松帆櫟田地区は、南あわじ市役所の北西約6kmのところ
南あわじ市役所西側道路を北北西へ、三原川右岸沿いを進みます
約1.7kmで三原川左岸側の道路へ移り北北西へ
約1kmで信号を斜め右(北東)へ、県道66号線です
約800m高速道路の下を潜った「掃宗」信号を左(西北西)へ、県道125号線です
約1.6kmで鋭角に右(北)へ、目印はJAあわじ島松帆センターです、約100mで突き当りを左(北西)へ
約1.1kmで倭文川を松木橋で渡って、更に約100mで斜め右(北東)へ入ると間も無く

山門です

法性山 上宮院 日光寺です
山門を入った境内に
車を止める事が出来ました

境内東端に鐘楼です

中央に大きな宝篋印塔です

大きなソテツが境内に数株見る事が出来ます


布袋尊です


聖徳太子像です

本堂です

由来石碑です
法性山上宮院日光寺由来
当山は、推古天皇21(西暦613)年仲秋、時の摂政聖徳太子が初めてこの地に行幸され、慶野海浜の浪間に漂う一つの筥を獲り、これを開かれた処、如意輪観世音の尊像であり、常に御身を離さず尊信護持されていたが、たまたま奇瑞の事あり七堂伽藍をその場所に創建、用明、推古両帝の御木像並びに聖徳太子御自身の御木像を安置。
さらに如意輪観世音の尊像を写彫して、御本地(観音堂)に崇祭。
産宮を鎮守として御自身の御名上宮聖徳勝鬘の二字を冠し、上宮院日向寺と号して南海道仏法最初の霊場と定められた。
然るに創立以来700年を経る中、兵乱、地震、津波、大風、洪水等の天変のため、伽藍悉く廃頽したのを元亨年中、因幡の国の一阿聖人霊夢を感じて海路を渡いでこの地に訪ね来り。
不思議にも当国の一阿という同名の禅尼とこの場所で遭遇。互いに夢を語ってその奇瑞を喜び、忽ち再建の志を一つにして広く道俗を勧奨、浄財を集めて旧観に復したのであります。
この時に寺名が、州号(日向の国)にに混じやすいとの事由で「日向」を「日光」に改め一阿聖人を中興とされたと古記に記されてあります。
時恰も御醍醐天皇の御代に当たり、現存する大なる五輪塔(県文化財)の中央に元享2(西暦1322)年11月4日と誌されてあるが、一阿聖人の碑と伝承されている。
又明応年間(1492~1501)にも再興の記録があり。以来星霜を経て、永禄6(1564)年の大地震に太子寄進の田園20町歩悉く荒野となり、後に松生えて日光寺松原と称する様になった。今尚残る中御堂屋敷跡周辺一帯がそれである。
檪田現在地に移転の歳月は詳らかではないが、恐らく明応年間以降と推測される。その頃の勧進状に「後に峨々たる高山あり、前に冷々たる蒼海あり」と記されているところから案ずると、正しく海浜近くにあった事が立証され、数度の天変を恐れて現在の平地に移転してきたことが窺われるものであります。 「日光寺縁起」より

本堂東側に薬師堂です

不動堂です

不動堂の後に目的のビャクシンの樹冠が見えます


寺務所手前にビャクシンです

夫婦柏槇樹の石碑です

説明書きです
この柏槇は樹齢約750年といわれており、柏槇では淡路島の中で最も古いとされている天然記念樹です。
二本の大樹が寄り添うように重なり合い枝分かれしている様子から、古来より「縁結び」「子宝成就」「男女和合」「夫婦円満」など御利益があるとされ、夫婦柏槇樹として大切にお祀りされてきました。
皆様にも良き「ご縁」がございますよう是非大樹に触れていただきお参り下さい。
山主敬白



北西側から


北側から、合体木ですが目通り幹囲5.7m、樹高20mの巨木です



北東側から見上げました
では、次へ行きましょう

2024・6・7・7・30
南あわじ市役所西側道路を北北西へ、三原川右岸沿いを進みます
約1.7kmで三原川左岸側の道路へ移り北北西へ
約1kmで信号を斜め右(北東)へ、県道66号線です
約800m高速道路の下を潜った「掃宗」信号を左(西北西)へ、県道125号線です
約1.6kmで鋭角に右(北)へ、目印はJAあわじ島松帆センターです、約100mで突き当りを左(北西)へ
約1.1kmで倭文川を松木橋で渡って、更に約100mで斜め右(北東)へ入ると間も無く

山門です


法性山 上宮院 日光寺です

山門を入った境内に


境内東端に鐘楼です


中央に大きな宝篋印塔です


大きなソテツが境内に数株見る事が出来ます



布袋尊です



聖徳太子像です


本堂です


由来石碑です
法性山上宮院日光寺由来
当山は、推古天皇21(西暦613)年仲秋、時の摂政聖徳太子が初めてこの地に行幸され、慶野海浜の浪間に漂う一つの筥を獲り、これを開かれた処、如意輪観世音の尊像であり、常に御身を離さず尊信護持されていたが、たまたま奇瑞の事あり七堂伽藍をその場所に創建、用明、推古両帝の御木像並びに聖徳太子御自身の御木像を安置。
さらに如意輪観世音の尊像を写彫して、御本地(観音堂)に崇祭。
産宮を鎮守として御自身の御名上宮聖徳勝鬘の二字を冠し、上宮院日向寺と号して南海道仏法最初の霊場と定められた。
然るに創立以来700年を経る中、兵乱、地震、津波、大風、洪水等の天変のため、伽藍悉く廃頽したのを元亨年中、因幡の国の一阿聖人霊夢を感じて海路を渡いでこの地に訪ね来り。
不思議にも当国の一阿という同名の禅尼とこの場所で遭遇。互いに夢を語ってその奇瑞を喜び、忽ち再建の志を一つにして広く道俗を勧奨、浄財を集めて旧観に復したのであります。
この時に寺名が、州号(日向の国)にに混じやすいとの事由で「日向」を「日光」に改め一阿聖人を中興とされたと古記に記されてあります。
時恰も御醍醐天皇の御代に当たり、現存する大なる五輪塔(県文化財)の中央に元享2(西暦1322)年11月4日と誌されてあるが、一阿聖人の碑と伝承されている。
又明応年間(1492~1501)にも再興の記録があり。以来星霜を経て、永禄6(1564)年の大地震に太子寄進の田園20町歩悉く荒野となり、後に松生えて日光寺松原と称する様になった。今尚残る中御堂屋敷跡周辺一帯がそれである。
檪田現在地に移転の歳月は詳らかではないが、恐らく明応年間以降と推測される。その頃の勧進状に「後に峨々たる高山あり、前に冷々たる蒼海あり」と記されているところから案ずると、正しく海浜近くにあった事が立証され、数度の天変を恐れて現在の平地に移転してきたことが窺われるものであります。 「日光寺縁起」より

本堂東側に薬師堂です


不動堂です


不動堂の後に目的のビャクシンの樹冠が見えます




寺務所手前にビャクシンです


夫婦柏槇樹の石碑です


説明書きです
この柏槇は樹齢約750年といわれており、柏槇では淡路島の中で最も古いとされている天然記念樹です。
二本の大樹が寄り添うように重なり合い枝分かれしている様子から、古来より「縁結び」「子宝成就」「男女和合」「夫婦円満」など御利益があるとされ、夫婦柏槇樹として大切にお祀りされてきました。
皆様にも良き「ご縁」がございますよう是非大樹に触れていただきお参り下さい。
山主敬白



北西側から




北側から、合体木ですが目通り幹囲5.7m、樹高20mの巨木です




北東側から見上げました

では、次へ行きましょう


2024・6・7・7・30