ここからは、2024年10月19日取材分です、前日迷いながら廻った所をまた巡る形になってしまいます
宮守町上鱒沢地区は、遠野市役所の西南西約9kmのところ
遠野市役所南側の仲町通りを東南東へ、約200mで信号を左(北北東)へ
約1kmの「⇐盛岡花巻北上・国道283号線」の標識に従って信号を左(西北西)へ
ここから道成りに約9.4kmで右(北西)へ入って、JR釜石線の踏切を越えて直ぐ左(西南西)へ坂道を上がるように進み
下り始めた約900mで道路左脇に石碑が並んだところを右(北北西)へ坂道を登って行きます
約200mで右手に長泉寺の参道が出ています
参道西側の道路脇に車を止めさせて頂きました
参道を進みます
参道左手にサワラの大木です
南東側から
幹周3.65m・樹高25m・推定樹齢300年のサワラのプレートです
北東側から
北側から見ました
更に進むと山門です
山門前の六地蔵様です
山門を潜ると境内に大きなカヤの樹冠です
右手には若いコウヤマキです
南東側からカヤを見ました
東側から
本堂です
本堂前から
幹周3.1m・樹高14m・推定樹齢300年のカヤのプレートです
北側から
北西側から
本堂西側の北西側に離れて見ました
南西側道路脇から
「遠野遺産第50号 長泉寺かやの木」の標柱です
説明版ですが一部剥がれてしまっています
遠野市天然記念物指定
榧の木
鱒沢館跡近くにある長泉寺は竜興山と号して臨済宗妙心寺派であり、天正2年(1574)鱒沢広勝の開基と伝えられる。
長泉寺は天正2年鱒沢広勝のより寺畑に草創され、後、羽場に移され文政11年に上町に転じている。
上町の於ける境内に現存する榧は慶長年間鱒沢広勝の鱒沢館に在った当時の樹であると言う。
広勝字を佐馬助と称していたので、一名佐馬之助手植えの榧と言われる。
前住職藤屋禅道師談によれば、本樹は雌株で、2~3年毎に約1石の種子を収獲すると言う。
由来
長泉寺は、天正2年(1574)阿曽沼氏の一族鱒沢左馬之助の開基、僧蘭江開山と伝えられ、その頃の移入と考えれば、樹齢凡そ400年に及ぶと推定されている。
此の木がこのように長年生存したことは南斜面で、日当たりが良く、林床植物にオオバジャノヒゲが生育するな、立地条件に恵まれた外、代々の住職が垂れる枝に支柱などして、丹精をこめ管理した賜であると察思われる
平成9年3月 遠野市教育委員会
もう一枚の説明版です
鱒沢館之跡
鱒沢館は、宮守町鱒沢上町北方、笠通山に連なる尾根末端の丘陵に築かれた山城です。
斜面全体は、7・8段の平場に構築され、頂部の平場には土塁の跡も見られ、館神も祀られています。
基部巾100mに及び、一部内堀で分離された外郭が守りを堅固にしています。
周囲全体は空堀で囲まれ、特に上部東側は谷の急傾斜を利用し、深く広い堀は二重三重となって見事なものです。
比高は100mを越え、面積は1万㎥にも及ぶ壮大な規模を有し、猿ケ石川沿いの山城としては最大級のものと言えます。
この館は阿曽沼氏の一族、鱒沢盛綱が鱒沢・小友の2村を領有し、上町に築いたのが始まりと言われています。
この地は、北上平地、三陸海岸への交通の要所として、又、隣接する伊達氏への押さえとして重要であり、天正20年の諸城破却令にもかかわらず、同城は残されたと伝えられています。
平成8年3月 遠野市教育委員会
南側から見上ました
では、次へ行きましょう
2024・10・19・06・30
宮守町上鱒沢地区は、遠野市役所の西南西約9kmのところ
遠野市役所南側の仲町通りを東南東へ、約200mで信号を左(北北東)へ
約1kmの「⇐盛岡花巻北上・国道283号線」の標識に従って信号を左(西北西)へ
ここから道成りに約9.4kmで右(北西)へ入って、JR釜石線の踏切を越えて直ぐ左(西南西)へ坂道を上がるように進み
下り始めた約900mで道路左脇に石碑が並んだところを右(北北西)へ坂道を登って行きます
約200mで右手に長泉寺の参道が出ています
参道西側の道路脇に車を止めさせて頂きました
参道を進みます
参道左手にサワラの大木です
南東側から
幹周3.65m・樹高25m・推定樹齢300年のサワラのプレートです
北東側から
北側から見ました
更に進むと山門です
山門前の六地蔵様です
山門を潜ると境内に大きなカヤの樹冠です
右手には若いコウヤマキです
南東側からカヤを見ました
東側から
本堂です
本堂前から
幹周3.1m・樹高14m・推定樹齢300年のカヤのプレートです
北側から
北西側から
本堂西側の北西側に離れて見ました
南西側道路脇から
「遠野遺産第50号 長泉寺かやの木」の標柱です
説明版ですが一部剥がれてしまっています
遠野市天然記念物指定
榧の木
鱒沢館跡近くにある長泉寺は竜興山と号して臨済宗妙心寺派であり、天正2年(1574)鱒沢広勝の開基と伝えられる。
長泉寺は天正2年鱒沢広勝のより寺畑に草創され、後、羽場に移され文政11年に上町に転じている。
上町の於ける境内に現存する榧は慶長年間鱒沢広勝の鱒沢館に在った当時の樹であると言う。
広勝字を佐馬助と称していたので、一名佐馬之助手植えの榧と言われる。
前住職藤屋禅道師談によれば、本樹は雌株で、2~3年毎に約1石の種子を収獲すると言う。
由来
長泉寺は、天正2年(1574)阿曽沼氏の一族鱒沢左馬之助の開基、僧蘭江開山と伝えられ、その頃の移入と考えれば、樹齢凡そ400年に及ぶと推定されている。
此の木がこのように長年生存したことは南斜面で、日当たりが良く、林床植物にオオバジャノヒゲが生育するな、立地条件に恵まれた外、代々の住職が垂れる枝に支柱などして、丹精をこめ管理した賜であると察思われる
平成9年3月 遠野市教育委員会
もう一枚の説明版です
鱒沢館之跡
鱒沢館は、宮守町鱒沢上町北方、笠通山に連なる尾根末端の丘陵に築かれた山城です。
斜面全体は、7・8段の平場に構築され、頂部の平場には土塁の跡も見られ、館神も祀られています。
基部巾100mに及び、一部内堀で分離された外郭が守りを堅固にしています。
周囲全体は空堀で囲まれ、特に上部東側は谷の急傾斜を利用し、深く広い堀は二重三重となって見事なものです。
比高は100mを越え、面積は1万㎥にも及ぶ壮大な規模を有し、猿ケ石川沿いの山城としては最大級のものと言えます。
この館は阿曽沼氏の一族、鱒沢盛綱が鱒沢・小友の2村を領有し、上町に築いたのが始まりと言われています。
この地は、北上平地、三陸海岸への交通の要所として、又、隣接する伊達氏への押さえとして重要であり、天正20年の諸城破却令にもかかわらず、同城は残されたと伝えられています。
平成8年3月 遠野市教育委員会
南側から見上ました
では、次へ行きましょう
2024・10・19・06・30
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