ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

静岡県浜松市、天竜区水窪町山住「山住神社の杉二本」(県指定)です!!

2022-04-30 06:38:01 | 巨樹・大木
 水窪町山住地区は、天竜区役所の北北東約36kmのところ

 天竜川に沿って国道152号線を北へ約30km進みます

 大井橋信号で佐久間町中心部へ通じる国道473号線を別けて東へ

 水窪川に沿って浅間山(標高540m)を左回りに半周回りさらに北へ

 相月トンネルを貫けると水窪町です、町の中心部を目指します

 奥領家地区に入って国道152号線から案内板に従って信号を右(南東)春野へ県道389号水窪森線です


 水窪町中心部の一つ手前のJR飯田線むかいちば駅前を通って県道389号線を進みます

 ここから山道です、「布滝」を過ぎ「アカクボ沢の大トチ」入り口を過ぎてさらに峠を目指します

 国道と別れてから約12km、標高1107mの山住峠です


大きな鹿の観光案内板です、この脇に山住神社の駐車場があります、


山住神社は峠のすぐ先です


参道入り口鳥居です(参道は北北東向き、社殿は南東向きに鎮座します)

山住神社です

珍しい狛犬です、牙が生えていますのでオオカミでしょうか、左右の口は共に閉じられています

随身門です


随身門前左に古多麻石です
 遠江風土記によると「天正4年(1576年)家康公行軍の時、御敵天野氏追い到って鬨聲を挙ぐ其聲石に響く、即ち自ら畏れて退散す、故に古多麻石と日ふ」天正4年家康公が山住神社を参拝したという記録はないが、この年宝刀「伯耆安綱」が奉納された。
 天正2年の犬居城攻めは増水した気田川で撤退し、天正4年の犬居城攻めで天野氏は信州へ逃げ延びた。
 山住神社由緒書によると敵が攻めて来たときお犬様の「ワゥオー・ワゥオー」と大きな声は山に木霊し敵は驚き退散したと伝えられている。
  みさくぼ文化財懇話会
  みさくぼ観光ボランティアガイドの会


随身門を潜ると右手に手水舎です

正面の参道に目的の杉二本が見えました

手前の杉(A)です

新・浜松の自然100選の標柱です

説明版です
  静岡県指定天然記念物
 山住神社のスギ二本
目通りA 7.01m
根廻り 10.50m
樹高  40.00m
枝張り(東西)18.00m
   (南北)17.00m
目通りB 9.20m
根廻り 10.30m
樹高  41.00m
枝張り(東西)22.10m
   (南北)13.80m
樹齢約1300年
材積約104立方m(376石)
 今時指定となった山住杉は、和銅2年(709年)この地に神社鎮座の頃、御神木として植栽されたものと推定され、樹齢1300年有余(昭和34年伊勢湾台風による倒木の年輪によって確認できる)が数えられ、この樹齢に比して旺盛な樹勢は稀らしいとされている。
  山住杉の由来
 この付近一帯の杉は、元禄9年(1696)2月、今からおよそ300年前、山住家23代大膳亮茂辰公が、当時幕府御用材の乱伐を憂え、遠く伊勢より3万本の杉苗を購入し、この地方における造林の第一歩を印した。
 以来大膳亮は、没年の延享元年(1744)まで48年間、実に36万本に及ぶ杉檜の拡大造林を進め、明治・大正期、東京市場での「山住杉」の名声を残すと同時に、今日における天龍林業の振興の基礎を築いた。
 これから由緒ある杉は山住神社境内外に幾星霜を経た歴史の跡をしのぶことができる。
  昭和46年8月3日指定

南側から

南西側から

西側から

北西側から

北側から住吉神社の杉Bです

北東側から

御神木指定証です、大きいBの方が御神木のようです

東側から、縦に筋が入っています

南側から

南西側から

西側から

北西側から

参道右手には、境内社の雲龍稲荷神明神社です

長~い、境内社です

境内社の裏側(東側)の斜面にも杉の大木が並びます



正麿大神です
 京都吉田山麓に広がる神道吉田流「吉田神社」は、江戸時代、神官の「栽許状」(禰宜の免許状)を授ける格式高き神社で、嘉永元年(1848年)ご誕生「吉田鉨彦」と命名された。5歳の時、山住神社・社家「山住雪江様」のご尽力により、山住家ご養子に迎えられる。御名を「山住正麿」と改められた。大正7年数え70歳で天寿を全うされた。この祠は正麿様への信仰深き、豊橋市二川町にお住いの「朝倉英司氏」によって建立されたものである。
 みさくぼ観光ボランティアガイドの会



神明宮と高根明神です
 

拝殿です、すぐ前には鳥居があります(写真を撮っているすぐ後ろは深い谷になっています)
 

立派な幣殿と本殿の覆い屋です

説明版です
  紫宸殿の鵺退治
 この彫刻は、「平家物語」の一場面である。
 平安時代末期、時の高倉天皇は毎夜高熱に悩まされた。夜毎御所に現れる鵺の仕業であった。鵺とは頭は猿、胴は虎、尾は蛇の「猿虎蛇」の妖怪であった。朝廷より妖怪鵺退治を命じられた、弓の名手「源三位頼政(伊豆長岡)」は、家臣nお猪早太(三ヶ日)を共に、御所・紫宸殿の屋根に上がり退治した。
 この場面の彫刻は、明治時代の彫り物師「曽布川藤次郎」が見事に彫り上げた。
  みさくぼ観光ボランティアガイドの会
*社殿を覗いてみましたが彫り物は見当たりませんでした

では、次へ行きましょう


大きな鹿のところから北側の山並みを見ました、ヤマザクラが満開を迎えていました
コメント
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