国中平野は、佐渡の人口の約8割が集中した稲作の中心地です
大佐渡山地と小佐渡山地に挟まれた地溝帯で、南北約8km、東西約12kmです
北東の加茂湖側が高く、大佐渡山地と小佐渡山地から流れて来た川の多くは
国府川に合流して西の真野湾に流れています、真野湾岸は砂丘が形成されています
では、
平清水地区は、佐渡市役所の北西約5kmのところ
県道306号線を西へ、黒木御所入り口信号を右(北)へまだ県道306号市野沢中興線です
道なりに進んで、北側の台地の上で平清水会館前を左(西)へまだ県道306号線です
道なりに進むと藤津川の橋を渡り右(北)の道路へ、間もなく多門寺の案内板が有ります
右(東)へ入って多門寺駐車場に入りました
多門寺です
本堂です
山(鐘楼)門です
山門前を東へ下ります
坂の下には御堂です
参道入り口です
社號標が並びます
百足清水です
弁財天です
説明版です
百足清水
所在地 平清水 毘沙門堂 坂下
江戸時代の「順村記」に毘沙門堂前に百足杉あり、杉の脇に池あり、その流れを百足水という、と記されている。
この水のかかる田畑の旱魃を救うこと諸人の知る所である。
百日照るとも水出ずと言うことなく、又百日雨降るとも増水して濁ると言う事なし。
是尊像の地、毘沙門天の御加護によるものである。
平泉文化財保護会
参道右手に目的の百足杉です
西側から
天然記念物標柱です
説明版です
百足杉
所在地 平清水 毘沙門堂 坂
承久の頃、順徳帝が黒木御所から千種の里へ行啓の途中、藤津川で百足の波紋が立っているのをご覧になられ、「この川の上流に毘沙門天が鎮座されているのか」とお共の者にお尋ねになられた。
共奉員は謹んで状況を申し上げると、帝は毘沙門堂にお立ち寄りになられる事になった。
当時村々は大干魃で百姓達が苦しんでいたので帝は親しく毘沙門天に雨乞いの祈祷が行われた。
この時、杉を植えてこれに百足杉と名づけられたのである。
推定樹齢1000年
平泉文化財保存会
参道石段です
石段下から見ました、目通り幹囲6.7mの巨木です
石段中段から
水盤です
登りきると毘沙門堂拝殿です
本殿です
説明版です
毘沙門天の由来
毘沙門天は商売繁盛の神様だといわれる、別名、多聞天とも呼ばれ、四天王の一つである。
その昔(587年)聖徳太子が物部守屋を討伐に向った時、四天王の像を戴き出陣し、大勝を得たので以来四天王を信仰することが深かったと伝えられる。られる。
その後太子は、柳の霊木で毘沙門の像を二体彫刻し、元木の像は当毘沙門堂に納められ、末木の像は京都の鞍馬寺に安置された。
現在、毘沙門堂の本尊は、延暦16年(797年)9月3日天台の儀真僧都という坊さんが佐渡へ渡り、奉安したものといわれている。
以前、毘沙門天は平清水の鎮守であった、このことから平清水区民は毘沙門天の氏子として、柳の木の下駄ははかなかったという。
縁日は2月と9月の3日である。特に2月の縁日は、2日の晩からおこもりがあり、3日の早朝にかけて近郷近在から老若男女が集まり、商売繁盛、家内安全を祈願し賑っている。
東側には白山神社です
説明版です
狛犬です
更に東側には、太子堂です
では、次へ行きましょう
大佐渡山地と小佐渡山地に挟まれた地溝帯で、南北約8km、東西約12kmです
北東の加茂湖側が高く、大佐渡山地と小佐渡山地から流れて来た川の多くは
国府川に合流して西の真野湾に流れています、真野湾岸は砂丘が形成されています
では、
平清水地区は、佐渡市役所の北西約5kmのところ
県道306号線を西へ、黒木御所入り口信号を右(北)へまだ県道306号市野沢中興線です
道なりに進んで、北側の台地の上で平清水会館前を左(西)へまだ県道306号線です
道なりに進むと藤津川の橋を渡り右(北)の道路へ、間もなく多門寺の案内板が有ります
右(東)へ入って多門寺駐車場に入りました
多門寺です
本堂です
山(鐘楼)門です
山門前を東へ下ります
坂の下には御堂です
参道入り口です
社號標が並びます
百足清水です
弁財天です
説明版です
百足清水
所在地 平清水 毘沙門堂 坂下
江戸時代の「順村記」に毘沙門堂前に百足杉あり、杉の脇に池あり、その流れを百足水という、と記されている。
この水のかかる田畑の旱魃を救うこと諸人の知る所である。
百日照るとも水出ずと言うことなく、又百日雨降るとも増水して濁ると言う事なし。
是尊像の地、毘沙門天の御加護によるものである。
平泉文化財保護会
参道右手に目的の百足杉です
西側から
天然記念物標柱です
説明版です
百足杉
所在地 平清水 毘沙門堂 坂
承久の頃、順徳帝が黒木御所から千種の里へ行啓の途中、藤津川で百足の波紋が立っているのをご覧になられ、「この川の上流に毘沙門天が鎮座されているのか」とお共の者にお尋ねになられた。
共奉員は謹んで状況を申し上げると、帝は毘沙門堂にお立ち寄りになられる事になった。
当時村々は大干魃で百姓達が苦しんでいたので帝は親しく毘沙門天に雨乞いの祈祷が行われた。
この時、杉を植えてこれに百足杉と名づけられたのである。
推定樹齢1000年
平泉文化財保存会
参道石段です
石段下から見ました、目通り幹囲6.7mの巨木です
石段中段から
水盤です
登りきると毘沙門堂拝殿です
本殿です
説明版です
毘沙門天の由来
毘沙門天は商売繁盛の神様だといわれる、別名、多聞天とも呼ばれ、四天王の一つである。
その昔(587年)聖徳太子が物部守屋を討伐に向った時、四天王の像を戴き出陣し、大勝を得たので以来四天王を信仰することが深かったと伝えられる。られる。
その後太子は、柳の霊木で毘沙門の像を二体彫刻し、元木の像は当毘沙門堂に納められ、末木の像は京都の鞍馬寺に安置された。
現在、毘沙門堂の本尊は、延暦16年(797年)9月3日天台の儀真僧都という坊さんが佐渡へ渡り、奉安したものといわれている。
以前、毘沙門天は平清水の鎮守であった、このことから平清水区民は毘沙門天の氏子として、柳の木の下駄ははかなかったという。
縁日は2月と9月の3日である。特に2月の縁日は、2日の晩からおこもりがあり、3日の早朝にかけて近郷近在から老若男女が集まり、商売繁盛、家内安全を祈願し賑っている。
東側には白山神社です
説明版です
狛犬です
更に東側には、太子堂です
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