ずかしくない学校へ行ってほしかった」とか「親戚の手前、学校に行ってないとは言えない」というのです。結局のところ、子の人生より親の体面を優先してしまう。これじゃ、子どもは救われません。
親の能力なんて関係ないんです。親に必要なのは、子どもを心から愛し、その存在をありのままに認め、好きな人生を選ぶ自由を認めること。ところが、自分に能力があると思っている親ほど、子どもにも期待をかけてしまう。期待通りにいかないと落ち込んでしまうのです。
娘は中学校の1年半、学校へ行かず、息子は高校1年秋から学校へ行かず、渦中にあるときは、つらい思いもしました。落ち込みもしました。
でもね。人生たった3万日。親も子も、もっと気楽に楽しくすごしましょうよ。
きっと未来は開けます。
これまでに、地球に夜明けがこなかったことはなかった。
北極に3ヶ月夜が続いても、必ず夜明けはありました。
明日を信じましょう。
<おわり>