熊野神社は、秩父市役所の北北西約 6kmのところ
荒川の支流、赤平川の右岸段丘上にあります
国道299号線から県道270号線で北へ進みます
大田中学校・小学校側に進みます
大田郵便局から西へ、200m程を北へ進みます
村社熊野神社です
参道の先に鳥居・その先に社殿と大ケヤキが見えて来ます
社殿の右手に大ケヤキです
手水舎です
神楽殿です
熊野神社社殿です
南南西側からの大ケヤキです
大ケヤキです
説明版です
市指定無形文化財 大田熊野神社の神楽
この神楽は明治十年二月秩父神社社家権代講義丹後守が、土地の風間巳之吉、富田玄内、
富田馬次郎、武島喜内、富田金三郎、富田和十郎、富田倉次郎、青山巳弥吉、斉藤清五郎、
鈴木健次郎の他各氏に教授したものといわれます。
舞の形式は、里神楽岩戸神楽の系譜をひく秩父神社の神楽とほぼ同形で舞の形式、所作
をみても丹後守の直伝であることが立証されます。
奏楽は総じて、秩父神社のものより大まかなところもありますが、伝承時の旧形態を忠
実にとどめています。
丹後守の教傳書による座は二十九座ありますが、野見宿弥の座、高千穂峰の座、オノコ
ロ島の座、三韓征伐の座などがあることは、秩父神社の神楽と異なっています。これは荒
川村白久系統や他の流派の曲目が村と村との相互関係で混入したものと思われます。
市指定天然記念物 熊野神社のけやき 昭和四十七年四月六日指定
熊野神社は、文化七年十一月紀伊国熊野権現より分身祭祀したといわれ、このときすでに
このけやきは、神域の象徴であったといわれます。
四方に伸びる枝張りの構成もみごとで、目どおり6m40cm、樹高35m、枝張り25
mもあり、地表十m付近より六本の枝に分かれています。
枝そのものも樹幹の相をみせて、樹勢、樹肌もよく、旺盛な感じをもつけやきで、樹令約
600年を推定することができます。
古くから。干魁の際は氏子総出で、「ぼんぜん」と称する幣を、樹上にゆわえ雨乞いした
ので、土地の人々は、雨乞いのけやきとも呼んでおります。
秩父市教育委員会
熊 野 神 社
東側から
境内社です
北側から
目通り幹回りは6.4mの巨木です
では、次へ行きましょう
おまけです
高札場です
説明版が有ります
秩父地域には、あちこちに高札場が残っています
では
荒川の支流、赤平川の右岸段丘上にあります
国道299号線から県道270号線で北へ進みます
大田中学校・小学校側に進みます
大田郵便局から西へ、200m程を北へ進みます
村社熊野神社です
参道の先に鳥居・その先に社殿と大ケヤキが見えて来ます
社殿の右手に大ケヤキです
手水舎です
神楽殿です
熊野神社社殿です
南南西側からの大ケヤキです
大ケヤキです
説明版です
市指定無形文化財 大田熊野神社の神楽
この神楽は明治十年二月秩父神社社家権代講義丹後守が、土地の風間巳之吉、富田玄内、
富田馬次郎、武島喜内、富田金三郎、富田和十郎、富田倉次郎、青山巳弥吉、斉藤清五郎、
鈴木健次郎の他各氏に教授したものといわれます。
舞の形式は、里神楽岩戸神楽の系譜をひく秩父神社の神楽とほぼ同形で舞の形式、所作
をみても丹後守の直伝であることが立証されます。
奏楽は総じて、秩父神社のものより大まかなところもありますが、伝承時の旧形態を忠
実にとどめています。
丹後守の教傳書による座は二十九座ありますが、野見宿弥の座、高千穂峰の座、オノコ
ロ島の座、三韓征伐の座などがあることは、秩父神社の神楽と異なっています。これは荒
川村白久系統や他の流派の曲目が村と村との相互関係で混入したものと思われます。
市指定天然記念物 熊野神社のけやき 昭和四十七年四月六日指定
熊野神社は、文化七年十一月紀伊国熊野権現より分身祭祀したといわれ、このときすでに
このけやきは、神域の象徴であったといわれます。
四方に伸びる枝張りの構成もみごとで、目どおり6m40cm、樹高35m、枝張り25
mもあり、地表十m付近より六本の枝に分かれています。
枝そのものも樹幹の相をみせて、樹勢、樹肌もよく、旺盛な感じをもつけやきで、樹令約
600年を推定することができます。
古くから。干魁の際は氏子総出で、「ぼんぜん」と称する幣を、樹上にゆわえ雨乞いした
ので、土地の人々は、雨乞いのけやきとも呼んでおります。
秩父市教育委員会
熊 野 神 社
東側から
境内社です
北側から
目通り幹回りは6.4mの巨木です
では、次へ行きましょう
おまけです
高札場です
説明版が有ります
秩父地域には、あちこちに高札場が残っています
では