高遠町山室地区は、伊那市役所の東約12kmのところ
国道361号線で東へ、かつての高遠町へ
国道152号線を南へ大鹿方面へ向かいます
美和ダムサイトの先、非持信号で県道211号線を北へ向かいます
約5kmで県道に面して遠照寺が西向きに在ります
山門の手前に広い
駐車場が有ります



参道入口です

南無立正大師報恩塔です

日朝尊者開創之霊跡の石碑です

日蓮宗の南無妙法蓮華経の石碑です、正徳4(1714年)の文字が見えます

鐘楼です

本堂です

参道を真直ぐに進むと正面には、宗門史跡になっている御堂です

左手の南向き茅葺屋根の建物が国指定重要文化財の釈迦堂です、多宝塔は分かりませんでした

説明版です
国指定重要文化財
遠照寺釈迦堂・多宝小塔
釈迦堂は、方三間の単層入母屋造りの建築で、和様を主としながら、これに唐様、天竺様を加味した折衷様式で、このような様式は京都以東ではほとんど見られない。須弥壇裏板に天文7年(1538)、来迎壁裏面には天文18年(1549)の墨書がありその頃の建築と思われる。
建物内部の来迎柱から正面に二本の虹梁を渡しその上に組物を置き、更に鏡天井をのせた構造は特異の形式である。また、木鼻は三種あるが動物様のものは珍しい。
多宝小塔は堂内に安置されている小塔で、建造は文亀2年(1502)、長野県に現存する多宝塔としては最古のもので、室町時代の建築様式をよく伝えている。
大工は塔内部の墨書により、高遠鉾持の住人、名工・池上左衛門大夫政清とその一族であったことがわかっている。
続いて
伊那市指定有形文化財(昭和62年7月14日指定)
遠照寺 七面堂
釈迦堂の脇を上り詰めたところにある七面堂は、永正3年(1506)、遠照寺二世日周上人の代に創建されたお堂で、現在の建物は元禄11年(1698)から享保3年(1718)の間に再建され、その後、度重なる修理を経て現在に至っている。
本尊は「七面様」といわれる七面天女尊像で、日蓮宗の準宗宝に指定されるなど、七難を払う霊験あらたかな神として、近郷の信仰を集めた。
間口六間、奥行四間の入母屋造りの堂内には、極彩色の欄間彫刻や天井絵(山室区の北原清介「画号・雪村」作)があり、本尊のほか、三光天子、鬼子母尊神が安置されている。

国宝釈迦堂の石碑です

説明版です
眼病御守護の日朝様
開山の行学院日朝聖人を祀る
当山は、文明5年(1473年)日朝聖人によって天台宗から日蓮宗に改宗され、谷室山天福寺(天福元年1233年開創)から寺号を改め妙朝山遠照寺となった。
山号は、日朝聖人御両親の法号(朝善 妙秀)から一字づついただいている。
日朝聖人は、応永29年(1422年)伊豆伊東宇佐美の御誕生である。宗祖日蓮聖人の再来と仰がれ、身延山十一中興の祖として、今日の身延山の盤を築いた名僧である。
殊に眼病守護の「日朝様」として崇拝せられ信心の志厚き者には、極めて霊験顕著にして現に利生を得る者多しく、昔より「山室の日朝様」として、近郷広く渇仰される所以である。
妙朝山 遠照寺

絵島の分骨墓です

説明版です
絵島様分骨の墓
高遠へ流された最初の6年間、長谷村非持の火打平(ひょうじだいら)の囲み屋敷にいた頃、絵島様は、漢字の書借りたことが縁となって遠照寺に参詣するようになりました。
絵島様はそこで、当時界隈きっての名僧と謳われた遠照寺中興の祖見里院日耀上人と出会い聖人に導かれて、女人成仏を説く法華経の教えに深く帰依するようになったといいます。
遠照寺では、藩の許可を得て「絵島の間」なる一室を設けて絵島様を迎え、絵島様は、日耀上人の法話を聞き、上人と碁を打つのを唯一の楽しみとしたと言います。流人生活を送られる絵島様にとっては、厳しい冬の中に訪れた小さな日溜りのような魂の安らぎの日々でありました。
高遠での絵島様は、一汁一菜精進潔斎のうちに自らを律し、法華経の轉読と唱題を日課として、み仏に帰依した静かな日々の中に後半生を送られたといいます。それは自らの罪への激しい悔い坑がいと贖罪の日々でもありました。
寬保元年(1741)旧暦4月10日寂、享年61歳 法名 信敬院妙立日如大姉
墓地には遺言により歯骨と毛髪が納められています。

歌碑でしょうか

七面堂へ行きましょう

町指定文化財 遠照寺七面堂と

末法総鎮守 七面天女大明神の石塔です
石段を登ると

七面堂です

正面の軒です

南側の軒です

南側の建物です

北西側から見ました

七面堂前から登って来た石段を見下ろしました
では、境内の木々を見てまいりましょう
国道361号線で東へ、かつての高遠町へ
国道152号線を南へ大鹿方面へ向かいます
美和ダムサイトの先、非持信号で県道211号線を北へ向かいます
約5kmで県道に面して遠照寺が西向きに在ります
山門の手前に広い




参道入口です


南無立正大師報恩塔です


日朝尊者開創之霊跡の石碑です


日蓮宗の南無妙法蓮華経の石碑です、正徳4(1714年)の文字が見えます


鐘楼です


本堂です


参道を真直ぐに進むと正面には、宗門史跡になっている御堂です


左手の南向き茅葺屋根の建物が国指定重要文化財の釈迦堂です、多宝塔は分かりませんでした


説明版です
国指定重要文化財
遠照寺釈迦堂・多宝小塔
釈迦堂は、方三間の単層入母屋造りの建築で、和様を主としながら、これに唐様、天竺様を加味した折衷様式で、このような様式は京都以東ではほとんど見られない。須弥壇裏板に天文7年(1538)、来迎壁裏面には天文18年(1549)の墨書がありその頃の建築と思われる。
建物内部の来迎柱から正面に二本の虹梁を渡しその上に組物を置き、更に鏡天井をのせた構造は特異の形式である。また、木鼻は三種あるが動物様のものは珍しい。
多宝小塔は堂内に安置されている小塔で、建造は文亀2年(1502)、長野県に現存する多宝塔としては最古のもので、室町時代の建築様式をよく伝えている。
大工は塔内部の墨書により、高遠鉾持の住人、名工・池上左衛門大夫政清とその一族であったことがわかっている。
続いて
伊那市指定有形文化財(昭和62年7月14日指定)
遠照寺 七面堂
釈迦堂の脇を上り詰めたところにある七面堂は、永正3年(1506)、遠照寺二世日周上人の代に創建されたお堂で、現在の建物は元禄11年(1698)から享保3年(1718)の間に再建され、その後、度重なる修理を経て現在に至っている。
本尊は「七面様」といわれる七面天女尊像で、日蓮宗の準宗宝に指定されるなど、七難を払う霊験あらたかな神として、近郷の信仰を集めた。
間口六間、奥行四間の入母屋造りの堂内には、極彩色の欄間彫刻や天井絵(山室区の北原清介「画号・雪村」作)があり、本尊のほか、三光天子、鬼子母尊神が安置されている。

国宝釈迦堂の石碑です


説明版です
眼病御守護の日朝様
開山の行学院日朝聖人を祀る
当山は、文明5年(1473年)日朝聖人によって天台宗から日蓮宗に改宗され、谷室山天福寺(天福元年1233年開創)から寺号を改め妙朝山遠照寺となった。
山号は、日朝聖人御両親の法号(朝善 妙秀)から一字づついただいている。
日朝聖人は、応永29年(1422年)伊豆伊東宇佐美の御誕生である。宗祖日蓮聖人の再来と仰がれ、身延山十一中興の祖として、今日の身延山の盤を築いた名僧である。
殊に眼病守護の「日朝様」として崇拝せられ信心の志厚き者には、極めて霊験顕著にして現に利生を得る者多しく、昔より「山室の日朝様」として、近郷広く渇仰される所以である。
妙朝山 遠照寺

絵島の分骨墓です


説明版です
絵島様分骨の墓
高遠へ流された最初の6年間、長谷村非持の火打平(ひょうじだいら)の囲み屋敷にいた頃、絵島様は、漢字の書借りたことが縁となって遠照寺に参詣するようになりました。
絵島様はそこで、当時界隈きっての名僧と謳われた遠照寺中興の祖見里院日耀上人と出会い聖人に導かれて、女人成仏を説く法華経の教えに深く帰依するようになったといいます。
遠照寺では、藩の許可を得て「絵島の間」なる一室を設けて絵島様を迎え、絵島様は、日耀上人の法話を聞き、上人と碁を打つのを唯一の楽しみとしたと言います。流人生活を送られる絵島様にとっては、厳しい冬の中に訪れた小さな日溜りのような魂の安らぎの日々でありました。
高遠での絵島様は、一汁一菜精進潔斎のうちに自らを律し、法華経の轉読と唱題を日課として、み仏に帰依した静かな日々の中に後半生を送られたといいます。それは自らの罪への激しい悔い坑がいと贖罪の日々でもありました。
寬保元年(1741)旧暦4月10日寂、享年61歳 法名 信敬院妙立日如大姉
墓地には遺言により歯骨と毛髪が納められています。

歌碑でしょうか


七面堂へ行きましょう


町指定文化財 遠照寺七面堂と


末法総鎮守 七面天女大明神の石塔です

石段を登ると


七面堂です


正面の軒です


南側の軒です


南側の建物です


北西側から見ました


七面堂前から登って来た石段を見下ろしました
では、境内の木々を見てまいりましょう
