旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

横見神社

2023-10-25 10:12:46 | 岡山
2023年10月23日、お参りしました。
説明書より「横見神社は、社地域にある『式内社』のひとつで、祭神は『大山津見命』といわれています。式内社とは、醍醐天皇の命令により、平安時代中期に編さんされた『延喜式」という法令集に記載されている神社のことです。現在の社地域には、この式内社が8社であることから、現在は通称「式内八社」と呼ばれています。日本では古くから、山や巨岩・滝などが霊場として信仰されています。社殿の延長線上に遠く櫃ケ山(ひつぎがせん)を遥拝できること、また、正面は、佐波良神社・形部神社の方に向いていること、霊山や他の『式内社』との関係をもとに、この場所に神社が設定されたものと推案されています。」

岡山県真庭市社758
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鳥居

拝殿

狛犬





本殿




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佐波良神社・形部神社

2023-10-25 08:49:05 | 岡山
2023年10月23日、お参りしました。
説明書より「佐波良(さわら)神社・形部(かたべ)神社は、社(やしろ)地域にある『式内社』のうち2社が、ひとつの社殿に祀られたものです。祭神はそれぞれ、「佐波良命」、「神阿多津姫命」といわれています。式内社とは、醍醐天皇の命令により、平安時代中期に編さんされた『延喜式」という法令集に記載されている神社のことです。現在の社地域には、この式内社が8社であることから、現在は通称「式内八社」と呼ばれています。この神社は、江戸時代までは『大社』、現在は通称『県社』と呼ばれています。明治時代になって、県内の神社がそれぞれランク付けされた際に、この神社が、高位である『県社』に指定されたことによる呼称です。本殿の裏側には、石積の祭祀遺構が残っています。周辺からは奈良時代の土器も出土しており、古くから信仰の場であったことがわかります。なお、神社前の田は『大社ノマエ』と呼ばれており、参道・鳥居の両脇の田は、かつては牛を使わず鍬だけで耕し、牛糞ではなく枯葉や草を肥料としていました。このように、神域では、清浄さを保つことが徹底されていました。」

社地域案内図

岡山県真庭市社1272
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社標



手水鉢

狛犬



拝殿





本殿





境内

末社、山神社・荒魂神社・愛宕神社など

佐波良の大杉(真庭市指定文化財天然記念物)
「杉の老大木で、県下では5番目の巨木である。根周り10.7メートル、目通り9.1メートル余、樹高は43メートルを越す。幹の根元は谷川を跨ぎ、上部は6本の大枝に分かれ樹勢はまだ旺盛で樹齢推定9百年余、土地の人は千年杉と呼んでいる。」





「2003年NHK大河ドラマ『武蔵』のロケシーンで、武蔵が関ケ原の合戦から帰って来た作州宮本村で、沢庵和尚に捕まり大杉に吊るされているところを、お通が縄を切って逃がすシーンなどが撮影された。」







八畳岩
「高さ約6メートル、周囲約37メートルもある巨大な花崗岩は、岩の上部に広い平面があることから、『八畳岩』と呼ばれ、かつては、製鉄の鉄穴(かんな)流しの際に露出したとされてきました。しかし、この地で製鉄が盛んだったのは江戸時代中期以降であること、周囲の水田周辺にも幾つかの巨石が残ることから、岩盤質の地形が作り上げた偶然の造形物と考えられます。日本では古くから、巨石、奇岩なども霊場として信仰されています。この巨石も、古い時代から地域の信仰対象となっていた可能性が高そうです。」




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二宮(ふたみや)

2023-10-24 21:06:34 | 岡山
2023年10月23日、お参りしました。
「この場所には、社地域にある『式内社』のうち、久刀(くと)神社、長田(ながた)神社、兎上(おのかみ)神社、壱粟(いちあわ)神社、大笹(おおささ)神社の5社が集まっており、『大社」の佐波良神社・形部神社に次ぐことから、『二宮』と呼ばれています。『式内社』とは、醍醐天皇の命令により、平安時代中期に編さんされた『延喜式』という法令集に記載されている神社のことです。現在の社地域には、この式内社が8社あることから、通称「式内八社」と呼ばれています。壱粟神社と大笹神社がひとつの社殿に合祀されているため、社殿は4つとなっています。祭神はそれぞれ、『久那止神』、「事代主神』、『弟彦王』、『神大市比売命』・『大佐々神』といわれています。北側の山林や畑は、『オノカミ』という地名で、そこから祭祀用と思われる土器が出土したことがありました。そのことから、本来、別々の場所にそれぞれの神が祀ってあったものを、現在地に集めたのではないかとも推測されますが、定かではありません。」

岡山県真庭市社654
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鳥居



拝殿



狛犬



本殿



兎上(おのかみ)神社

永田神社

久刀神社

末社
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湯原温泉散策

2023-10-24 20:12:53 | 岡山
2023年10月23日、散策しました。
湯原町立湯本小学校閉校記念碑

旧湯本小学校校舎沿革

岡山県真庭氏豊栄1526
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湯原ふれあいセンター

オオサンショウウオの生息・繁殖保護地

はんざきセンター





はんざきミュージアム





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鯢(はんざき)大明神

2023-10-24 19:47:32 | 岡山
2023年10月23日、お参りしました。
「昔この祠の前の旭川に龍頭の淵という深い淵があった。この淵に大きなはんざきがいて、その近くに牛馬や人が行くと尾をもって掻き込み呑んでしまうというので村人は恐れて近づかなかったという。文禄の初年この大はんざきを退治しようと向湯原村の若者三井彦四郎は腰に紐を結び短刀を口に龍頭の淵に飛び込みこの大はんざきを討ち取った。引き揚げた大はんざきの大きさに村人は恐れ驚いた。体長三丈六尺(十メートル余)胴回り一丈八尺(五メートル余)あったという。このことがあってから、毎夜彦四郎の家の戸を叩き叫ぶものがあるので出て見ても誰もおらず、村人達は恐れて日暮れになると戸を締めて外へは出なくなったという。間もなく彦四郎一家は死に絶えて村内にも祟りがおよぶようになったので村人は国司神社の境内に祠を建てはんざきの霊を祀ったのが鯢大明神と伝えられる。この由来にもとづいて毎年八月八日はんざき祭りが行われるようになった。」
説明書

岡山県真庭市豊栄1530
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鳥居







社殿








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地福寺

2023-10-24 11:36:27 | 岡山
2023年10月23日、お参りしました。
真言宗御室派の寺院です。詳細不詳。
岡山県真庭市豊栄1372番地
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寺標



六地蔵



手水鉢

本堂



鐘楼








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新庄宿(出雲街道)

2021-12-24 08:37:46 | 岡山
2021年12月23日、島根から神戸の帰路で立ち寄りました。
「江戸時代の宿場町として栄えた新庄宿は、古代はヤマトとイズモを結ぶ道でした。奈良時代は運脚の道であり、出雲国造の神賀詞奏上の道でした。1604(慶長9)年には、出雲街道に一里塚がつくられ、1646(慶安元)年には、播州境いの万能乢まで整備されて、この道を通る人々は増えていったのです。松江藩主が参勤交代で利用した本陣や脇本陣などが当時の様子を残しています。公儀諸役人や公家息女の輿入れの道でした。また、東参り(伊勢神宮)西参り(出雲大社)への旅人も通り、江戸と松江を結ぶ『七里飛脚』の通る回数も多かったのです。街道の両側に植えられた『がいせん桜』のトンネルは、1905(明治38)年に村会で議決されて植樹がされました。岡山県指定の町並み保存地区、国認定の歴史国道などです。」
岡山県新庄村
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道の駅がいせん桜新庄宿





町並み

説明書























小川に鯉が泳いでいます。





脇本陣木代邸・新庄村有形文化財指定
「江戸時代末期の代表的な建物です。式台があり、見越しの格子、親子格子の出格子を取り付け、二階は大壁造りで、一階は真壁造り、腰はささらこ下見板張りという造りです。入り口の柱には、馬つなぎの環があり、トイレには今でも刀掛が残っています。」











雲州候本陣
「1635(寛永12)年に参勤交代がきまり、出雲街道をいつも通っていたのは、松江藩松平であった。1689(元禄2)年の文書によると、この町並みに御茶屋一軒あり、毎年昼休みされたという。佐藤家が松平子弟の『御茶屋』となったのは、1666(寛文6)年であり、その後の1757(宝暦7)年に『本陣』役の請負ができた。この頃から松平藩主は、昼休みだけでなく宿泊もするようになったのである。」















説明書
「国境いの山地の宿場、江戸末期には100軒ばかりの町並みとなった。問屋場、本陣、脇本陣、旅籠、諸店舗、製造業、諸職人、諸稼、農業などがあった。」












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矢掛(やがけ)の街並み

2017-12-31 20:14:10 | 岡山
2017年12月29日、28日香川県の引田のまち並み散策、志度寺、琴平散策、塩江温泉に宿泊し、国分寺、神谷神社にお参りし、岡山に進みます。瀬戸大橋のパーキング与島で一服、昼食です。



やっぱ、うどんかな。

釜玉うどん大盛504円にしました。

矢掛宿のなりたち
「江戸時代の山陽道(西国街道)は、幕府が直轄する五街道に次ぐ主要な街道でした。山陽道は大坂を起点に小倉を終点とする約128里で、その間に52の宿駅がありました。矢掛宿はその宿場町のひとつとして小田川に沿った自然堤防上に設置されました。矢掛宿が設置された正確な年代は、必ずしも明らかではありませんが、1615~42年(元和~寛永期)のころ、当時の備中松山藩池田氏の時代に設置され、1690年代(元禄初年頃)の幕府領の時代にかけて整備されたものと考えられています。武家諸法度が1635年(寛永12)に改正されてから、江戸と領地とを隔年に往復する大名の参勤交代が制度化されてから、街道の整備がいっそう進みました。宿場の最も重要な職務は、幕府御用の荷物(御用物)・手紙(御状箱)及び幕府御用役人、それに参勤大名らを宿場から宿場へ継ぎ送ることでした。これらはいずれも公用交通を最優先するしくみで、継ぎ送りには宿場に備えた人と馬を無賃または格安の賃金で使用することができました。人と馬とで継ぎ立てる任務のことを、当時は伝馬役といい、これらの任務に対する補償として、町内の屋敷地の年貢(地子)の免除も行われていました。この伝馬役は屋敷の間口に応じて負担したため、街道に面した町並み全体が一部を除いて間口が狭く奥行きの長い屋敷(「うなぎの寝床」という)が続くという、宿場町独特の景観をもたらしたのです。こうした町並み景観は、いくぶん変化したものの今日まで伝わっています。」
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町家のみどころ
「矢掛の町家は伝統的な本瓦葺が多く、正面の型は妻入り、平入りいずれもよく見られます。屋根や開口部に虫籠窓、なまこ壁、袖壁、平格子など伝統的意匠を数多く残しています。宿場内には家々が密集しているため、防火対策として漆喰で軒裏まで塗り籠めた出桁造りのものや袖壁を付したものが見られます。また、鬼瓦に水物(鯱など)を使うことで、火災除けとしている家もあります。」
まずは、矢掛町のふれあい広場に駐車して散策です。

旧山陽道です。





史跡、旧山陽道一里塚跡
「一里塚とは一里ごとの目印として道路の両側に土を盛って木を植えたところをいいます。一里塚を造り始めたのは織田信長で、その後、豊臣秀吉・徳川家康が全国に広めました。江戸時代の一里塚は、三十六町を一里とし、街道の両側に榎・松等を植えさせました。これは旅人の里程の目安となり木陰は休憩所となりました。現在、矢掛町には3ケ所の一里塚跡が確認できます。」













矢掛脇本陣高草家住宅(重要文化財)
「大名の泊まる本陣職が世襲でったのに対し、それ以下が泊まる脇本陣は時に応じて指定され、矢掛では7~8軒の商家が努めました。庭瀬藩の掛屋(会計方)であり、藩札の発行もした最後の脇本陣高草家の建物がそのまま残されています。」

























路地

コロッケ屋さん





妻入り五軒並び
「屋根の棟と直角に交わる三角形の面「妻の側に出入口がある形式を妻入り」と言います。中町の東寄りには五軒の妻入り町家が立ち並ぶ一画が有ります。愛らしい妻面の表情、ほぼ同じ高さに揃った下屋庇、そして軽やかな格子戸が見どころです。」



































矢掛本陣石井家住宅(重要文化財)
「寛永12年(1635)から幕末まで200年以上本陣職をつとめた石井家は庄屋であるとともに酒造業を営み、矢掛きっての豪商、大地主でもありました。建物には建築の粋がこらされています。」















胡宮
「宿場の繁栄を願って建立されました。」











観音寺















再び街並みへ



やかげ郷土美術館
「高さ16mもある赤松板張りの水見やぐらが目を引く美術館。収蔵品は矢掛出身の書家・田中塊堂と洋画家・佐藤一章の作品が中心。」



矢掛屋・温浴別館















鬼瓦、可愛いですね。

































お疲れ様でした。
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美作総社宮

2016-11-27 14:04:40 | 岡山
2016年11月24日、前日に湯郷温泉の竹亭に宿泊し、長福寺、本山寺、誕生寺、津山城跡、城東の古い町並みなどを散策し、美作総社宮にお参りに来ました。
岡山県津山市総社427
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由緒説明書
「美作総社宮は社記に欽明天皇の25年(およそ1400年前)大巳貴命(大国主命)を字本舘に(西方およそ1キロ)にお祀りしたのがはじまりと伝えられた。和銅6年(713)備前国から六郡を割いてはじめて美作国が置かれ、その翌年国府がこの里に開府されました。その後美作の国司が社殿をいまの社地亀甲山に移して大巳貴命を主祭神として一宮(中山神社)二宮(高野神社)の両大社をはじめ美作国65郷の総べての社祇を合祀して総社宮となづけてそのみちおよそ500年間歴代の国司はみなこのご神意を奉じて国内の政治を執り行いました。その後鎌倉時代になって国府がすたれたあともこの社は美作三大社の一つとして広く士民より崇祈され近世のはじめ美作国主森氏は多くの神領を寄進しのちの松平氏もまた祭祈料を奉納し明治維新後は県社に列せられました。」

社標

鳥居

参道



狛犬



手水舎

拝殿







本殿(重要文化財)
「現在の本殿は永禄12年(1569)に毛利元就が造営したものでのち明暦3年(1657)に国主森長継が大修理を加え近くは昭和7年に国と氏子の崇敬者一堂の協力によって解体修理がおこなわれました。この地方独自の中山造で、桁行三間・梁間三間・一重入母屋造・妻入、向拝一間・向唐破風造、こけら葺である。入母屋妻入の独特な様式をもち規模、豪壮で華麗な彫刻を総社宮に配置した桃山時代の代表的なすぐれた建造物で全国の総社宮のうちで当社のみが大正3年国宝に、現在は国の重要文化財に指定されています。」









神輿社

末社









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鶴山八幡宮(津山市)、装飾が凝っています。

2016-11-27 10:17:47 | 岡山
2016年11月24日、津山市内の城東重要伝統的建造物群保存地区を散策した後、鶴山八幡宮にお参りしました。
岡山県津山市山北159
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「八幡神社はもと鶴山(慶長年間津山城の敷地となった)にあり、鶴山八幡宮とも呼ばれてきた。この地方独特のいわゆる中山造の形式をもつ本殿で規模が大きく、良質で、保存も良い。組物を三手先とし、随所に地紋彫や浮彫を施し、丸彫や篭彫の彫刻を付けるなど、きわめて装飾性に富む。旧美作国一帯に分布する中山造の遺構のうち、最も手が込んでおり、華麗である。細部意匠の上では、江戸時代中期以降の装飾豊かな建物の早い例であり、この地方の社寺建築の動向を示す上に貴重な遺構である。」
由緒書

鳥居

狛犬



神門

境内

拝殿と釣殿(岡山県指定重要文化財)
「拝殿と本殿に繋がる釣殿は寛文9年(1669)の建造である。拝殿は桁行5間・梁間3間の桟瓦葺入母屋造で、檜皮葺唐破風向拝1間が付いている。釣殿は桁行1間・梁間6間の桟瓦葺両下造に銅板葺の背面唐破風が付いている。」

本殿(重要文化財)
「江戸時代前期の寛文9年(1669年)に建造された。津山地方独特の中山造の本殿である。随所に彫刻が施されている。建造当時は極彩色に着色されていた。」







紅梁にも彫り物が施されています。

木鼻が凝っています。







薬祖神社社殿(岡山県指定重要文化財)
「桁行5尺2寸・梁間1間2尺の栩葺流造で、鶴山の社地から移転したと伝えられており、当神社で最も古い建造物である。」



末社













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