旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

下呂温泉の森八幡神社

2017-07-01 17:40:33 | 岐阜
2017年6月27日、岐阜美濃市の町並み、郡上八幡城と町並み散策し、下呂温泉の小川屋に宿泊です。1泊2日の旅行です。下呂温泉は2回目です。下呂温泉の町並みは2015年10月を参照してください。⇒下呂温泉の街並み
今回は、前回にお参りできなかった森八幡神社にお参りします。
旅館に着いてから、入浴し夕食までの時間に行きました。
マンホール「いい湯 いいまち 下呂のまち」、白鷺が表示されています。





下呂温泉観光案内図





森八幡神社
『木造神像は国の重要文化財にしていされています。10体の木造神像が保管されており、像高は30~60cmで、平安時代から鎌倉時代にかけて飛騨の匠の手によって彫られました。神像は、風俗的にも彫刻的にも地方色を生かした素朴なもので貴重です。田の神祭は国指定重要無形民族文化財で、本神社の祭事として毎年2月14日に境内で行われます。中世以来の田遊びの芸能が規模、様式ともに継承されており、稀にみる貴重な民俗資料とされています。4人の若者が、大きな色とりどりのかぶり笠をつけて踊ることから、別名「花笠祭」と言われ、飛騨で最も早い祭であることから、「飛騨路に春を告げる祭」として賑わいます。』
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鳥居







参道

手水舎

狛犬



拝殿







下呂の大杉





神庫







願い石



本殿





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郡上八幡(重伝地区)

2017-07-01 11:46:01 | 岐阜
2017年6月27日、美濃のうだつの上がる町並み(重要伝統的建造物群保存地区)、郡上八幡城、郡上八幡の町並み(重要伝統的建造物群保存地区)、下呂温泉、名古屋城と1泊2日の岐阜観光旅行です。郡上八幡城を観光し、城下の郡上八幡観光協会の駐車場に移動です。
岐阜県郡上八幡町島谷520-1
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吉田川





郡上八幡旧庁舎記念館(登録有形文化財)
「昭和11年(1936)建築、木造2階建、瓦葺、建築面積797㎡。非対称型になる木造2階建の洋風の庁舎で、正面に玄関ポ-チが付く。内部は1階が町政執務関係、2階が議会関係に使用された。設計は野村建築事務所で、施工は地元の大工棟梁水谷藤兵衛。外壁は軒廻りを除き下見板張とし、縦長の窓を配した端正な建物である。」





内部は観光案内所、お土産、軽食などがあります。

新橋を渡り町並みへ

神農薬師如来
「当町、市島林組の富豪治左エ門方に立ち寄った一巡礼が、厚いもてなしを受けたお礼に薬師如来を置いて立ち去った。天明5年(1781)その薬師如来を同地の竹林内に安置奉安した。その後、325名余名の神農講会員により、昭和4年1月8日薬師如来をもらいうけ、同年7月28日の馬市を利用し、当巌窟に奉還して、入佛式を奉行した。尚、神農薬師は、商売繁盛の外、諸病、諸難一切を払い給うと言い伝えられ、多くの人々より信仰されている。」





郡上市郡上八幡北町(重要伝統的建造物群保存地区)
「郡上市は岐阜県の中央部に位置する。郡上市の中心にあたる旧八幡町は、永禄2年(1559)、戦国時代より当地域一円を支配していた郡上(ぐじょう)東(とう)氏(し)を攻めるため、遠藤盛数(もりかず)が八幡山に陣営を構えたことに始まる。江戸時代後期には、吉田川を挟んで北側は北町、南側は南町と称され、それぞれ名主がおかれた。
北町は、八幡山に築かれた八幡城跡の西に位置し、北、西、南の三方を川に囲まれた旧城下町の一部である。南北行き三筋の通りが配され、東の通りに沿って柳町、中央の通りに沿って殿町、西側の通りに沿っては、北から職人町、鍛冶屋町、本町とされる。
山上には本丸が、山麓の二の丸には居館が置かれた。柳町及び殿町には武家地が配され、職人町、鍛冶屋町、本町及び大手町には町人地が形成された。大正8年、北町一帯が焼失する大火が発生する。復興にあたり、武家地が細分化され町家が建ち、屋根の不燃化が進められた。
 郡上市郡上八幡北町伝統的建造物群保存地区は、東西約589メートル、南北約525メートルで旧武家地、旧町人地並びに八幡城跡から構成される面積約14.1ヘクタールの範囲である。主屋は総二階建で、切妻造平入、真壁造で木部を弁柄(べんがら)塗とし、壁を漆喰塗とするものが多い。袖壁を設けるのが一般的で、屋根は鉄板葺又は桟瓦葺を基本とする。敷地の傾斜を利用して、主屋一階の床下にシタヤと呼ばれる居室やムロと呼ばれる貯蔵庫を設けるものもある。通りに沿ってそれぞれ水路が引かれ、現在でも生活用水として利用されている。
 郡上市郡上八幡北町伝統的建造物群保存地区は、四方を山と川に囲まれた自然地形をいかした城下町の一部で、統一された様式を持つ町家が密度高く建ち並ぶとともに、湧水をいかした水利施設とが一体となって、城下町としての歴史的風致を今日に良く伝え、我が国にとって価値が高い。」





郡上八幡博覧館

浄因寺、真宗大谷派の寺院







左に曲がり、職人町へ



職人町の角に長敬寺があります。
長敬寺と凌霜隊
『八幡城第二代と第四代の城主であった遠藤慶隆が、古今伝授で有名な「東氏」の子孫が飛騨高山の照蓮寺に仮住まいしていることを知り、慶長6年(1601)に招いて建立したのが長敬寺である。本堂裏に遠藤慶隆のものと伝えられている墓が残っている。また古絵図によると寺の裏近くに矢場が記されている。
 慶応4年(1868)4月江戸城開城の折、郡上藩士45名が「凌霜隊」を編成、佐幕派の中心会津へ救援隊として出発し、会津若松城の「白虎隊」と共に政府軍と戦った。
 9月、会津の降伏により凌霜隊士は郡上へ護送され獄舎に入れられた。きびしい獄舎の生活に犠牲者の出るのをみた城下寺院の嘆願が聞き入れられ、明治2年長敬寺に移された。明治3年釈放されたものの彼らの一生は苦しいものがあった。」

山門





龍の彫刻







本堂

















鐘楼





職人町・鍛冶屋町









蓮生寺









再び通りへ、小川が流れています。





















宗祇水
「文明年間連歌の宗匠飯尾宗祇が東常縁から古今伝授を受けるため、この泉のほとりに草庵を結び、この清水を愛用したところから名づけられた。昭和60年全国名水百選の一番手として指定を受けた。」









清水橋













直井家住宅主屋(登録有形文化財)
「明治22年(1889)/昭和初期(1926-1988)増築、木造2階建、鉄板葺、建築面積252㎡。歴史的な町並みの中心となる交差点角に建つ。建築面積252㎡、木造2階建、鉄板葺。南側は昭和初期に増築された居室で、西隣には土蔵を接続する。2階は旧規を良くとどめ、通りに面して連続する出格子を設け、落ち着いた佇まいの街角景観を形成している。」







やなか水のこみち
「風情のある水辺のポケットパーク。別名美術館通りとして、界隈に3つの美術館・民芸館があります。」





野中稲荷神社
「野中稲荷神社は、この一帯に郡上藩三代藩主遠藤常友の弟大助が家臣とともに住んだ長屋群があり、その遠藤家の屋敷と土地を守る屋敷神であったとされる。」















願蓮寺
「願蓮寺は、明応3年(1494)に腰細村(相生)に正円が僧庵をむすび、親鸞聖人が開顕された浄土真宗宣布の道場から歩みが始まり、爾来十七代に渡り法灯が相続され今日に至っています。時は戦国時代であり、僧侶と言え、歴代住職の中では武士としての面を持っていたようあります。二代正専のころ、永禄12年(1569)に飛騨の三木自綱が郡上を来襲する事件があり、時の城主遠藤慶隆から寺院側に援軍の要請があり、正専も三参戦し畑佐の砦を襲撃し大激戦の末、敵軍はついに砦をすてて境外に退去したのですが、その戦いの中で、正専は奮闘するもついに敵刃に散ったのであります。元和9年(1623)、五代目慶傳の代に本山から寺号公称(願蓮寺)が許可されました。」

















日吉神社
「御祭神は大山咋神で、往古この地は原野にして宇大美屋と称し西に向いて一小祠あり開基は判らず。天正年中(1573~1591)遠藤慶隆この社に戦勝を祈り安久田村日吉村をも勧請合併して社殿を営み城南の鎮護とした。」

鳥居



拝殿

狛犬





稲荷社





最勝寺
『浄土真宗本願寺派の寺院で山号を玅高山と称する。本尊は阿弥陀如来である。当寺創立は、越前(福井県)田野最勝寺文書に「清和天皇十五代の末孫伊予守源宗政が貞永2年(1233)上洛し親鸞聖人に帰依し直弟となり、法名を専修と言い姓を多田と称して一宇を建立した」とあるように摂津国多田庄(兵庫県川辺郡)に一宇を建立したのが始まりである。郡上での一向宗寺院としての活動は、郡上九ケ所門徒道場などで以前からなされていたが、延徳元年(1489)九世専宗の時、美濃国郡上群市島村(郡上八幡)に最勝寺の道場堂宇が建立された。永禄9年(1566)十一世専賢の時、郡上をめぐる合戦による兵火のため市島の堂宇・宝物などすべてを焼失し、隣の川佐村に移転したことがあった。その後、越前国大野郡(福井県大野市)に移ったが、世継ぎの関係で3つに分かれ、その一つが郡上八幡に建立された。他の二つは、福井県大野郡上据村の最勝寺(本願寺派)と同県大野市明倫町の最勝寺(大谷派)である。寛文6年(1665)に郡上八幡の六代城主遠藤常友の城下町整備に伴なう政策ににより現在地(八幡町赤谷山本)に寺領が与えられ、現在に至っている。』

山門

鐘楼

本堂

道路のマンホールは魚

慈恩護国禅寺
「臨済宗妙心寺派の寺院である。当寺は戦国時代末期、八幡城主遠藤慶隆公深く禅門に帰依され、京都花園妙心寺に定慧円明国師(南北玄興禅師)を訪ね、その弟半山紹碩禅師を当地に迎えて教えをこわれ、慶長11年(1606)国泰民安を祈願して建立、半山禅師を創建開山と仰がれる御本尊は、釈迦如来である。」

山門











鐘楼



庫裏・玄関





本堂



町並みに戻ります。

乙姫川沿い

左京稲荷
「このあたりは旗本三千石金森左京の屋敷跡ですので左京町といわれております。金森左京は、元郡上藩主金森頼錦の分家です。本家が宝暦の百姓一揆で断絶したとき一族でただ一人特に存続を許され、明治維新まで栄ました。この稲荷神社は好運児金森左京の守護神でありました。こんにちも一家の繁栄を願う多くの人々から崇敬されています。」







宝暦騒動(郡上一揆)1754~1758
「江戸時代の宝暦年間に、郡上の百姓たちが年貢の取り立て方法変更等の藩政に対して蜂起した百姓一揆。藩主、金森氏を改易に追い込むほか、老中・若年寄など幕府の中枢も失脚となる歴史的な事件となりました。」
町並みへ

駐車場にもどりました。
いがわの小径
「いがわのこみち」は、民家に囲まれた用水沿いに続く、長さ119m、幅1mの小さな生活道路です。(当地では古くから、生活に利用する小河川、用水路のことを「いがわ」と呼んでいます。)この用水(島谷用水)は、周辺の有志の人達(いがわと親しむ会)によって、自主的に管理されている鯉や、岩魚、あまご、鮎などが泳いでいます。」













お疲れ様でした。下呂温泉に向かいます。
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郡上八幡城(木造再建城としては最古)

2017-06-30 14:41:33 | 岐阜
2017年6月27日、美濃の卯建の上がる町並み、郡上八幡城、郡上八幡城下町の散策、そして下呂温泉、名古屋城の1泊2日の旅行です。美濃市の次は郡上八幡城です。梅雨ですが、雨が降らずに眺望もいいです。
郡上八幡城の案内図

郡上八幡城
パンフレットより『別称、積翆城、郡上城、山城で創建は永禄9年(1566)、天守は昭和8年(1933)に模擬天守として建築。4層5階建木造建築、木造再建城としては日本最古、建面積118.98㎡(35.99坪)、述面積309.11㎡(93.50坪)、高さ17.18m、石垣等の城跡は岐阜県指定史跡。
 承久3年(1221)、下総国(千葉)香取郡東庄の領主、東胤行(とうのたねゆき:鎌倉幕府の有力御家人、千葉氏の家系)が山田庄(現、高鷲・白鳥・大和・八幡北部の地域)の地頭職をうけ郡上東氏の初代となった。東氏は阿千葉城(大和町剣)を築き90年ほど居住した後、篠脇城(大和町牧)へ居を移し郡上支配を固めていった。
 応永16年(1409)、東益之は郡上東部の支配のために赤谷山に犬啼山城(八幡町安久田)を築く。応仁2年(1468)、東常縁の東征の留守をついて、美濃国守護土岐氏の守護代・斉藤妙春に篠脇城と所領を奪われる事件がおこるが後に返還した。
永禄2年(1559)、八朔の祝いの席で東常慶と常堯親子に遠藤胤縁が暗殺される事件が起こった。胤縁の弟・遠藤盛数と胤縁の子・胤俊は、牛首山(八幡山)に陣をしき、弔い合戦の名目で「赤谷山城の戦い」を起し、約340年続いた郡上東氏を滅ぼした。盛数と胤俊は郡上を半分ずつ領有し、郡上の両遠藤と呼ばれた。
 永禄5年(1562)、盛数死去により長子慶隆が13歳で跡を継いだ。永禄7年(1564)、胤俊が慶隆へ叛旗を翻す事件が起きた。翌年、慶隆は母が再婚した関城主の長井道利の助けを得てこれを退けた。
永禄9年(1566)、郡上を統一した慶隆は、郡上八幡城や城下町の建設をおこなうかたわら、織田信長の配下として、姉川の合戦をはじめ各地を転戦し戦功をあげた。
 天正16年(1588)、慶隆は岐阜城主・織田信孝にあったため豊臣秀吉に疎まれ、加茂郡小原(岐阜県加茂郡白川町)に転封となり、稲葉一鉄の子・稲葉貞通が四万石で入部した。
 慶長5年(1600)、遠藤慶隆は徳川家康に願い出て、飛騨の金森可重の援軍を受け、9月1日「郡上八幡の戦い」を起こした。慶隆は大宮山王(現八幡町日吉神社)に着陣し、小野滝山に陣をしいた可重と両面から城を攻撃し激戦となった。勝敗は決まらず、翌2日、城の稲葉通孝(貞通の末子)から和睦の申し出があり、慶隆は陣を赤谷(現愛宕公園)へ移した。その頃、犬山城にいた稲葉貞通は郡上八幡城攻撃の報を受け、急遽兵をまとめ3日の明け方、慶隆の赤谷本陣を奇襲した。慶隆は小野滝山の可重の陣に危うく逃れた。翌4日、貞通は小野滝山の陣に使者を送り和議が成立した。郡上八幡の戦いの後、遠藤慶隆は関ヶ原の戦いに東軍として参加し、郡上八幡城主として二万七千石に封ぜられた。稲葉貞通は豊後国(大分県)臼杵へ五万石で転封となった。
 慶長8年(1603)、江戸幕府はじまる。遠藤慶隆は初代郡上藩主となる。』
岐阜県郡上市八幡町柳町一の平659
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城まで、一方通行の道路があり駐車場に行きます。拝観料310円です。
案内図



野面積みの石垣





隅櫓







力石伝説「赤髭作兵衛の力石」
「城の改修の際、郡上各地から駆り出された人夫の中でもひときわ剛腕で知られていた釼村(現大和町剣)の作兵衛(通称赤髭)が約350kgもの大石を城下の河原から一人で背負いあげて運んでいるのを見た譜請奉行がその力量を褒め讃えたところ、作兵衛が感激のあまりその場で卒倒して息絶えてしまった。哀れんで奉行はこの石の使用を禁じたが、昭和8年の城再建の折、放置されていたこの石が見つかり力石として安置されました。」



隅櫓と天守閣





八幡城の沿革

郡上八幡からの眺望

東殿山城跡
「前方の高い峯が東殿山で東側の頂上が城跡である。天文11年(1542)頃、東常慶によって築かれた城で、東西南北約30mの四辺形をなし断崖と急斜面の天然の要塞である。現在西側には四段に分かれて周囲に石垣が残っている。永禄2年(1559)、8月の合戦で八幡山に陣を構えた遠藤盛数の軍勢一千余騎に愛宕山方面から攻められたてこもった常慶軍は10日間の死闘の末ついに落城し滅ぼされた。この激闘で追いつめられた城兵が断崖からころげ落ちて死んでいった東側を今も地獄谷と呼ぶ。」







奥の院



天守閣

人柱伝説「およしの物語」
「城の改修の際、工事が難航を極め、ついに人柱をたてることになりました。白羽の矢が立ったのは神路村(現大和町神路)の数え年17歳の美しい娘およし。用材となる大木の運搬を不思議な力で手助けしたと噂が奉行の耳に入っていたのです。お城を護る為にと意を決したおよしは、吉田川で身を清め純白の振袖と帯を纏い、人柱としてお城の下に眠ったのです。美しい乙女の魂が城を永えに守り抜いたというかなしくも美しい伝えを人々は忘れずに現在もおまつりを続けている。」



眺望





天守閣入口

駕籠



























































































首洗い井戸
「慶長合戦に際して討ち取られた寄せ手の名のある武士のチ泥で汚れた首が洗い浄められ、首実検に供されたという。」



次は郡上八幡の城下町の散策です。郡上八幡観光協会横の駐車場に移動します。
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美濃・うだつの上がる町並み

2017-06-30 09:59:41 | 岐阜
2017年6月27日、美濃・郡上八幡の散策で下呂温泉宿泊、名古屋城観光の1泊2日の旅行です。中国自動車道、名神高速道路、東海北陸自動車道の美濃ICで降ります。250Kmの走行です。最初の目的地は美濃市のうだつの上がる町並みで重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。図書館横の無料駐車場に車を止めて反時計回りに散策します。
小倉山城櫓

















小倉公園に沿って長良川へ歩きます。葉もみじが素敵ですね。



美濃橋(重要文化財)
「大正5年(1916)建造、鋼製補剛吊橋、橋長113.0m、幅員3.1m、コンクリート造アンカーレイジ2基を含む。美濃橋は,美濃市街地の北部,小倉山の西方を長良川が湾曲して流れる地点に架かる吊橋である。岐阜県技師戸谷亥名蔵を中心に建設が進められ、大正4年8月起工、同5年8月に竣工した。橋長113m、支間116m、幅員3.1mの単径間補剛吊橋である。 両岸に据えられたアンカーレイジに、鉄筋コンクリート造の主塔から吊るされた主ケーブルを碇着し、吊ケーブルで支持された橋桁を鉄骨トラスで補剛する。美濃橋は、わが国に現存する最古の近代吊橋として、橋梁建設史上、高い価値がある。近代吊橋の要素を構造躯体全体に備え、建設当時わが国で最大級の支間を実現した、大正期を代表する吊橋として、重要といえる。」
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長良川



川沿いに西に進みます。
前野渡舟場跡
「この渡舟場は、室町時代から牧谷と上有知をつなぐ重要な通路であった。昔は下渡りに対して上の渡しといっていたと推察される。安毛から曽代に渡る道もあったが、前野に来てこの渡しを通り港町の坂を登り上条を経て上有知に入るのが近道であった。当時、上有知の町は上条の段丘下の低地にあったが、、関ヶ原戦後、金森長近によって新城下町上有知が造られ、この渡舟場近くに上有知湊が開かれた。」



川端地蔵さん
「長良川での水の犠牲者が多く出た。当時の清泰寺住職高林玄宝老師は深く是を憐れみ、水難者の霊を慰める共に今後は水難者のでないようにと、川端に延命地蔵尊の建立をしました。」





曽代用水(世界かんがい施設遺産)



近くにトイレがあります。



川湊灯台、上有知(こうづち)湊跡(岐阜県指定史跡)
「慶長6年(1601)、金森長近が領主となり小倉山城を築き、城下町上有知をつくりました。その繁栄策として、上有知湊を開き、番船40艘をおき、物資交流の要所としました。その後、江戸時代は美濃国四大川湊の一つとして明治末年電車が開通するまで水運の要点でした。この住吉灯台は水の守護神、住吉神社の献灯を兼ねて江戸末期に建てられました。川湊の灯台として現存する全国的にも珍しい貴重な建造物である。」





住吉神社



川沿いの道を進むとT字路で左に曲がり古い町並みへ進みます。途中右手に須田家です。
「須田家は代々万右衛門を襲名する素封家(大金持ち)でした。上有知一番の大地主と言われていた。戦後の農地解放で多くの田畑を失った。須田家は紙業の問屋を営んでいた時期もあつたが、明治27年には当主が国会議員に選出され、金鉱山の試掘や地元の有力者達と有知銀行をおこし、紙業会社類4商会を設立するなど大活躍した。」











梅村家住宅
「江戸時代の紙商、長瀬の武井助右衛門と共同事業として尾張藩の藩札を一手に引き受けたことも記録に残っている。」











旧武藤家
「豪華な屋敷構え、旧武藤家は上有知町づくりに際し、金森長近が関の刀匠を招いて移住させたと伝えられている。はじめは刀鍛冶、後に刃物金物を業として今日に至っていた。卯建造りの右と後方に大きな倉庫を並べ、いかにも富裕さを誇示するかのような構えである。建築年代は江戸末期であるが、装飾の多い卯建や塗籠の壁などは、明治時代になってからの改造であろう。家の前に円環をとりつけた石があるが、これは馬車の使用が多かった時代の馬繋石である。」









一番町通り



らんたんや









町並み案内図





願念寺、真宗大谷派の寺院
寺標



山門



鐘楼





本堂







寺院を出て、南に進みます。







左に曲がって、二番町通りを東向きに進みます。









鈴屋

町並みギャラリー、山田家住宅、入場料無料ですが、火曜日は休館日でした。

























小坂家住宅(重要文化財)
「小坂家は代々つくり酒屋を営む素封家で、母屋から後ろに続く酒蔵まで総べて江戸時代の建築である。むくり屋根の町家は珍しく、上方の影響を受けたものである。卯建飾りは鬼瓦を欠く古風なものである。元来は三本卯建の家であったが、明治時代に中央の卯建を取り除いて現在の姿となった。軒に吊るす杉玉は酒屋の印、四角の箱は火防の神を祀る。内部は一部、明治の改造であるが、帳場の構えや建具の一つ一つに江戸時代の美しい姿が残されている。」































古川家住宅
「古川家は大火焼失後、明治初期の建築である。平野家という呉服家であった。江戸時代には卯建に隣接して卯建を建てた事例はない。この家は明治の新しい自由な気風にのって、あえて隣家の間に空地をとり、立派な卯建造りを新築した。建ちもわずかながら高く、軒飾りも一層手がこんでいる。」



















北側に進み一番通りに行きます。









旧今井家住宅・美濃史料館(美濃市重要文化財)
「江戸時代中期の建築で、古い形式の卯建造り、美濃の代表的商家のひとつである。間口15.8m、奥行15.8mで8畳間9つどりを基本形にした最大規模の家屋である。江戸時代から紙の原料商として繁栄をつづけ、江戸末期には庄屋を、戦前には町の諸役を勤めた名家である。」



















大石家住宅
「明治5年の卯建造り、この家には棟札があり、建築年代がはっきりした家の一つである。この家は明治の頃は米屋を営み、若主人は自由民権運動の闘士として活躍した。卯建飾りは江戸時代より一層豪華となり大きい鬼瓦、太くして装飾一杯の破風瓦、大きな懸魚がつき、明治の卯建の特色を表わしている。」







寶勝院、真言宗醍醐派の寺院























庫裏









次は郡上八幡城に移動します。
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青春18切符で垂井宿へ②、垂井の泉・京料理の貴船・南宮大社

2017-04-01 20:19:21 | 岐阜
2017年3月31日、青春18切符で、中山道の垂井宿に友人達13名と行きました。青春18切符で垂井宿へ①の続きです。
少し西側に戻って垂井の泉
『岐阜県の名水50選に選ばれた泉で、湧き出る清水は涸れることを知りません。古くから和歌に詠われ、「垂井」の地名はここから生まれたといわれています。「続日本紀」天平12年(740)12月条に、美濃行幸中の聖武天皇が立ち寄った「曳常泉」もこの場所と考えられており、歌枕としても知られ、藤原隆経は「昔見し たる井の水はかわらねど うつれる影ぞ 年をへにける」(詞歌集)と詠んでいる。芭蕉も「葱白く 洗ひあげたる 寒さかな」という一句を残している。泉の脇には松尾芭蕉の句碑も建てられています。』











垂井の泉の横にある玉泉寺









大ケヤキ(岐阜県指定天然記念物)
「この大ケヤキは、樹齢約800年で、高さ約20m、目通り約8.2m、このような巨木のケヤキは県下では珍しい。」

専積寺
境内は工事中でした。















垂井城跡
「ここは関ヶ原合戦で活躍した西軍の武将平塚為広の居城跡といわれる垂井城があったところと推定されています。」




昼食を予約していた時刻になってきましたので、料理屋に行きます。
京料理の貴船です。
ランチ2000円です。ビールで乾杯しながら料理に舌鼓です。
附きだしに刺し身の盛り合わせ

天ぷら

煮物

アサリ汁と香の物

デザート

お腹もふくれて、帰りの列車の関係もあるので、いそいで、南宮大社に行きます。
タウンバスで垂井町役場前から乗車です。マイクロバスなので定員が13名、先客が2名いましたので、2名は歩いて南宮大社へ。約1.5kmです。タウンバスは1乗車が100円で3コース走っています。

大鳥居
「高さ21m、鉄製の南宮大社の鳥居は、東海有数のスケールを誇っています。今では垂井町の名所としてすっかり定着し、新幹線の車窓から真近に眺められる鳥居として有名です。」

南宮大社五月大祭神事舞奉奉市場

南宮大社
「金山彦命を主祭神に、旧国弊大社として美濃国一の宮として、また全国の鉱山、金属業の総本宮として、今も深い崇敬を集めています。社伝では神武天皇即位の年の創建とされ、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で社殿のすべてを焼失、寛永19年(1642)、三代将軍徳川家光が再建しました。広い境内には本殿・拝殿・楼門など、朱塗りの華麗な姿を並べ、江戸時代の神社形式の代表的な建築物18棟が、国の重要文化財に指定されています。年間を通じて大小50余の祭典が行われ、5月5日の例大祭、11月8日の金山祭(ふいご祭り)などの神事があります。」











参道

由緒書

下向橋
「花崗岩で造られた平な橋で、人が参拝で行き帰りに渡る橋です。5月5日の例大祭で神輿が下向ことから下向橋と呼ばれています。」

石輪橋(重要文化財)
「楼門の前にある橋で、神様が通る橋とされている。石造反橋で橋脚二基、擬宝珠高欄付。」

祓所

楼門(重要文化財)
「三間一戸楼門で、入母屋造、檜皮葺。」



















狛犬、楼門の裏側(境内側)





手水舎



高舞殿(重要文化財)











回廊(重要文化財)





拝殿(重要文化財)
「桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、妻入、正面軒唐破風付、檜皮葺。」

由緒書

本殿(重要文化財)
「桁行三間、梁間四間、一重、入母屋造、向拝一間、檜皮葺。」

摂社樹下神社本殿(重要文化財)
「桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、向拝一間、檜皮葺。」

勅使殿(重要文化財)
「桁行七間、梁間五間、一重、入母屋造、妻入、銅板葺。」



北門



社務所

落合社

神輿舎

南門



かけ絵馬

宝蔵庫

南宮大社のお参りをして垂井駅に戻ります。
願林寺、真宗大谷派の寺院です。

山門

本堂

鐘楼

庫裏

境内

お疲れ様でした。神戸に帰ります。
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青春18切符で垂井宿へ①、竹中半兵衛象・相川の鯉のぼり・本龍寺・小林家

2017-04-01 20:17:56 | 岐阜
2017年3月31日、青春18切符で、中山道の垂井宿に友人達13名と行きました。新長田で神戸駅に、そこで新快速に乗り米原で大垣行きに乗り換え垂井駅で11時前に下車です。垂井駅は関ヶ原浮きの1つ東の駅です。小雨が降ってきました。
 垂井宿は中山道69次の58番目の宿場で、現在は岐阜県不破郡垂井町です。200年前の当時は本陣、脇本陣、旅籠が軒を連ね、美濃一宮の南宮大社の門前町として、そして中山道と東海道を結ぶ美濃路との追分宿として賑っていました。



垂井観光map

駅前の竹中半兵衛の像
「豊臣秀吉の軍師としてその名も高い、本名は重治。美濃国大御堂城主(現揖斐郡大野町公郷)竹中重元の子として、天文13年(1544)に生まれたといわれている。この頃竹中氏は美濃の国守・斎藤家に仕えていた。永禄元年(1558)父・重元は不破郡岩手村(現垂井町岩手)に居城していた岩手弾正を襲い、福田・長松・岩手付近を領し6千貫の領主となった。半兵衛は乱世に生きる武士としては頼りなさそうに思われていた。父没後も仕えていた斎藤家の家臣達から『うつけ者」と嘲笑されていた。永禄7年正月、高齢の念がの挨拶に稲葉城に登城した半兵衛を、斎藤家の家臣達が侮辱した。半兵衛の家臣が怒ろうとすると、これを制し、知らぬ顔で岩手に帰った。半兵衛は策を回らせた。安藤守就と相謀って、同年2月6日、稲葉山城に人質として預けられている弟・久作の病気見舞いと称して従者16名を率いて白昼堂々と城へ赴き、夕刻を待って武具を付け登城し、番頭斎藤飛弾守以下数名を切り伏せた。城主龍興は驚き鵜飼城へ逃れ、半兵衛は名実共に稲葉城主となった。難攻不落と言われた城を主従18名で奪取したので『美濃に半兵衛あり』とその名は全国津々浦々に知れわたった。半兵衛稲葉城奪取の報を聞いた隣国織田信長は「美濃半国を与えるから城を譲って欲しい」と申し入れたが、半兵衛は、「主君を諌める為にかかる大事を決行しただけ。何れ城は主君龍興に返す所存」と言って拒絶した。同年8月頃、城を龍興に返し半兵衛は江州浅井長政の食客となり、翌年秋頃岩手へ帰った。たまたま粟原山に閑居している時、信長の使者・木下藤吉郎(のちの秀吉)が三顧の礼を以て半兵衛を訪ね、「信長公に御味方なさる様」懇願したので、説得に応じて信長に仕え、命により藤吉郎に属し与力の謀臣となった。半兵衛は秀吉と形影相伴って知恵袋として活躍する。姉川の役には弟・久作が浅井の猛将遠藤喜右衛門を討った。『智の半兵衛、武の久作』として竹中の名は天下に響きわたった。」

竹中半兵衛の墓は三木市平井の別掲はこちら
駅前観光案内所のポスター

垂井町の無料ガイドの案内で街を散策します。まずは駅から北に歩き相川橋へ。
街角ギャラリーのふくろう

相川に架かる相川橋に東の見付です。宿場の入口になります。

「垂井宿は中山道の始点、江戸日本橋から約440km、58番目の宿になります。見付は宿場の入口に置かれ、宿の役人はここで大名などの行列を迎えたり、非常時には閉鎖したりしました。ここ東の見付から約776mにわたり垂井宿が広がり、広重が描いたことで知られる西の見付に至ります。」

相川での鯉のぼり、今年は3月18日から5月14日の予定で川にロープを貼って泳いでいます。後の山は伊吹山です。積雪があります。



相川の人足渡跡
「相川は昔から暴れ川で、たびたび洪水がありました。そのため、江戸時代には人足渡しによる渡川が主流でした。川越人足は垂井宿の百姓がつとめ、渡川時の水量によって渡賃が決まっていました。一方、朝鮮通信使や姫宮などの特別な通行があるときには、木橋がかけられました。」

川沿いの桜並木、まだつぼみでした。

























西の見付
「安藤広重の垂井宿の版画は、ここから西方を見た風景を描いています。」ここから東向きに歩いていきます。





西町愛宕神社





















本龍寺
『松尾芭蕉は、奥の細道紀行の2年後、元禄4年10月、本龍寺でしばらく冬籠りをしました。現在公開はしていませんが、江戸時代末期芭蕉を記念して建てた「時雨庵」があります。また山門は脇本陣から移築したものです。』



壁の装飾



山門



門を入ってすぐのところ、経蔵。

鐘楼



庫裏

本堂



旅館亀屋{小林家}(国登録有形文化財)
「当家は、江戸時代に油屋を営んでいた宇吉家から小林家が明治14年(1881)に譲り受け、昭和初期まで亀屋と称する旅籠を営んできた建物です。建築された年代ははっきりしませんが、幕末頃には建てられていたものと考えられます。切妻造瓦葺つし2階建平入りの建物で、2階には両側面に袖卯建を設け、土蔵つくりで庇下には火事の延焼を防ぐ濡れむしろを掛ける釘があります。外観、室内とも幕末の豊かな商家に相応しい品格を持っており、防火対策が随所に残された貴重な建物です。」









長浜屋
「江戸時代は旅籠で明治からは酒屋でした。現在はボランティアにより土日の午前10時から午後3時までお休み処として開放しています。」









南宮大社の大鳥居

南宮社まで8町

「寛永19年(1642)徳川家光将軍の寄進により南宮大社が再建された中で、明神型鳥居は約400両の金で、石屋権兵衛が建てた。高さ7.15m。」



本陣跡
現在は建物もありませんが説明書です。「本陣は、宿場ごとに置かれた大名や公家など重要な人物の休泊施設です。ここは中山道垂井宿の本陣があったところで、寛政12年(1800)の記録によると、建物の坪数は178坪で、玄関や門、上段の間を備える広大なものでした。垂井宿の本陣職をつとめた粟田家は、酒造業も営んでいました。本陣の建物は安永9年(1780)に焼失しましたが後に再建され、明治時代には学習義校(現在の垂井小学校)の校舎に利用されました。」



おもてなし処 たるい庵
垂井宿の地図を再現したものを展示しています。この地図には家だけでなく、間取りが描かれています。すごいですね。土間や庭、蔵、屋敷の中の何畳と表示があります。



亀丸屋
「江戸時代本陣脇本陣が利用されていた時、大名が次に泊まった由緒ある旅籠です。200年ほど続き、今なお、当時の姿を残して営業している貴重な旅館です。安永6年(1777)に建てられた間口5間、奥行6.5間の母屋と離れに上段の間を含む八畳間が3つあり、浪花講、文明講の指定旅館であった。当時は南側に入口があり、2階には鉄砲窓が残る珍しい造りである。」





青春18切符で垂井宿へ②に続く
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カトリック多治見教会神言修道院

2015-10-09 17:48:03 | 岐阜
2015年10月6日、永保持から10分ほどなので寄ってみました。
1930年(昭和5年)に、ドイツのモール神父により、日本の修道士の養成を目的に建てられた修道院です。日本で唯一、ワインを醸造する修道院で、ぶどう畑があり、地下室で醸造しています。白ワインを1500円/1本を買いました。十字架が印刷されたラベルが貼られています。
岐阜県多治見市緑ヶ丘38
map































ここで、10月4日から6日の福井、石川、岐阜の3日間の旅行での観光を終え、神戸に帰ります。ワイン以外に栗、りんご、お菓子、漬物、車麩など、車の中はお土産で一杯です。お疲れ様でした。アーメン。
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永保寺

2015-10-09 17:26:33 | 岐阜
2015年10月6日、永保寺にお参りしました。山号は虎渓山で、臨済宗南禅寺派の寺院です。
夢窓疎石が鎌倉時代(1313年)に開創され、中国廬山の虎渓に似ていることによることから虎渓山としています。鎌倉末期に建てられた「観音堂」と「開山堂」は国宝に指定され、池泉回遊式庭園は国の名勝に指定されています。拝観料はいりません。駐車場は踏切の手前にあります。
岐阜県多治見市虎渓山町1-40
map
駐車場の案内板

線路を渡って、灯籠



参道を歩いてすぐ左手にある続芳院



















参道を進みます。

案内板



少し坂を下ります。



境内



本堂





玄関

庫裏





庭園









イチョウの木(多治見市指定文化財)







鐘楼



観音堂(国宝)











六角堂







































開山堂(国宝)





















保寿院



















お疲れ様でした。(合掌)


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恵那市いわむら城下町(重要伝統的建造物群保存地区)

2015-10-09 14:33:36 | 岐阜
2015年10月6日、馬籠を散策した後、約30km南西の恵那市いわむら城下町に行きました。明知鉄道線岩村駅の東側にある岩村コミュニティセンターの駐車場に自動車を止めて散策です。そこから東に本通り一帯が保存地区です。
map
案内板

本通り

天気が良くて、空が澄み切っています。

























































































郵便局

郵便ポスト































































火曜日が定休日でお店はほとんどが休みでした。飛騨高山や馬籠は観光客がたくさんいましたが、こちらはほとんどいませんでした。開いている店の方に聞くと土日には観光バスも来るとのことでした。ゆっくりと散策できましたが、ちょっぴりさみしいような・・・。

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馬籠(中山道の宿場)

2015-10-09 11:46:14 | 岐阜
2015年10月6日、4日から6日の福井、石川、岐阜観光の最終日です。下呂温泉に宿泊の後、約1時間、南に走ります。
馬籠(まごめ)は、中山道の宿場で、江戸日本橋を起点とし京都まで約530kmの道に69箇所の宿場がおかれ、43番目になります。島崎藤村の生地として知られています。東海道53次に比べれば、遠回りですが、大井川の水かさが増えたときは渡しがないこと、雨天が続けば数日足止めされる、また、桑名の船旅での海難を避けて、中山道が使われました。昔の旅人は山道を歩いたのだなあと改めて感嘆しました。飛騨高山の保存地区と同じように、こちらも外国人の観光客がたくさん来られていました。
馬籠館の駐車場に自動車を止めて散策です。
map









案内版



緩やかな坂を登ります。

石畳です。

白木屋









馬籠宿場の説明書と枡形(道を直角に2度曲げて作っています。城郭建築を模しており軍事的意味合いがあります。)







少し坂がきつくなります。

2つ目の直角です。水車小屋があります。すごく天気がよくて、青空が素敵です。



水車









清水屋資料館











































馬籠宿本陣跡・藤村記念館

















馬籠脇本陣資料館













































中山道、陣場、高札場の説明書

これより先は馬籠峠で妻籠になります。ここで折り返して戻ります。











































南京玉すだれの実演をしていました。地元の方ではなく、各地で披露しているとか。路上のため無料で、外国人も含め観光客は拍手喝采でした。





































お疲れ様でした。ソフトクリームと五平餅を食べました。栗をお土産に買いました。
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