
20230207
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>2023シネマ拾遺(2)Wish
2023年末、舞浜イクスピアリシアターで映画を2本見ました。「Wish 」「君たちはどう生きるか」。
ディズニーが「蒸気船ミッキー」を発表してから100年目に当たるアニバーサリーイヤーということで、本編上演前に、これまでディズニー映画に出てきたキャラクターが総勢で記念写真をとると言う短編がありました。子どものころから見続けてきたディズニーのキャラクター。私が田舎の映画館で最初に見たディズニー映画は『ダンボ』でしたし、ウォルトディズニーがホスト役で登場していたテレビ番組を毎週欠かさず見て、アメリカの物質的豊かさに圧倒されてい育ったことが思い出されて、74歳は、ディズニーキャラクターが並んで記念撮影に集まってくるのを見ているだけで涙出てくる思い。
ウィッシュは、そんなアニバーサリーイヤーの記念作として力を入れた作品というので、楽しみにしていました。
ほんとうは字幕版を見たかったけれど、続けて「君たちはどう生きるか」を二本立てで見る予定だったので、続けて見られるように吹き替え版を見ました。アーシャは生田絵梨花、マグニフィコ王の声が福山雅治。ふたりとも、とても上手でした。
画面はきれいで、人々の願いが空にシャボン玉のように浮かんでいます。ラプンツェルのランタンのようで夢のように美しく浮いている映像がきれいでしたし、アーシャの王国のひとつひとつが美しいのだけれど、なんだろう、このすべての既視感。ディズニーのお約束の、しゃべるペット(アーシャのペットはヤギ)や悪辣な王様、あたたかい家族や仲間たち。定番のストーリーが展開するのに、物足りない感じが残りました。
隣の席の母親は、保育園くらいの娘に「面白かった?プリンセス出てこなかったけれど、面白かったの?」と聞いていました。女の子はこっくりうなずいていたので、母親も映画代金無駄にならないでよかったという雰囲気で席をたちました。
アーシャはプリンセスじゃなく、イケメンとの恋愛シーンもない。王妃が、アーシャの活躍に心を動かされて夫に背くということろ。アマヤ王妃は変化したのです。よって、王国の人々の願いが守られたのですが、なんだか物足りない。プリンセスじゃなくても、主人公うさぎ女の子が警察官になりたくて活躍し、地域を守るストーリーは物足りる話でした。歌もうまいし人々の為に行動するアーシャなのに、なにが物足りなかったのか。
ディズニーの100年の物語を全部詰め込んだと思うようななじみのストーリーなのに、このなじみすぎる感覚がいけないのだろうか。見て損したとはおもわない。ディズニー映画として上々の出来と思いました。でもね、、、
アニメ制作の技法として、ディズニーが次々と新しい映像テクニックを開発してきた100年の歴史を引き継いで、きっと私にはすぐにはわからない新技法があったのかもしれない。それなのに、ウィッシュに「こんな新しい世界を見せてもらって、ありがとう」という気持ちが持てなかったのです。
唯一、マグニフィコ王の妃が王に従わないところが、予想とたがえたところ。王妃も自我を発揮して夫に背くということろが、100年目のコンプライアンスにもかなう。
それに対してアーシャは、人々の願いをかなえるためにお城にのぼって王と対峙する強さを持ち、最後まで人々のために奮闘する。つまり、アーシャは最初から強い心を持つ女性で、最後まで強い。たぶん、私は女性の成長物語が好きなのだろう。
生田恵梨香の歌はとても上手でしたが、アナ雪の歌を世界中の女の子が覚えて映画館で合唱したのとことなり、どうにも覚えられない歌のように感じます。
もの足りないない思いはありましたが、15分後に始まる「君たちはどう生きるか」の上映室へ向かいました。

ミッキーの蒸気船から100年。現在ディズニーランドキャラクターになっている今のミッキーはまだ著作権が切れていませんが、初代の蒸気船のミッキーは著作権がきれました。度重なるミッキーマウス保護法によって著作権が守られてきたディズニーですが、さすがにこの度の100年たった蒸気船ミッキー著作権切れは受け入れるようです。くまのプーさんの著作権切れによって「あくまのプーさん」などが作られたように、「悪の手先ゾンビのミッキー」なんていう作品も出てくるかも。蒸気船のミッキーがタイタニックの沈没に遭遇し、海に漂っている人々をゾンビ化していくとか。
思うに、今後のディズニーの方向では、アニメの実写化が進むでしょう。ただし、たったひとつ実写化されない作品として、「ノートルダムの鐘」があげられるかも。ディズニーのアニメは「 The Hunchback of Notre Dame 」ヴィクトル・ユーゴー原作は「Notre-Dame de Paris 」
日本語タイトルに「ハンチバック=せむし」が使えなかったのは、ハンチバックが英語ではコンプライアンスにひっかからないのに対し、めくらもびっこもつんぼも、身体障碍を表すことばをことごとく「差別用語」にしてきた日本語のコンプラにより、「せむし」も日本語文脈の中には使えない。日本語の身体障害を表すことばが差別用語になったのは、日本文化の中では身体障碍者が差別の対象になってきたからだ。
体の不自由さにより世間から隔離されて育ったアニメ版のカジモドが、エスメラルダに恋する姿はかわいらしく、見る人の共感を得られるよう描かれている。一方、2023年後期芥川賞作品「ハンチバック」を読んだ友人の読後感「読んでいるうち、ひたすらつらくて苦しくなって気分落ち込み、最後まで読み通すことができなかった」という感想だった。身体障碍を持つ人が、紙の本のページをめくることすら思いのままにはできずに、「データ化されていない本を読むことから疎外されている」という事実を、見て見ぬふりをしてきた日本社会がある。友人はそのことを思いもせずに、これまでは「私は身体の不自由な人を差別したことなどない」と思ってきた。しかし、無意識下では差別解消には取り組んでいなかった、ということを突き付けられ、つらくて読み続けられなかった、という。たぶん、私も無意識化の差別をしているに違いない。
ときどき映画などに出演する「小人」。たとえば「グレイテスト・ショーマン」に出てくる小人症の男、結合双生児が見世物として扱われことにつらさを感じて、障害を持つ方が登場する画面を笑ってみることができない。日本の小人プロレスが「ツバキReiNGz[z」として復活した、ということですが、もともとプロレスにうといこともあり多分見に行くことはない。小人症の人が活躍する場があることはいいことだとわかってはいても、楽しんでみる気にはなれません。これってたぶん、小人症の人の活躍する場を狭めてしまう感覚なのでしょう。
「ノートルダムのせむし男」がディズニーで実写化され、日本の観客がフラットな気持ちで見ることが可能な社会を、日本は作っていくことができるのだろうか。私はまだ市川沙央 「ハンチバック」を 読んでいない。
<つづく>