野木神社は、栃木県の南の端野木町と茨城県の西の端古河市の境に在ります
国道4号線と県道261号線の交わるところで、直ぐ西側に参道入り口です
境内手前右側に駐車場が有ります
参道入り口の鳥居です
参道を進みます
大きな切株が有ります
二の鳥居です
社殿前の鳥居です
手水舎です
野木神社沿革です
野木神社由緒沿革
仁徳天皇の時代(約千六百年前),下野国造奈良別命が当国赴任の折、抃菟道稚郎子命の遺骨を
奉じ、下野国笠懸野台手函の地に斎奉る。その後、延暦年間(約千二百年前)に坂上田村麻呂が蝦
夷平定し都へ凱旋の途中、当社に鎮撫の功を奏し、その報寳として現在の地に社殿を造り遷座した
と伝えられる。
鎌倉時代には、幕府より社領として旧寒川郡八ヶ村の寄進、及び神馬の奉納が有り、又元冦の際
北条時宗公より攘夷祈願の命を受けて、右殿左殿に息長足比売命を始め、あらたに五祭神を合わせ
祀った。
文化三年(約百九十年前)火災により社殿悉く焼失したが、時の古河城主、土井利厚公は領民の
協力を得、現在の社殿を再建した。
明治時代には乃木大将も当社を厚く崇敬し、度々参拝に訪れ、所縁の品々を御神宝として奉納し
た。 平成十一年五月建之
境内入口の右手に大欅があります
北側から
説明版です
町指定文化財 野木神社ケヤキ
指定年月日 平成二十二年三月二十五日
所 在 地 野木町大字野木2404
野木神社は、五世紀に創建され、延暦年中(782~806)に、坂上田村麻呂が現在の野木神
社の西約800mの所より社殿を移したといわれています。その後、足利氏の執政の末に乱にあい
神領を奪われて社殿の破壊しましたが、長禄三年(1459)、神官海老沼常基により再興された
ということです。
常基は、鎮守の森に育つよう社前に数多くの木々を植えたといわれますが、このケヤキは、それ
以前にあったものと推測されます。
このケヤキは、高さ太さとも県内の名木と言われるケヤキに匹敵する大木で、樹齢も六五〇年以
上と推定されます。 野木町教育委員会
拝殿殿です
本殿です
見事な彫刻があります
神楽殿です
社殿の右手に大イチョウが有ります
とちぎ名木百選です
説明版です
町指定文化財 公孫樹(大イチョウ)
指定年月日 昭和五十二年十一月三十日
所 在 地 野木町大字野木2404番地
この大イチョウは、今から約1200年前(平安時代延暦年間)に征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷
討伐に成功し、凱旋の途中、野木神社に参りその功を奏でました。
その奉黲寳として、神社を笠懸野台手函(現在の野渡大手箱)から現在の「身隠の森」に移築し、
記念にイチョウの木を奉稙したものと伝えられています。
この大イチョウには、婦人たちが乳が出て乳児が健全に育つように米ぬかと白布で作った模型の乳
房で祈願する民間信仰があります。
昭和五十七年三月 野木町教育委員会
北側から
東側から
南側根元に、切られた幹が保存されています
神楽殿脇の欅の大木です
野木神社ケヤキのサイズは目通り幹回り6.2m
公孫樹のサイズは目通り幹回り9.7mとのことです
では、次へ行きましょう
国道4号線と県道261号線の交わるところで、直ぐ西側に参道入り口です
境内手前右側に駐車場が有ります
参道入り口の鳥居です
参道を進みます
大きな切株が有ります
二の鳥居です
社殿前の鳥居です
手水舎です
野木神社沿革です
野木神社由緒沿革
仁徳天皇の時代(約千六百年前),下野国造奈良別命が当国赴任の折、抃菟道稚郎子命の遺骨を
奉じ、下野国笠懸野台手函の地に斎奉る。その後、延暦年間(約千二百年前)に坂上田村麻呂が蝦
夷平定し都へ凱旋の途中、当社に鎮撫の功を奏し、その報寳として現在の地に社殿を造り遷座した
と伝えられる。
鎌倉時代には、幕府より社領として旧寒川郡八ヶ村の寄進、及び神馬の奉納が有り、又元冦の際
北条時宗公より攘夷祈願の命を受けて、右殿左殿に息長足比売命を始め、あらたに五祭神を合わせ
祀った。
文化三年(約百九十年前)火災により社殿悉く焼失したが、時の古河城主、土井利厚公は領民の
協力を得、現在の社殿を再建した。
明治時代には乃木大将も当社を厚く崇敬し、度々参拝に訪れ、所縁の品々を御神宝として奉納し
た。 平成十一年五月建之
境内入口の右手に大欅があります
北側から
説明版です
町指定文化財 野木神社ケヤキ
指定年月日 平成二十二年三月二十五日
所 在 地 野木町大字野木2404
野木神社は、五世紀に創建され、延暦年中(782~806)に、坂上田村麻呂が現在の野木神
社の西約800mの所より社殿を移したといわれています。その後、足利氏の執政の末に乱にあい
神領を奪われて社殿の破壊しましたが、長禄三年(1459)、神官海老沼常基により再興された
ということです。
常基は、鎮守の森に育つよう社前に数多くの木々を植えたといわれますが、このケヤキは、それ
以前にあったものと推測されます。
このケヤキは、高さ太さとも県内の名木と言われるケヤキに匹敵する大木で、樹齢も六五〇年以
上と推定されます。 野木町教育委員会
拝殿殿です
本殿です
見事な彫刻があります
神楽殿です
社殿の右手に大イチョウが有ります
とちぎ名木百選です
説明版です
町指定文化財 公孫樹(大イチョウ)
指定年月日 昭和五十二年十一月三十日
所 在 地 野木町大字野木2404番地
この大イチョウは、今から約1200年前(平安時代延暦年間)に征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷
討伐に成功し、凱旋の途中、野木神社に参りその功を奏でました。
その奉黲寳として、神社を笠懸野台手函(現在の野渡大手箱)から現在の「身隠の森」に移築し、
記念にイチョウの木を奉稙したものと伝えられています。
この大イチョウには、婦人たちが乳が出て乳児が健全に育つように米ぬかと白布で作った模型の乳
房で祈願する民間信仰があります。
昭和五十七年三月 野木町教育委員会
北側から
東側から
南側根元に、切られた幹が保存されています
神楽殿脇の欅の大木です
野木神社ケヤキのサイズは目通り幹回り6.2m
公孫樹のサイズは目通り幹回り9.7mとのことです
では、次へ行きましょう