春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

今日のいろいろ
ことばのYa!ちまた
ことばの知恵の輪
春庭ブックスタンド
春庭@アート散歩

おひとり様の老後

2008-07-22 08:47:00 | 日記
2009/01/26
ぽかぽか春庭やちまた日記>暦はひとめぐり(1)おひとり様の老後

 2009年1月10日は、我が家にとって、「家族写真撮影記念日」になりました。夫と所帯を持って以来、初めて写真館で家族そろって記念写真を撮影したのです。夫と姑と娘と息子と私。5人で写真館にでかけ、息子成人式の記念撮影をしました。

 娘や息子の七五三の時も、娘の成人式の振り袖姿も、いつでも母子家庭で記念撮影してきました。どんな時も夫は「そういう仲良し家族ごっこにつきあう気はない」という「自己主張」を押し通してきたのです。家庭を顧みない父親だからこそ、せめて子どもたちのために、写真だけでもいっしょのものを残したいという妻の願いは、完全無視です。
 今回は、「おばあちゃんといっしょに写真をとる」ということを第一の大義名分にしました。妻には冷たい夫も、実母には頭があがらないので、「おばあちゃんが孫といっしょの写真を撮りたがっている」ということにしたのです。

 1月25日の夫の言では、「」

 夫は、「夫婦仲良く」に値することは何一つしてくれたことがない。
 結婚指輪も新婚旅行もなしだったのは承知の上だったけれど、結婚以後、誕生日に「おめでとう」もなし、夫婦いっしょの旅行もなし。太宰治のことばに「家庭の幸福は諸悪の根元」という警句がありますが、夫はそれをまともに実践したつもりだったのです。家庭の幸福なんぞを追求しているのは、男の一生として諸悪のもとであると。

 家事育児の手伝いはまったくなし。家族をいたわる言葉がけなんて皆無。自営の会社は赤字続きで、毎月家族のための生活費は、「ほんの気持ちだけですが、、、、」という程度。雀の涙というか、ハチドリの涙。
 まあ、こちらも「いえいえ、お気持ちだけで十分です」なんてことも言わず、ハチドリの涙を受け取るのだけれど。

 会社の微々たる収入は、会社事務所の維持にあてて終わり。あと、夫の趣味のタイ語講座授業料とか。
 ヒョータン社長、リタイア後は、「ひとりで」タイの奥地に入り、現地の子のために学校を建てて暮らしたい、と「おひとり様の老後」計画を立てています。

 「子どもの給食費がない」と、私が泣いていた時代でさえ、私の泣き言はいっさい無視して、「フォスターペアレント」という会を通じてタイのこどもに「奨学金」を送っていた人なのです。
 タイの子の奨学金より、うちの子の学費でしょ、と、私が訴えてもムダだった。娘は学費いっさいを育英奨学金と大学奨学金の両方を得てまかない、2006年に卒業しました。2007年入学の息子の学費は、私が2007年に出稼ぎで稼いだ手当で、かろうじて授業料を支払いました。

 息子は育英奨学金を借りるのはいやだと言い張る。娘の育英奨学金、これから20年以上返済していかなければならない大変さを知っているからです。「親が子に奨学金を出すことにするなら、返済は有るとき払いの催促無しだから」ということで、私が貸し付けることになりました。今年と来年の分の授業料を稼ぐために、今年はまた出稼ぎに行かねばならない。いつになったら返してもらえるものやらわからないですけれど。

<つづく>


2009/01/27
ぽかぽか春庭やちまた日記>暦はひとめぐり(2)DV妻

 世間では 夫のことを見て「変わった考え方の人ね」という論評ですむのでしょうが、私にとっては死活問題。子どもの食い扶持を稼ぐために、私は必死に働いてきました。おしゃれもショッピングも無縁ですごし、ただ年をとってしまいました。

 そんなこんな愚痴話をつづけながらも、去年息子が20歳の誕生日を迎え、この1月に成人式を迎えたことで、ひとまず、「未成年の子への親の責任」肩の荷をおろすことにします。肩の荷おろしても、あと2年間は学費分食費分を稼ぐのは私ひとりですが。

 苦労続きの結婚生活のなか、それでもなお、私が夫に感謝しているのは、私に「子供を育てる人生」を与えてくれたから。
 私と結婚して、私が子供を産むことを承知するなんて、夫以外の男ではたぶん、ありえなかった。私は、完璧に「男が結婚したいと思うような女」ではなかったから。1970年代にとっての「女らしい女性」というイメージに反抗して生きたのが、私の青春でした。生意気で知ったかぶりで、自己主張が強く、精神的な自立を望む女。男女は平等であるべきだと思い、家庭は両性が協力して築くものだと主張していた。「かわいい女」のふりができた女子高校同級生は、みなよき伴侶を得て幸福な家庭を築いたのですが、私は「男に媚びていると思われるのはいやだ」と言って、にこりともしないヤナ女でした。

 今では、学生にも愛嬌を振りまいて、「先生はいつもニコニコしていて、授業するのが楽しそうですね」と、言われている。なんの、なんの、営業スマイルに決まってるでしょうが。これでメシ食ってんだから。

 私を知っている人は、みな、私が一生本とにらめっこしてすごすと思っていました。私が理想的な結婚生活と思ったのは、高群逸枝と橋本憲三夫妻でした。妻は研究を続け、夫は妻の研究の意義をみとめ、自分は編集者として生活をささえ、妻の研究生活を応援する。
 理想と現実はまったくかけ離れていました。我が家、夫は赤字続きの校正会社を自営し、「おひとり様」で生きている。妻は研究生活もままならず、孤軍奮闘でふたりの子を育て、生活費をかせいだ。

 子どもに胸の乳を飲ませながらも、片目で本を読み続けた私ではあるけれど、子育ては楽しかった。
 我が家、娘も息子も不登校生徒でしたから、不登校の期間はものすごくたいへんだった。しかし、子どもが成長した今は、苦しくつらかったことは忘れて、すべてがよい思い出になっています。

 中学校不登校の娘を受け入れてくれる高校を探して、東京中、そして神奈川まで高校見学に娘と出かけたことなど、昨日のように思い出されます。娘は都立の単位制高校を経て都内の私立大学を卒業し、息子は16歳で「高校卒業資格認定試験」に合格して、今は自宅から自転車で15分の大学に通学しています。

 ショーモない娘とロクデモない息子に育ち上がったとしても、娘と息子は私にとって宝物であり、子育てをした時間は、最大の「人生のよき部分」である。こういうと娘息子はとてもイヤがるけれど。「子供は宝物」と言われると、「親にとって、よい人間であれ」と、束縛される気がするのだと。そんなことは望んでいない。子供は子供の人生を歩めばよいのであって、親の鼻を高くさせるためとか、親の勲章になるために人生があるわけではない。だから、好きに生きたらよい。

<つづく>


2009/01/28
ぽかぽか春庭やちまた日記>暦はひとめぐり(3)感謝状

 毎年、父親の誕生日と6月第三日曜日に、娘と息子は父へのプレゼントを渡してきました。三倍返しをめあてにしてるんだよ、と娘息子は言うけれど、私は釈然としない。我が家に父親なんていたんだっけと、毒づいてみる。

 家庭生活を完全に放棄し、家計費もほとんど負担しないで「趣味の人生」に生きている父親。そんな父親を、それでもなお「子供たちが慕うように」育ててきた自分をほめてやりたいが、悔しくもある。どうしてああいう父でも「父の日」のプレゼントをもらえるのよ!

 子供たちが小さい頃、娘が書いたメッセージや息子が保育園で描いた「父ちゃんの顔」を渡そうとしたら、夫は、「こういうものをもらって喜んでいられる状態じゃない」と、贈り物を放り出したことがありました。
 夫も、倒産のまぎわで気が立っていたのだろうと、今では理解もするが、その日は、ただただ腹がたって、私は泣きながら夫に殴りかかった。夫をなぐろうとしたのは、唯一この時だけ。私が夫から身体への暴力を受けたことは一度もない。

 しかるに、私は、自分が法的には「DV妻」と呼ばれてしかるべき存在だったことを、今まごろになってようやく知った。夫から、直接の暴力暴言を受けたことがなかったので、自分が「DV妻」に相当するとは知らなかったのです。
 家庭を無視する「ネグレクト」や、家計費も家事も分担しない「非協力」を、妻が「悲しい、つらい」と感じた時点で、この夫の仕打ちは「DV=ドメスティック・バイオレンス家庭内暴力」と、法律的には呼びうるのだって。私は法的に立派な「DV妻」でした。知らなかった!

 今まで26年間、貧乏生活に愚痴を言ってきた。でも、働くことは好きだったから、貧乏暮らしもまた楽し、と、やり過ごしてきました。
 2008年5月、愚痴ですませられない怪我さわぎがあり、骨折した足をひきずって通勤していたとき、ほんとに休めない体がうらめしかった。

 私がこうまでして働かなければならないのは、私が働かなければ、一家で飢えるからだ。
 痛む足をかばいながら、階段を上っている間、夫が子供たちからのプレゼントを放り出したとき以来の腹立ちを感じました。
 腹が立った時点で、また「つらい」と感じた時点で、私は「DV妻」なのだった。
 う~、DV妻の26年間、、、、、、姑から「よい嫁」と言ってもらえてるくらいじゃ、追いつかない気がしますけど。

 親は子供が自立して生きていくすべを手に入れるまでは面倒をみる。それが親の生き甲斐でもある。でも、ひとりで生きていけるまでに成長できたら、子は子で自分の人生をみつけるがよい。親を当てにすることもないし、くびきにすることもない。
 ただ、ただ、私にとっては、子が成長する過程をともに過ごせたことは人生最大の喜びであったし、「私の人生の一番たいせつな部分」と思っています。

 その「大切な部分」を与えてくれたのだから、夫には、感謝している。うらみつらみはあろうとも、そのすべてを上回って感謝しています。
 夫へは、感謝状でも贈ろう。
 「DV人生をありがとう。DV妻より」とでも。

<つづく>


2009/01/29 
ぽかぽか春庭やちまた日記>暦はひとめぐり(4)虎穴に入らずんば

 夫は、元地方新聞記者でしたが、私とケニアで出会ったのは、新聞社をやめ、フリーランスジャーナリストの可能性をさぐりながらナイロビに滞在していたころでした。

 「ひとりでアフリカ・アジアを歩き回り、取材したい」という夢を持つ男でした。
 たぶん、2007年ミャンマー反政府デモ取材中に軍に射殺され亡くなった長井健司さん(享年50歳)の生き方ができたのなら、夫としては本望だったことでしょう。
 でも、その夫の夢は、「デキ婚」の結果、「子どもが育ち上がるまでは、ひとりで外地へ入って死ぬわけにはいかない」という決意で断念したというのです。

 結婚してからも夫はフィリピンやタイの難民キャンプ地などへでかけていましたが、タイ奥地ゴールデントライアングルと呼ばれる地帯やミャンマー山岳ゲリラ地帯へ入っていくチャンスがめぐってきたとき、娘の顔を思い浮かべたとき、子供が成人するまで死ぬわけにはいかない、と思いゲリラ地帯潜入を断念した。フォトジャーナリストになる夢を諦め、日本にもどって校正会社をほそぼそと続ける人生を選択した、と夫の弁。

 夫がめざしていた新聞記者は岡村昭彦でした。
 岡村は、『南ヴェトナム戦争従軍記』を発表した東京新聞の記者でしたが、晩年はホスピス活動に力をそそぎました。岡村になる夢をあきらめたのは夫自身です。でも、「家族ができたために夢をあきらめた」と、夫が言うので、私はずっと「申し訳なかった」と思い続けてきました。もし、夫が夢をあきらめずに外地に入って死んだら、私たちは母子家庭となった、のかもしれません。

 でも、実質的に26年間、夫は、「家族をほったらかし」の生活を続けたのですから、外地にいようと、国内にいようと、結局は同じだったと、今は思いますけどね。
 どっちにしろ、娘と息子は、父といっしょにすごす時間を持たずに、「疑似母子家庭」で育った。いや「疑似」の分だけ悪かった。なんであれ、偽物は本物に劣る。

 現在の夫の夢は「仕事をリタイアしたら、ひとりでタイの奥地で暮らしたい」だそうで、タイ語の講座に通っています。自分の母親の介護はヨメがなんとかするだろうと、信じているみたい。
 「今通っているタイ語教室では、ぼくがいちばんいい生徒なんだ。無遅刻無欠席で成績もいい」と、娘にも息子にも私にも同じ自慢をしていた、「家族ほったらかし」男、今月末日が誕生日。

 娘の誕生日も息子の誕生日も、もちろん私の誕生日も「365日のなかの一日にすぎない」から、お祝いなど言っているヒマはない、という男、自分の誕生日を娘や息子が祝ってくれないと、不機嫌になるのです。
 「チチって、自分は個性的だなんて思っているらしいけれど、単なるジコチューなんじゃないの」と、娘はすでに中学生ころに「父の本質」を見抜いたそうです。

 さて、「単なるジコチュー父」は、子供たちからのプレゼントを待っているのかな。
 私は、『タイの田舎で暮らす』という本を見つけたとき、夫に「将来タイで暮らしたいと思っているなら、参考になるかも」と、渡したら、「ぼくは、こういうのは読まない。人のやったことをマネしても面白くないから」と、文句言ってました。ほんと、かわいくありません。まったく!タイの奥地で、トラに食われてしまいなさいよ。
 あ、タイにトラはいるんだっけな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする