横旗地区は、根羽村役場の北北東約3kmのところ
国道153号線で小川川沿いを北へ進みます
横畑集落の手前で信玄橋を渡ります、直ぐ先の左に信玄塚の大きな看板が出ています
国道右手に駐車スペースがあり、国道西面には風林火山騎馬隊の大きな壁画を見る事が出来ます

信玄橋です(駐車スペース側から見ました)

信玄塚はこちらです

大きな信玄塚看板です

信玄塚入口です

信玄塚宝篋印塔を見に行きましょう

水盤です


文化財標柱です

説明版です
信玄塚 宝篋印塔の由来
信玄塚
武田信玄は、三河野田城(愛知県新城市)攻略中に肺肝を患い、田口・津具を経て甲斐国へ引き返す途中、天正元年(元亀4年・1573)4月12日、53歳にて、ここはばねの上村において他界された。(甲陽軍鑑より)その折、風林火山の旗を横にしたのでこの地を横畑という。
信玄公が葬られているとされている信玄塚は村史跡に指定されており(昭和56年指定)、現在の国道153号線沿いの風林火山騎馬隊の大壁画の東方国道敷に埋没されている。
宝篋印塔
寛文年間(1661~1673)の頃、信玄公百年目の遠忌に際し、供養のため、武田家ゆかりの人々によって建立されたと伝えられているが、塔の形式等から室町末期と推測されている。
花崗岩製で高さ1,84m、塔身に四仏を表す梵字が刻まれており、塔の規模、様式から見て城主・大名格のものであるとされている。
平成6年3月
根羽村教育委員会

鳥居が有ります、懸け額には八幡社とあります

信玄塚の宝篋印塔です

こちらの説明版も内容的には同じものです

左手の祠です


石塔が並びます
国道の法面にモザイクで風林火山の出陣シーンが表現されています

法面表示版です

国道説明版です
信玄塚が国道に埋没しているということは、私達は信玄公の墓の上を通っているのでしょうか
では、次へいきましょう
国道153号線で小川川沿いを北へ進みます
横畑集落の手前で信玄橋を渡ります、直ぐ先の左に信玄塚の大きな看板が出ています
国道右手に駐車スペースがあり、国道西面には風林火山騎馬隊の大きな壁画を見る事が出来ます

信玄橋です(駐車スペース側から見ました)


信玄塚はこちらです


大きな信玄塚看板です


信玄塚入口です


信玄塚宝篋印塔を見に行きましょう


水盤です



文化財標柱です


説明版です
信玄塚 宝篋印塔の由来
信玄塚
武田信玄は、三河野田城(愛知県新城市)攻略中に肺肝を患い、田口・津具を経て甲斐国へ引き返す途中、天正元年(元亀4年・1573)4月12日、53歳にて、ここはばねの上村において他界された。(甲陽軍鑑より)その折、風林火山の旗を横にしたのでこの地を横畑という。
信玄公が葬られているとされている信玄塚は村史跡に指定されており(昭和56年指定)、現在の国道153号線沿いの風林火山騎馬隊の大壁画の東方国道敷に埋没されている。
宝篋印塔
寛文年間(1661~1673)の頃、信玄公百年目の遠忌に際し、供養のため、武田家ゆかりの人々によって建立されたと伝えられているが、塔の形式等から室町末期と推測されている。
花崗岩製で高さ1,84m、塔身に四仏を表す梵字が刻まれており、塔の規模、様式から見て城主・大名格のものであるとされている。
平成6年3月
根羽村教育委員会

鳥居が有ります、懸け額には八幡社とあります


信玄塚の宝篋印塔です


こちらの説明版も内容的には同じものです


左手の祠です



石塔が並びます

国道の法面にモザイクで風林火山の出陣シーンが表現されています


法面表示版です


国道説明版です

信玄塚が国道に埋没しているということは、私達は信玄公の墓の上を通っているのでしょうか

では、次へいきましょう

