蛭ヶ児島は、伊豆の国市役所の北東約4kmのところ
伊豆箱根鉄道にらやま駅の東約1kmの所に公園が有ります

蛭ヶ小島公園駐車場です

蛭ヶ小島です

頼朝・政子の像が有ります

頼朝政子の縁結び説明版です
頼朝と政子(梛の葉の縁結び)
北條時政が大番役の一人として京に上り伊豆を留守にしている間(1177年頃)、31歳の
源頼朝と21歳の北條政子は恋に落ちました。
源氏の御曹司と結ばれたことが表沙汰になると面倒なことになると考えた時政は、政子を伊豆
国目代である山本判官平兼隆の元へ嫁がせようと企てますが、祝言の晩政子は山本館を脱出し、
熱海の東方伊豆山の走湯山権現に逃げ込みました。
当時の伊豆山権現は格式の高い神社である上、多数の僧兵が山にこもっていたので、平兼隆も
北條時政も手出し出来ず、政子のしたためた手紙を受け取った頼朝は、伊豆山に行き、政子と相
会することができたのです。
かくて頼朝と政子は、伊豆山権現の保護によって、そこでめでたく夫婦になることができまし
た。
近世中期の投節のひとつに
こんどござらば持って来てたもれ、伊豆のお山の梛の葉を。
という歌があります。
「こんどおいでになるときは、伊豆のお山のなぎの葉を持って来てくださいね」
という願いのうちに「それをお守りにしたいから。」との意がこめられています、女の方から
男に言った言葉です。
当寺の俗信では、梛の葉を鏡の裏に入れて「お守り」にすると願がかなう(結ばれる)とされ
ていました。
「伊豆のお山」とは伊豆山権現のことです。
源頼朝と北條政子の熱烈な恋愛は伊豆山権現で成就したのですから、この故事にならって梛の葉
は、当時の娘たちのあこがれであり、願であったことでしょう。
梛を鏡の裏のお守りにすることは、寛永の頃こら享保の頃まで流行したようです

古い石碑でしょうか

案内板です
蛭ヶ島(源頼朝配流の地跡)
このあたりを、韮山町四日町蛭ヶ島といい、平治の乱で敗れた源義朝の嫡子、兵衛左頼朝配流の
地といわれている。
狩野川の流路変遷の名残をとどめてか、近在には古河・和田島・土手和田等の地名が現存すると
ころから、往時は大小の田島(中州)が点在し、その一つが、この蛭ヶ島でったことが想像される。
永暦元年(1160)14歳でこの地に流された頼朝は、治承4年(1180)34歳で旙挙げ、
やがては鎌倉幕府創設を成し遂げることとなるが、配流20年間における住居跡等の細部は詳らか
でない。しかし、「吾妻鏡」や治承4年の記事によれば、山木攻め(頼朝旗挙げ)の頃は、妻政子
の父、北条時政の館(当地より西1,5kmの守山北麓)に居住し館内で挙兵準備を整えたとある。
このことから考えrと、頼朝は、政子と結ばれる治承元年(1177)頃までの約17年間を、こ
こ蛭ヶ島で過ごしたものといえよう。
当公園中央部にある「蛭島碑記」の古碑は、源氏が天下支配の大業を果たした歴史の原点を後世
に伝承すべく、寛政2年(1790)伊豆志稿の著者、秋山富南の撰文により、江川家家臣飯田忠
晶が建立したもので、韮山町の有形文化財に指定されている。また、この碑の西側にある高い碑は
秋山富南の顕徳碑で豆州志稿の増訂に当たった萩原正夫が、明治26年に建立したものである。
伊豆の国市

旧上野家住宅です

説明版です
静岡県指定有形文化財 旧上野家住宅
伊豆の国市 歴史民俗資料館
この民家は、韮山間土手和田地区に江戸初期から続く上野家の住宅で、記録こそないが18世紀
中頃以前に建造されたものと推定される。
軒が低く、土間が広く、暗い内部は架構も単純で、中央通りに建つ二本の太い柱は棟持柱となっ
て上まで伸びている。この形式は重要文化財、江川家住宅の四天柱の構造と同じもので現存する庶
民農家の住宅としては、県下にも例の少ない古い形式である。
昭和50年1月、所有者上野唯雄氏から韮山町へ寄贈された。その後昭和50年12月20日、
静岡県の有形文化財(建造物)に指定されたことを契機に、町は国庫及び県費の補助をうけ、韮山
町歴史民俗資料館として昭和54年3月30日解体、移築復元したものである。
平成17年4月1日 文 化 庁
静岡県 教育委員会
伊豆の国市教育委員会

観光案内板です
では、次へ行きましょう

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蛭ヶ小島公園駐車場です


蛭ヶ小島です


頼朝・政子の像が有ります


頼朝政子の縁結び説明版です
頼朝と政子(梛の葉の縁結び)
北條時政が大番役の一人として京に上り伊豆を留守にしている間(1177年頃)、31歳の
源頼朝と21歳の北條政子は恋に落ちました。
源氏の御曹司と結ばれたことが表沙汰になると面倒なことになると考えた時政は、政子を伊豆
国目代である山本判官平兼隆の元へ嫁がせようと企てますが、祝言の晩政子は山本館を脱出し、
熱海の東方伊豆山の走湯山権現に逃げ込みました。
当時の伊豆山権現は格式の高い神社である上、多数の僧兵が山にこもっていたので、平兼隆も
北條時政も手出し出来ず、政子のしたためた手紙を受け取った頼朝は、伊豆山に行き、政子と相
会することができたのです。
かくて頼朝と政子は、伊豆山権現の保護によって、そこでめでたく夫婦になることができまし
た。
近世中期の投節のひとつに
こんどござらば持って来てたもれ、伊豆のお山の梛の葉を。
という歌があります。
「こんどおいでになるときは、伊豆のお山のなぎの葉を持って来てくださいね」
という願いのうちに「それをお守りにしたいから。」との意がこめられています、女の方から
男に言った言葉です。
当寺の俗信では、梛の葉を鏡の裏に入れて「お守り」にすると願がかなう(結ばれる)とされ
ていました。
「伊豆のお山」とは伊豆山権現のことです。
源頼朝と北條政子の熱烈な恋愛は伊豆山権現で成就したのですから、この故事にならって梛の葉
は、当時の娘たちのあこがれであり、願であったことでしょう。
梛を鏡の裏のお守りにすることは、寛永の頃こら享保の頃まで流行したようです

古い石碑でしょうか


案内板です
蛭ヶ島(源頼朝配流の地跡)
このあたりを、韮山町四日町蛭ヶ島といい、平治の乱で敗れた源義朝の嫡子、兵衛左頼朝配流の
地といわれている。
狩野川の流路変遷の名残をとどめてか、近在には古河・和田島・土手和田等の地名が現存すると
ころから、往時は大小の田島(中州)が点在し、その一つが、この蛭ヶ島でったことが想像される。
永暦元年(1160)14歳でこの地に流された頼朝は、治承4年(1180)34歳で旙挙げ、
やがては鎌倉幕府創設を成し遂げることとなるが、配流20年間における住居跡等の細部は詳らか
でない。しかし、「吾妻鏡」や治承4年の記事によれば、山木攻め(頼朝旗挙げ)の頃は、妻政子
の父、北条時政の館(当地より西1,5kmの守山北麓)に居住し館内で挙兵準備を整えたとある。
このことから考えrと、頼朝は、政子と結ばれる治承元年(1177)頃までの約17年間を、こ
こ蛭ヶ島で過ごしたものといえよう。
当公園中央部にある「蛭島碑記」の古碑は、源氏が天下支配の大業を果たした歴史の原点を後世
に伝承すべく、寛政2年(1790)伊豆志稿の著者、秋山富南の撰文により、江川家家臣飯田忠
晶が建立したもので、韮山町の有形文化財に指定されている。また、この碑の西側にある高い碑は
秋山富南の顕徳碑で豆州志稿の増訂に当たった萩原正夫が、明治26年に建立したものである。
伊豆の国市

旧上野家住宅です


説明版です
静岡県指定有形文化財 旧上野家住宅
伊豆の国市 歴史民俗資料館
この民家は、韮山間土手和田地区に江戸初期から続く上野家の住宅で、記録こそないが18世紀
中頃以前に建造されたものと推定される。
軒が低く、土間が広く、暗い内部は架構も単純で、中央通りに建つ二本の太い柱は棟持柱となっ
て上まで伸びている。この形式は重要文化財、江川家住宅の四天柱の構造と同じもので現存する庶
民農家の住宅としては、県下にも例の少ない古い形式である。
昭和50年1月、所有者上野唯雄氏から韮山町へ寄贈された。その後昭和50年12月20日、
静岡県の有形文化財(建造物)に指定されたことを契機に、町は国庫及び県費の補助をうけ、韮山
町歴史民俗資料館として昭和54年3月30日解体、移築復元したものである。
平成17年4月1日 文 化 庁
静岡県 教育委員会
伊豆の国市教育委員会

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