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トルストイ博物館

2008-09-03 08:32:00 | 日記
トルストイ博物館

ロシア文化フェスティバル
目次
(1)トルストイ
(2)ヤースナヤ・ポリーニャ屋敷
(3)トルストイ博物館
(4)トルストイと小西増太郎と老子
(5)戦争と平和

ぽかぽか春庭・言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>ロシア文化フェスティバル(1)トルストイ

 さまざまな国の文化。それぞれの国が持つ伝統文化も、決して単独に発達してきたのではなく、交流をつうじて互いに影響し合い、融合しあっています。

 ロシア文学は、明治以後、日本文学の上に大きな影響を与えてきました。
 ロシア語の「イクラ」が、日本語でもそのまま「イクラ」として外来語になり、外来語とも意識されずに使われていること、1月2月に外来語のお話のなかで紹介しました。(2008/02/17)

 ロシア語の「весна света ベスナー・スベータ」という語が翻訳されて「光の春」という早春をあらわす美しいことばとして知られてきたことも紹介しました。(2008/02/27)
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200802A

 2003年1月に、プーチン大統領と小泉首相が日ロ首脳会談を行い、「日露行動計画」が締結されました。
 この計画により2003年には「ロシアにおける日本文化フェスティバル」が開催され、次にその返礼として、日露国交回復50周年を記念して「日本におけるロシア文化フェスティバル」が2006年に開催されました。

 2008年も、引き続き「ロシア文化フェスティバル」が行われ、多彩なプログラムが各地で展開されています。
http://www.russian-festival.net/festival2008.html

 私は、このうち、「ボリショイサーカス」と「ウラジミール・トルストイ講演会」を見ました。
http://www.chiba-u.ac.jp/event/pdf/20080624tolstoy.pdf

 レフ・ニコラエーヴィチ・トルストイ(1828~1910年)は、ロシアの大文豪。
 大文豪の作品、どれほど読んだかというと、、、。
 トルストイは、どうもその名の偉大さばかり聴かされたせいか、本がぶ厚いのにひるんだか、読み通していません。

 私、小学生のとき「イワンの馬鹿」という子ども向けのお話と、「少年少女世界名作全集」みたいなシリーズのなかの『戦争と平和』を読んだほかは、ちゃんと読み通したことないんです。

 『戦争と平和』、ソ連制作の7時間超大作映画は、7時間がんばって映画館でみたし、オードリー・ヘプバーン主演ほうがメロドラマとしてはよくできているので、何度も繰り返して見てきた。
 オードリー主演の『戦争と平和』は、パブリックドメイン(著作権をだれも主張なしえないため、公共の利用ができる)作品なので、DVDも安いと思う。

 『アンナ・カレーニナ』は、ヴィヴィアン・リー主演の映画と、マイヤ・プリセツカヤがアンナを演じたバレエ映画などを見ただけで、こちらは「少年少女~」の名作集には入っていなかったので、小説としては読んでいない。
 さすがに不倫ドラマは、どう脚色しても子ども向けにはならなかったのでしょう。
 ソフィ・マルソーのアンナも見たいと思っているんですけど。

今回のシリーズは、トルストイの領地だったヤースナヤ・ポリャーナにあるトルストイ博物館の紹介です。

<つづく> 


2008/09/05
ぽかぽか春庭・言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>ロシア文化フェスティバル(2)ヤースナヤ・ポリーニャ屋敷

 レフ・ニコラエーヴィチ・トルストイの父、ニコラーイ・イリイチ・トルストイ伯爵は、賭博に熱中して資産を蕩尽し、有力貴族の娘マリヤ・ヴォルコーンスカヤとの結婚によってようやく破産を免れた。マリヤは大貴族の称号継承者であり、800人の農奴とトゥーラ県のヤースナヤ・ポリャーナの領地を所有していたからです。

 レフ・ニコラエーヴィチは、母親が所有していたヤースナヤ・ポリャーナの領地で生まれて、生涯をこの地を愛しました。

 領地と屋敷は、レフ・ニコラエーヴィチ・トルストイの死後、家族が相続しましたが、現在は、ロシア政府の所有物として管理されています。
 屋敷は、「トルストイ博物館」として、公開され、トルストイの思想や文学の研究センターとしても機能しています。

 この博物館の館長は、レフ・ニコラエーヴィチの玄孫(ひ孫の子)ウラジーミル・イリイチ・トルストイ氏が務めています。
 ウラジーミル館長は、2008年、ロシア文化フェスティバルの一環の講演として、上智大学、東京大学などで講演を行いました。
 私が聞いたのは、7月26日午後の千葉大学での講演会。ロシア語の通訳つき。

 千葉大学22号館の会議室には、ロシア語ロシア文学を学ぶ学生のほか、トルストイ文学ファン(ほとんどが高齢者だった)が、集まっていました。
http://www.chibanippo.co.jp/news/chiba/local_kiji.php?i=nesp1217057102

 ウラジーミル・トルストイ館長は講演会の最初に、語りました。
 「文豪レフの子孫は、ソビエト連邦を嫌って外国に亡命した人を含めて、250人以上が世界中にいますが、私はその中でもっとも幸福な子孫です。なぜなら、こうしてレフ・ニコラエーヴィチが生まれその生涯をすごした屋敷で日々すごせるのですから」と、話していました。

 ロシア人の名前、最初は自分のファーストネームで、二番目は父親の名前(父称)です。ミスターとか、「ミズ」「さん」などの敬称はロシア語にはなく、父称をつけて呼ぶのが敬意の表明です。お父さんの名前まで覚えているのが、その人を尊敬する証。

 知り合いのお父さんの名前を覚えていなければならないというのも、ちょっとたいへん。
 敬意を表すのに、「ミズ」とか「さん」ひとつで間に合うのは便利です。
 「ミスター・トルストイ」にあたる呼び方はなく、「レフ・ニコラエーヴィチ(ニコライの息子)」と父称をつけて呼ぶのが、敬意を表すことになります。

 家族や親しい友人同士では、名前(多くは誕生日ごとに決まっている聖人の名や先祖の名)の愛称によって呼び合います。
 文豪レフの妻ソフィーヤだったら、ソーニャ。アレクサンドルはサーシャなど。

 レフ・ニコラエーヴィチの13人の子どものうち、作家になったのはふたり。そのうちのひとり、ペンネーム「イリヤ・ドゥブロヴスキー」。イリヤの息子が、ウラジーミル・イリイチ・トルストイ。彼は、現ウラジーミル館長の祖父です。イリイチは「イリヤの息子」の意味。
 館長の父親、イリヤ・ウラジーミロヴィチ・トルストイは、モスクワ大学教授。

 ウラジーミル館長と同じ名前のお祖父さん、ウラジーミル・イリイチ・トルストイは、レフ・ニコラエーヴィチの孫であり農業技師をしていました。祖父レフ・トルストイの偉大な足跡を後世に伝えるため、ヤースナヤ・ポリーニャを博物館とすることに尽力しました。

 おじいさんの名を受け継いだウラジーミル館長は、もともとはジャーナリスト。45歳。
 1910年に亡くなった玄祖父(おじいさんのおじいさん)レフ・ニコラエーヴィチの没後100年記念事業を行うため、現在精力的に各国を回って講演しています。

<つづく> 


2008/09/06
ぽかぽか春庭・言海漂流>ロシア文化フェスティバル(3)トルストイ博物館

 トルストイ博物館の館長ウラジーミルさんの講演。
 ウラジーミル館長と聴衆の質疑応答で。

質問)多くのの貴族屋敷が反乱兵士や農民に荒らされたと聞き及んでいるけれど、「ヤースナヤ・ポリーニャ」が、往時の風格そのままに、たいへん美しい博物館となって残されたのは、なぜですか。

 館長の回答。
 「貴族の屋敷を破壊したりした人々もいたことは事実ですが、近隣の農民たちは、トルストイを深く尊敬しており、暴徒からもソ連軍兵士からも、屋敷を守り抜いたのです。屋敷が無傷で残されたことは、ロシア文化の誇りです」

 質問「2001年に、ロシア正教会は、レフ・ニコラエーヴィチを正教会から破門したことを取り消さない、という決定を出しました。その後の進展は?」
 館長の回答。
 「私は何度も、正教会に対して、レフ・ニコラエーヴィチが破門されたことは、当時の混乱した社会情勢ゆえであり、破門は不当なことであったと訴えてきましたが、まだ、この問題についての正教会からの有効な返信はありません」

 レフ・ニコラエーヴィチは、当時のロシア正教会が腐敗していることを鋭く告発し、教会と対立しました。教会への批判をやめようとしないレフに対して、正教会は1901年に破門という措置をとり、これが100年たった現在でも取り消されていないのです。

 館長は、講演のはじめに、現トルストイ博物館(ヤースナヤ・ポリーニャ屋敷)の内部を撮影したビデオを映して、その説明をしてくれました。
 トルストイの先祖子孫の肖像画が掛けられている居間や食堂。

 トルストイが晩年を過ごした寝室は、とても質素簡素なものです。
 晩年には、私有財産を否定する思想に至り、農民アナキストに近い思想を表明していたトルストイですから、伯爵家当主のベッドといっても、豪華なものであるはずはないのですが。

 レフ・ニコラエヴィチは、全財産を公共のものにしようと考え、子どもたちの生活と教育のために財産を保存してほしいと考える妻ソーフィヤと対立しました。
 ソーフィヤは、レフより16歳年下で、相思相愛13人の子をなした妻であるけれども、最晩年のこの「全財産放棄」には、賛成しなかった。

 家族との意見の食い違いは、文豪の心を痛めました。
 結局、一部分の財産は、妻や子にも残されることとなったのですが、家族との対立に苦しんだ82歳の文豪は、秘書を務めていた娘ひとりだけを連れ旅に出ます。

 旅の途上、小さな駅で倒れ、そのまま亡くなりました。
 遺体は遺言のとおりヤースナヤ・ポリーニャ屋敷に戻され、敷地内に埋葬されました。 残された屋敷は、現在ロシア国立博物館になっています。

<つづく> 


2008/09/07
ぽかぽか春庭・言海漂流>ロシア文化フェスティバル(4)トルストイと小西増太郎と老子

 晩年のトルストイが私有財産否定の思想に至ったというと、1910年のトルストイの死後7年目にして成立したソビエト連邦との関連がすぐに思い浮かびますが、トルストイはマルクスやレーニンの思想との関連によって思想を形成したのではありません。
 晩年のトルストイの考え方は、老子の思想によって導かれ、無政府主義、非暴力主義へとつながるものでした。

 トルストイは、若い頃から東洋に心惹かれ、最初に入学した大学もカザン大学東洋語学科でした。結局大学を卒業することはなかったけれど、東洋にひかれる気持ちは最後まで文豪にあり、晩年の考え方は、東洋思想の研究によって深まっていきました。
 彼の思想は、両親亡き後、後見人となったおばのキリスト教信仰と東洋思想との融合した物として形成されました。

 老子とトルストイ。
 ひとりの日本人との出会いが介在しています。
 『トルストイを語る』という著作を残しているロシア語学者小西増太郎(1862~1940(昭和15)年)
 増太郎は、ロシア語学者としてはもはや知る人もいなくなった人だけれど、私ほどの年代の人になら、野球解説者小西得郎の父親といえば、ああ、あの小西節の、と、息子の名前に覚えがある人もいるでしょう。

 1892(明治25)年11月から1893年3月まで、小西はロシアのトルストイとともに中国の老子を共訳しました。
 この交流については太田健一の『小西増太郎トルストイ・野崎武吉郎-交情の軌跡』という著作がありますが、未読です。

 トルストイは小西のロシア語訳や英語訳をもとに『老子の金言』を執筆し、老子の「無為自然」の思想に傾いた。作為を捨て、老子の言う「無為自然」の状態に至るには、所有する領地を農民に返し、伯爵という称号を返上する。
 しかし、トルストイのこの「東洋思想への傾斜」は、ソフィア夫人はじめ家族にとっては、理解しがたいものでした。

 財産の世襲をめぐって家族と対立した文豪が、寂しく旅にでて、旅の途上小さな駅でなくなったことは、先に記したとおり。このとき心痛めた文豪は82歳。

 この少し前79歳のトルストイについて、画家レーピンが描写している文章があります。
 1907年、79歳のレフ・ニコラエヴィチを訪問した画家レーピンは、文豪がおいてなお健康で、訪問時にはいっしょに馬の遠乗りをしたことを記録しています。

 レーピンが描写した79歳のレフ・ニコラエーヴィチ。
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 わが森の帝王は、イギリス風のだく足で駆けだした。木漏れ日が、彼のひげを金色に照らしている。帝王はますます速度をはやめ、わたしはそれについて行く。
 すると前途に、白樺が道をさえぎって、遮断機のように折れているのが見えた。
 とまらなくては、、、。まったくどきんとするほどだった。横木が彼の胸にあたるではないか。馬は疾駆する。だがレフ・ニコラーエヴィチは瞬間、鞍に身をかがめ、アーチの下をくぐり去った。(イリヤ・レーピン回想録『ヴォルガの舟ひき』( 松下裕訳中公文庫,1991)
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 レーピンの描写した文豪はまさに「帝王」の風格を見せていますが、相愛だった妻とのソフィアとの財産相続をめぐる争いは、文豪をすっかり老いさせてしまったのでしょう。

 小西増太郎は、トルストイに最初に出会った日本人であり、徳富蘆花に紹介状を書いてやり、トルストイとの面会を可能にしてやった人です。
 蘆花はトルストイの日本紹介に、大いに力をふるった人で、日本でトルストイが聖人扱いされるようになったのも、蘆花の『順礼紀行』などの著作によるところが大きい。

<つづく> 


2008/09/08
ぽかぽか春庭・言海漂流>ロシア文化フェスティバル(5)トルストイ没後百年の空中ブランコ

 2010年は、文豪レフ・ニコラエーヴィチ・トルストイの没後100年目。
 さまざまな行事がモスクワやぺてるレニングラード、とりわけ生地にして墓所であるヤースナヤ・ポリーニャのトルストイ博物館では盛大なイベントが行われることと思います。

 ウラジーミル・トルストイ博物館長の講演の背景には、緑の中に立つ白いお屋敷がプロジェクターに映し出されており、トルストイファンなら、一生に一度は行ってみたいと思うでしょう。

 私のそばに座っていた70代くらいのオバサマ3人組は、博物館の中を映したヴィデオ上映の最中も、「あそこに行って来た」だの「いいわねぇ、私も行ってみたい」だのと、にぎやかにしていましたが、きっと全世界からトルストイファンが押し寄せるのではないでしょうか。

 小説家、思想家として、ロシア文学ロシア文化にとって、トルストイは偉大な「文化遺産」です。晩年には「私有財産否定」に至った思想の軌跡、老子思想との関連を含めて、もう一度、作品をじっくり読んでみたいと思います。

 ウラジーミル館長は、講演まとめのあいさつのなかで、ロシア文化フェスティバルにふれ、「ボリショイサーカスの演技を見て、日本の人々が大歓声をあげているのを知り、ロシア文化が日本の人々の心に深く入っていることを感じた」と、述べていました。

 講演会が行われた7月25日の前々日、私は、娘息子とボリショイサーカスを見ました。
 千駄ヶ谷の東京体育館。
 サーカスは、11頭のアムール虎が目玉の、2時間公演。
 A席は3階だったけれど、真正面の席で、見やすかった。

 子どもたちが小さいときは、毎年のようにボリショイサーカスを見ました。新聞販売店が読者サービスに配布する招待券に応募して、チケットお手にいれたのです。
 夏休みは、乳業企業が募集する「親子で牧場見学会」とか、電力会社募集の「親子で水力発電所見学バスピクニック」などの無料のイベントをさがして夏休みを過ごせていました。水道局が募集した「水源をたどるハイキング」なんてのもあったなあ。
 貧しい一家も、工夫で子どもの思い出に残る夏をみつけて過ごしていたのです。

 サーカスは、2003年を最後に、ここ数年見ていませんでした。娘は、「子どもの頃は毎年見るのが楽しみだったし、今も見ればおもしろいし楽しめるけれど、大人になってみたら、そんなに毎年見なくても、数年に一度で十分」というのです。
 シーソーアクロバットも、クマのサーカスもどきどきしたり、ほのぼのしたり、楽しかったです。

 空中ブランコでは、「これより3回転宙返りに挑戦します」というアナウンスのあった目玉演技で、ブランコ乗り演技者は手をつなぐことに失敗し、ネット上に落下しました。
 虎たちも、とても機嫌が悪くて、ガォ~と吠える声も勇ましく、虎使いの鞭に抵抗していました。たぶん、予定されていた目玉の演技ができなかったのだろうと思います。虎の行進も中途半端なまま、虎たちは檻に戻されました。

 どきどきハラハラ興奮するけれど、集まっているどの子も、みな楽しそうにニコニコしています。
 虎がガォ~と吠える声にびくっとしても、それは、安全なガオォ~にすぎない。
 平和やなあ。
 歩いている足の下に地雷もない、空からクラスター爆弾もふってこない。
 
 レフ・ニコラエヴィッチが夢見た「みなが分け与えあい、暴力と武力のない平和な世界」に全世界がなるのには、まだまだ遠いかもしれません。ロシアには、まだまだ紛争の種がつきません。
 世界中の子どもたちが平和な世に生きているとトルストイに報告できる日はいつになることでしょうか。

<おわり>
コメント
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