2021年12月22日に早詣での為大宮氷川神社へ行って来ました
つづきです
氷川神社参道を、一の鳥居から歩いて来ました
三の鳥居です、境内入口に成ります
大宮二十景・②悠久の神域・氷川神社案内標柱です
鳥居手前左の境内案内版です
武蔵一宮 氷川神社
鎮座地 埼玉県さいたま市大宮区高鼻町
御祭神 須佐之男命
稲田姫命
大己貴命
例祭日 8月1日
社殿 銅板葺流造
境内 約3万坪
由緒
氷川神社は今から凡そ2千有余年前、第5代孝昭天皇の御代3年4月末の日の御創立と伝えられます。当神社は、歴朝の御崇敬・武将の尊崇も篤く、景行天皇の御代日本武尊は東夷鎮定の祈願をなされ、成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命により武蔵国造となって氷川神社を専ら奉崇し、善政を布かれてから益々神威輝き、聖武天皇の御代には武蔵一宮と定められました。醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名帳には名神大社として、月次新嘗案上の官幣に預り又臨時祭にも奉幣に預っております。
武家時代になってからは鎌倉、足利、徳川の各将軍家等相継いで尊仰し、奉行に命じて社殿を造営し社領を寄進する等、祭祀も厳重に行われておりました。
明治元年には明治天皇が氷川神社を武蔵国の鎮守・勅祭の社と御定めになり、当社に行幸、御親ら祭儀執り行われ、同3年にも再び御親祭されました。明治4年には官幣大社に列せられ、同11年には明治天皇が三度目の行幸、御親拝をされ、大正10年には大正天皇御親拝されました。
昭和9年には昭和天皇が御親拝、同38年今上陛下が皇太子時に御参拝され、同42年には明治天皇御親祭百年大祭が執り行なわれ、社殿、他諸建物の修復工事が完成しました。また昭和天皇・皇后両陛下御揃いで御親拝されました。昭和62年には今上陛下が皇太子時に同妃殿下と御揃いで御参拝され、平成5年5月には天皇皇后両陛下が御揃いで御親拝になられました。
*ここにある「今上陛下」は2022年現在の「上皇」様です。
境内神社
摂社 門客人(もんきゃくじん)神社 足摩乳命(あしなづちのみこと)
手摩乳命(てなづちのみこと)
同 天津(あまつ)神社 少彦名命(すくなひこなのみこと)
同 宗像(むなかた)神社 多起理比売命(たぎりひめのみこと)
市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)
田寸津比売命(たぎつひめのみこと)
末社 天満(てんまん)神社 菅原道真公(すがわらみちざねこう)
同 松尾(まつお)神社 大山咋命(おおやまくいのみこと)
同 御嶽(みたけ)神社 大己貴命(おおなむちのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
同 稲荷(いなり)神社 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
六社
末社 山祗(やまづみ)神社 大山祗命(おおやまづみのみこと)
同 石上(いそのかみ)神社 布都御魂命(ふつのみたまのみこと)
同 愛宕(あたご)神社 迦具土命(かぐつちのみこと)
同 雷(いかづち)神社 大雷命(おおいかづちのみこと)
同 住吉(すみよし)神社 底筒男命(そこつつのおのみこと)
中筒男命(なかつつのおのみこと)
上筒男命(うわつつのおのみこと)
同 神明(しんめい)神社 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
*摂社と末社の違いは、主祭神との関係が深い神社が摂社、それほどでもない場合が末社となるようです
先ずは右側から、神楽殿です
額殿です
埼玉県内酒造会社の奉納樽です
天津神社(摂社)です
六社(末社)です、神社名は左から、住吉神社・神明神社・山祗神社・愛宕神社・雷神社・石上神社の祠です
境内左側を見て行きましょう、まず「さざれ石」です
戦艦武蔵の碑です
戦艦武蔵
戦艦武蔵は世界最高技術を駆使し、大日本帝国海軍が建造した最高の戦艦である。
パナマ運河幅の制限から、40cm(16インチ)を越える主砲を持つ戦艦を建造できない米国の弱点に注目し、主砲46cm砲三連装砲二基搭載した世界最強かつ最大の戦艦として建造された。武蔵誕生に至るまでには多くの技術的困難があり、関係者の苦労は並大抵のものではなかた。また、海軍の指示により建造造船所である三菱重工業は、所員に対する緘口令等建造秘匿の徹底を図った。
昭和17年8月5日に広島県呉で行われた竣工式には、氷川神社より6名の神職が出向し、式が厳しく執り行われた。艦内神社には氷川神社が分祀され武蔵神社と命名された。
昭和19年10月17日「捷一号」作戦発令により、日米両海軍の主力は艦隊決戦を行わんとフィリピンレイテ沖を目指した。武蔵は米海軍の航空攻撃を一手に引き受け、10月24日シブヤン海に没した。同作戦により戦艦武蔵に乗員1039名戦死。生存者1329名もマニラ防衛戦等に投入され、最終的に祖国の土を踏めた者は四百三十余名と言われている。
ここに戦艦武蔵を顕彰し、碑建立に協賛、参道するものである。
平成27年10月24日建立
戦艦武蔵顕彰会
*戦艦武蔵の慰霊碑としては、群馬県前橋市の赤城山の登り口時沢小学校に北側に在ります(このブログ2017年10月20日に紹介させて頂きました)
松尾神社(末社)です
左手奥に稲荷神社鳥居が並びます
稲荷神社(末社)の社殿です
猿田彦大神の石碑です
稲荷神社の北側には宗像神社の鳥居です
宗像神社(摂社)の社です
では氷川神社社殿へ行きましょう
松尾神社前から、神池を渡る神橋です
手水舎です
楼門です
楼門を潜ると正面に舞殿です、周りにはクスノキの大木が並びます
拝殿です、早詣での方々や七五三のお参りの方々でいっぱいでした
本殿です
本殿東側の神輿舎脇に「力石」が並びます
では、社殿東側へ東門を出ます
嘉永3年8月の石碑です、全て漢文の為読めませんね~
門客人神社(摂社)です
右手(東)に御嶽神社(末社)です
更に東側には、明治15年の石碑です、こちらも漢文です読めません
楼門前神池わきに県令桜の小さな石碑です、明治15年3月建立のものです
手水舎の西側通路は西駐車場への通路です
通路に面して北側に「御神井」です
更に西側に「蛇の池」が有ります、説明版です
奥まったところ(本殿西側)の蛇の池です、木々に覆われて大蛇が棲んでいそうです
では、戻りましょう
つづきです
氷川神社参道を、一の鳥居から歩いて来ました
三の鳥居です、境内入口に成ります
大宮二十景・②悠久の神域・氷川神社案内標柱です
鳥居手前左の境内案内版です
武蔵一宮 氷川神社
鎮座地 埼玉県さいたま市大宮区高鼻町
御祭神 須佐之男命
稲田姫命
大己貴命
例祭日 8月1日
社殿 銅板葺流造
境内 約3万坪
由緒
氷川神社は今から凡そ2千有余年前、第5代孝昭天皇の御代3年4月末の日の御創立と伝えられます。当神社は、歴朝の御崇敬・武将の尊崇も篤く、景行天皇の御代日本武尊は東夷鎮定の祈願をなされ、成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命により武蔵国造となって氷川神社を専ら奉崇し、善政を布かれてから益々神威輝き、聖武天皇の御代には武蔵一宮と定められました。醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名帳には名神大社として、月次新嘗案上の官幣に預り又臨時祭にも奉幣に預っております。
武家時代になってからは鎌倉、足利、徳川の各将軍家等相継いで尊仰し、奉行に命じて社殿を造営し社領を寄進する等、祭祀も厳重に行われておりました。
明治元年には明治天皇が氷川神社を武蔵国の鎮守・勅祭の社と御定めになり、当社に行幸、御親ら祭儀執り行われ、同3年にも再び御親祭されました。明治4年には官幣大社に列せられ、同11年には明治天皇が三度目の行幸、御親拝をされ、大正10年には大正天皇御親拝されました。
昭和9年には昭和天皇が御親拝、同38年今上陛下が皇太子時に御参拝され、同42年には明治天皇御親祭百年大祭が執り行なわれ、社殿、他諸建物の修復工事が完成しました。また昭和天皇・皇后両陛下御揃いで御親拝されました。昭和62年には今上陛下が皇太子時に同妃殿下と御揃いで御参拝され、平成5年5月には天皇皇后両陛下が御揃いで御親拝になられました。
*ここにある「今上陛下」は2022年現在の「上皇」様です。
境内神社
摂社 門客人(もんきゃくじん)神社 足摩乳命(あしなづちのみこと)
手摩乳命(てなづちのみこと)
同 天津(あまつ)神社 少彦名命(すくなひこなのみこと)
同 宗像(むなかた)神社 多起理比売命(たぎりひめのみこと)
市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)
田寸津比売命(たぎつひめのみこと)
末社 天満(てんまん)神社 菅原道真公(すがわらみちざねこう)
同 松尾(まつお)神社 大山咋命(おおやまくいのみこと)
同 御嶽(みたけ)神社 大己貴命(おおなむちのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
同 稲荷(いなり)神社 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
六社
末社 山祗(やまづみ)神社 大山祗命(おおやまづみのみこと)
同 石上(いそのかみ)神社 布都御魂命(ふつのみたまのみこと)
同 愛宕(あたご)神社 迦具土命(かぐつちのみこと)
同 雷(いかづち)神社 大雷命(おおいかづちのみこと)
同 住吉(すみよし)神社 底筒男命(そこつつのおのみこと)
中筒男命(なかつつのおのみこと)
上筒男命(うわつつのおのみこと)
同 神明(しんめい)神社 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
*摂社と末社の違いは、主祭神との関係が深い神社が摂社、それほどでもない場合が末社となるようです
先ずは右側から、神楽殿です
額殿です
埼玉県内酒造会社の奉納樽です
天津神社(摂社)です
六社(末社)です、神社名は左から、住吉神社・神明神社・山祗神社・愛宕神社・雷神社・石上神社の祠です
境内左側を見て行きましょう、まず「さざれ石」です
戦艦武蔵の碑です
戦艦武蔵
戦艦武蔵は世界最高技術を駆使し、大日本帝国海軍が建造した最高の戦艦である。
パナマ運河幅の制限から、40cm(16インチ)を越える主砲を持つ戦艦を建造できない米国の弱点に注目し、主砲46cm砲三連装砲二基搭載した世界最強かつ最大の戦艦として建造された。武蔵誕生に至るまでには多くの技術的困難があり、関係者の苦労は並大抵のものではなかた。また、海軍の指示により建造造船所である三菱重工業は、所員に対する緘口令等建造秘匿の徹底を図った。
昭和17年8月5日に広島県呉で行われた竣工式には、氷川神社より6名の神職が出向し、式が厳しく執り行われた。艦内神社には氷川神社が分祀され武蔵神社と命名された。
昭和19年10月17日「捷一号」作戦発令により、日米両海軍の主力は艦隊決戦を行わんとフィリピンレイテ沖を目指した。武蔵は米海軍の航空攻撃を一手に引き受け、10月24日シブヤン海に没した。同作戦により戦艦武蔵に乗員1039名戦死。生存者1329名もマニラ防衛戦等に投入され、最終的に祖国の土を踏めた者は四百三十余名と言われている。
ここに戦艦武蔵を顕彰し、碑建立に協賛、参道するものである。
平成27年10月24日建立
戦艦武蔵顕彰会
*戦艦武蔵の慰霊碑としては、群馬県前橋市の赤城山の登り口時沢小学校に北側に在ります(このブログ2017年10月20日に紹介させて頂きました)
松尾神社(末社)です
左手奥に稲荷神社鳥居が並びます
稲荷神社(末社)の社殿です
猿田彦大神の石碑です
稲荷神社の北側には宗像神社の鳥居です
宗像神社(摂社)の社です
では氷川神社社殿へ行きましょう
松尾神社前から、神池を渡る神橋です
手水舎です
楼門です
楼門を潜ると正面に舞殿です、周りにはクスノキの大木が並びます
拝殿です、早詣での方々や七五三のお参りの方々でいっぱいでした
本殿です
本殿東側の神輿舎脇に「力石」が並びます
では、社殿東側へ東門を出ます
嘉永3年8月の石碑です、全て漢文の為読めませんね~
門客人神社(摂社)です
右手(東)に御嶽神社(末社)です
更に東側には、明治15年の石碑です、こちらも漢文です読めません
楼門前神池わきに県令桜の小さな石碑です、明治15年3月建立のものです
手水舎の西側通路は西駐車場への通路です
通路に面して北側に「御神井」です
更に西側に「蛇の池」が有ります、説明版です
奥まったところ(本殿西側)の蛇の池です、木々に覆われて大蛇が棲んでいそうです
では、戻りましょう