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ぽかぽか春庭「私がリケ女だったころー夢見るころを過ぎても」

2014-03-29 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/03/27
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記3月(5)私がリケ女だったころ-夢見る頃を過ぎても

 水織ゆみのシャンソンプチコンセール『至誠のカトレア吉岡彌生(よしおかやよい)伝』
 舞台がおわり、水織ゆみさんといっしょの記念撮影もおわって、晩御飯を食べに行きました。ミサイルママが「私、晩ご飯食べていないから、いっしょに食べよう」というので、ジャスダンス仲間5人でゆみさんの舞台の感想を語り合いながら、遅い晩ご飯をとることになったのです。私はゆみさんの舞台が始まる前に夕御飯を食べたのですが、夕御飯と晩御飯は別、と思ってもういちど食べました。だから太るんだってことは承知で。

 ミサイルママが「吉岡彌生って、ゆみさんの舞台見るまで知らなかった。東京女子医大つくった人だったんだね。e-Naちゃん、この人のこと、知ってた?」と聞くので、「私、田舎から東京に出てきて、いちばん先に見たのが吉岡彌生の伝記映画だったの。私、東京女子医科大学の内科検査室で検査の仕事やってたんだよ」と話しました。

 20歳で東京に出て、東京女子医科大学の「内科研究助手」という仕事に就きました。新入の職員に与えられた仕事の一番最初が「学祖の事績を知る」ということでした。学祖、吉岡彌生ついて、伝記映画を見るまで、その名も知りませんでした。楠本稲(シーボルトの娘。幕末明治時代の最初の女医)や荻野吟子(明治の国家試験による女医第1号)は知っていたけれど、上京するまで吉岡彌生について聞いたこと読んだこともなかったのです。

 配属された内科検査室で「研究助手」って何をするのかもわかっていませんでした。仕事は、臨床検査技師といっしょに検査をやるってことがわかりました。え~、そんな専門的な仕事、私がやっていいいの?と思いながらも、教わりながら、尿検査、血液検査のやり方を覚えていきました。臨床検査技師の指導のもとに補助をするという名目ではありましたが、実質的には、次々と検体をこなさなければならず、覚えることがたくさんありました。

 顕微鏡を覗いて修業中         検査中     
  
 写真で見ると、私もリケ女ふう。割烹着でなく、フツーの白衣を着て仕事していました。

 内科検査室はとてもなごやかで、よい職場でした。他の人達はみな臨床検査の専門学校を卒業した、れっきとした技師さんたち、男性ひとりと、女性7人です。斎藤室長はじめ技師さんたちは、何の資格もない助手だった私に、分け隔てなく仲間として親しんでくれたし、検査技術のいろいろなことを教えてくれました。最初は尿検査ばかりで尿糖の測定をやっていましたが、やがて血液画像を見て、健康な白血球と異常のある白血球像を見分けることもできるようになりました。

 仕事を始めてから1年後に内科検査室長から試験を受けるように言われて、順天堂大学病院で「衛生検査士」の試験を受けて合格しました。内科検査室長は自分で受験を勧めたのに、「えっ、1回目の受験で合格したの!」と、驚き、「3年くらいかけて合格できればいいと思っていたんだけど、合格しちゃったなら、まあよかった」と、言いました。

 「衛生検査技師」は、臨床検査技師とほぼ同じ検査業務ができますが、心電図検査や脳波検査、肺機能検査などの生理学的検査はできません。
 2011年に、衛生検査技師資格は、臨床検査技師と統合されて、新規にこの資格をとることはできなくなりました。しかし、2011年以前に取った資格は有効なので、もし、私が病院で働こうと思えば、理屈としては検査業務ができることになっています。どこの病院も採用してくれないでしょうけれど。

 1970年の東京女子医科大学にあった病院の建物は、ほとんどが新しいビルに変わっていて、歴史的建造物である一号館が残っているくらいです。内科検査室という部署も改変されて、今はありません。
 上京したばかりの私がすごした東京女子医科大学。短い間だったけれど、なつかしく思い出深い場所のひとつです。

 私にとって内科検査室が居心地のよい暖かい場所だったのは、なによりも「女性が職業を持って社会に生きていく」ということを大切にした吉岡彌生の精神がずっと生きていたからだったと、水織ゆみさんの歌ものがたりを聞きながら思いました。

 あのまま、女子医大の検査室に残って仕事を続けていたら、また別の人生だったんだろうなあと思います。でも、衛生検査技師の資格をとるとまもなく、内科検査室の仕事をやめてしまいました。どんなに努力しても、私は徹底的に文系の人間であり、リケ女ではないと思うようになったからです。

 地元の地方公務員をやめて上京し、病院の仕事もやめて、3番目の仕事は、船会社の英文タイピスト。私の13回転職の最初の3つです。5番目が中学校国語教諭で、6番目が旅回りの役者。半年だけプロの役者やったけれど、できちゃった婚で終了。13番目の仕事が大学講師。これは現在まで25年間続いています。

 夢見る頃だった20歳。年月は遥か遠くまですぎてしまいました。髪は白髪になり、体重は20Kg増しとなりましたが、今の私はわたしで、夢見ているんです。実らぬ夢のダイエット?いえいえ、夢は大きく果てしなく。

20歳、夢見る少女だったころの春庭(女子医大構内で)


女子医大でのスナップ

 現在、東京女子医科大学の研究チームは、言語の文法機能を司っている脳の部位をつきとめたのだそうです。ことばの探求は、広く深くどこまでも。

<おわり>
コメント (4)
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