旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

妙光寺

2022-12-01 20:22:46 | 鳥取
2022年11月30日、お参りしました。
パンフレットより「1474(文明6)年のころ僧日任が法華経の布教に努め、草庵を建てたのがその始まりで1600(慶長5)年ごろ備前の僧日帳が本長寺と号して再興したと伝えられる。1632(寛永9)年ごろ廃寺となったが、二世日安住職と信者たちによって現在の地に建立されたという。」
鳥取市鹿野町鹿野330
map
寺標



手水舎

仏足石



本堂


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浄徳寺

2022-12-01 20:20:13 | 鳥取
2022年11月30日、お参りしました。
パンフレットより「この寺は、寛永年間(1624~1644)に伊吹入道正西が開いたと伝えられる。山号は西向山と号す。現在の地には1761(宝暦11)年に移転された。本尊の阿弥陀如来は名工春日の作と伝えられる。また、本道裏手の庭園は獅子舞山を借景に築かれており、『つつじ庭園』として知られている。」
鳥取市鹿野町鹿野328
map

寺標

山門

手水舎

本堂







鐘楼
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三光院

2022-12-01 20:15:20 | 鳥取
2022年11月30日、お参りしました。
パンフレットより「1588(天正16)年、川渕(現在の上町北側)から不思議な光があるので鹿野城主亀井茲矩により探させたところ、渕の底から薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩の三体の仏像が見つかった。茲矩公はこの渕を埋め寺を建てて三像をまつったと伝えられる。これが三光院と呼ばれる所以である。やがて、茲矩公の移封とともに荒廃したが、寛永年間に池田輝澄が現在地に建立した。本尊の木造薬師如来立像は県保護文化財。是像高1,4メートル、平安中期の作といわれている。」
鳥取市鹿野町鹿野1028
map





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加知弥(かちみ)神社

2022-12-01 20:07:40 | 鳥取
2022年11月30日、お参りしました。
由緒書より「鹿野町大字寺内、通称飯田の森と呼ばれるところにある。祭神は彦火々出見命、鵜草葦不合命、玉依姫命。創立年代は不祥だが、延喜式神名帳に載る古社で昔は勝宿大明神と呼ばれていた。1000年の歴史をもつ神社である。中世以降、武将の崇敬が厚く、1565(永禄8)年には、武田高信、田公高清、矢田幸佐などが社殿を造営。また、1580(天正8)年には吉川元春が戦勝を祈念して社領を寄進している。この祈りの元春の祈願状と寄進状は県の文化財に指定されている。」
鳥取市鹿野町寺内152
map

参道

一の鳥居

神橋

二の鳥居

手水舎



随神門

拝殿



本殿





末社、東照宮荒神・若宮聖明神

勝宿稲荷神社




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金持神社

2021-12-23 23:41:01 | 鳥取
2021年12月23日、お参りしました。
説明書より「社伝によると、出雲国薗妙見宮(長浜神社)から勧請されたといわれています。勧請された年代は不明です。維新後に現社名に改称されました。『金持(かもち)』という景気のよい地名は、タタラか鍛冶に係わるカヌチ・カナシの語から出た地名だろうといわれています。また、『太平記』に登場する金持景藤をはじめ、『吾妻鏡』『愚管抄』『大山寺縁起』などに名が出る金持氏の本拠地であったと思われます。また、戦いに勝利し後醍醐天皇が京へ遷幸の折には、天皇の左側で錦の御旗を掲げ上洛しました。その時、この金持神社へと立ち寄られ、聖運萬安の祈願をかけ給われたと伝えられています。」
鳥取県日野郡日野町金持1490
map
手水舎



狛犬

鳥居



参道の階段







社務所

拝殿





本殿

指画「龍神之図」
「当時、日野町根雨出身の濱田珠鳳さんにより平成15年8月吉日奉納されました。中国、唐代から伝わる珍しい画法で、筆を一切使わず、手・指・爪などで描き日本では唯一の指画画家です。50歳の折、中国に留学し、著名な画家達から花鳥風月を学び、これまで伊勢神社をはじめ、奈良・三輪明神、近くでは大山・大神山神社など多くの神社二『龍」を奉納されております。」



金持礫岩
「礫岩は様々な種類の石が礫として集合し、堆積することにより岩石となったものです。含まれる礫の一つ一つを詳しく調べると、地球の永い歴史を読み取ることができます。金持礫岩は、ここ金持地区に少量その分布が認められ、中生代白亜紀(今からおよそ1億年前、まだ恐竜がいたころ)にできたと考えられています。しかし、この岩石には、それよりも古い時代の花崗岩や変成岩などの岩石が礫として存在し、礫以外の部分(基質)を火山性の物質が占めていることから、火山活動によってできたと考えられています。地質学的にはまだまだ謎に満ちている貴重な岩石です。」



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大神山神社(米子市)

2020-06-04 15:04:08 | 鳥取
2020年6月3日、お参りしました。
由緒書より「1000年前の延喜式に宗形神社とともにその名が残っている格式高い古社。社殿は、岸本町丸山から福万原を経て、江戸時代に尾高に移されたという。神社には、津和野城主亀井氏が奉納した備州長船住兼光の銘がある長さ24.8cmの短刀が伝わり、国の重要文化財で、東京国立博物館に寄託されている。境内入口の大灯籠は、会見郡内西伯耆の有志が献納したものである。参道の横にはハナショウブ園があり、6月中旬が見どころとなる。大山寺の大智明権現は、明治の神仏分離の結果大神山神社の奥宮と定められた。」
鳥取県米子市尾高1025
map
鳥居

参道

狛犬



石灯籠



手水舎

社務所

神門





境内

拝殿

扁額
「この社号がくは最後の鳥取藩主であった池田慶徳公の書である。慶徳公は徳川15代将軍慶喜公の兄であり、水戸藩主徳川斉昭公の子息で鳥取池田家に入られた。この額の揮毫の年代は不明であるが署名から推察すると明治5年当神社が国弊社に列せられ、初代宮司に旧米子城主の、荒尾成章が任じられて居るのでその時代かと思われる。」



狛犬







本殿



神輿舎

大山奥宮下山神社遥拝所

朝宮神社



境内のアジサイ








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

粟嶋神社(米子市)

2020-06-04 14:27:45 | 鳥取
2020年6月3日、お参りしました。
由緒書より「御祭神は、少彦名命(大己貴命・神功皇后)、当神社の創建年代は不明だが、古代より神の宿る山(神奈備)としての信仰があり、神功皇后、後醍醐天皇御祈願の伝承、尼子氏の寄進、米子城主代々の崇敬等も記録に残る。長い伝承と歴史をもった社である。山頂の御社殿は1936年(昭和11年)再建のものであり、総台湾桧造りで屋根は銅板葺き、弓浜地方随一を誇る。御祭神の少彦名命は、神代の昔、大己貴命(大国主命)と共にこの国をひらき、人々に医療の法を教え、禁厭の術を授け、万病よりお救いになった神であり、その尊い御神徳は古事記、日本書紀に記されている通りである。後に常世の国に御渡りになったその最後の地がこの粟嶋である。」
鳥取県米子市彦名町1405
map
粟嶋神社の歴史
「古代、粟島は中海に浮かぶ島だった。神が宿る山、神体山として山全体が信仰された。200年頃、神功皇后三韓征討の時、産月に当たり、粟嶋神社に使者を遣わして安産を御祈願された。帰路、皇子ご誕生(応神天皇)のお礼として母子人形(母子雛)が奉納された。733年出雲国風土記に、『粟島にシイ、マツ、モチなどの樹木が生い茂っている』と出ている。伯耆国風土記の逸文にも記載がある。750年粟島りまわりに人々が住み始める。1331年、粟嶋神社は、小さな社殿ができた。1520年尼子経久が弓浜半島一帯で毛利軍と戦った時、粟嶋神社が焼失した。1524年尼子経久が粟嶋神社の社殿を再建した。1607年米子城主中村一忠が粟嶋神社の社殿を再建した。又、25石7斗を寄進、更に粟島の一山竹木すべてを神領として寄進した。その後度々火災等があり、再建した。
粟嶋神社の自然と伝説

「粟嶋(米子市指定名勝)は標高36mの小山です。かつては中海に浮かぶ小島でしたが、江戸時代中頃、周辺の新田開発のため開拓され、地続きとなりました。山全体がご神体とされ、神殿は麓にあったといわれています。現在は187段の登りきった山頂に、銅板葺きの堂々とした社殿があり、少彦名命が祀られています。
 社叢(鳥取県指定天然記念物)となっているこの山の植生は、スタジイ、タブノキ、マチノキなどの高木、ヤブツバキ、カクレミノ、ネズミモチなどの中低木と樹種に富んでいます。中海側の斜面にみられるツヅ科のシャンシャンボは数多く群生し、うっそうとした独特の景観をつくりだしています。林床にはツワブキ、ベニシダ、テイカカズラなどの下草が群生しています。この地方では数少ない天然の照葉樹林です。
 粟嶋神社に隣接した彦名開拓地は、日本有数の野鳥生息地です。コハクチョウの集団越冬地の世界南現地であり、絶滅の可能性もあるものも含め、多くの珍しい野鳥の宝庫となっています。
 中海も含めた粟嶋の風景の美しさは今も昔も変わりません。江戸時代文政年間にうたわれた米子八景のなかで粟嶋は、『粟嶋秋月』として、『うき雲をはらひし風邪をあは島のしまにのこして月ぞすみける』と詠まれています。」
「米子」の地名発祥伝承の地
「昔、粟嶋村に住む長者には、長い間子どもがいませんでした。88歳になったとき初めて子どもを授かり、その子孫はたいそう繁栄したといいます。そこで縁起のいい『八十八の子』にちなんで『米子』の地名がついたという言い伝えがあります。」
八百比丘尼の伝説
「山麓の西側に『静の岩屋』とよばれる洞穴があります。むかし、このあたりの猟師の集まりで出た珍しい肉を、一人の娘が食べてしまいました。それは不老不死になるという人魚の肉でした。年をとらなくなってしまった娘は世をはかなみ、尼さんとなって800歳で亡くなるまで、この洞穴の中ですごしたという話が伝わっています。」
鳥居

「粟嶋は『伯耆国風土記』逸文にも記載されている島で、『出雲国風土記』意宇郡条にも『北の入海「(中海及び宍道湖)』に面すると記され、中海に浮かぶ小島でした。
 特に、宝暦年間(1751年~1764年)に後藤治部左衛門は、砂山を崩し、米川を利用し用水へ流して中海を埋め立て,新田化する『流し新田』を中心に、沿岸部に大規模な新田造成を行いました。
 この開発により海岸線は海側に前進し、粟島は陸続きとなりました。
 粟嶋神社に向かう『一の鳥居』は、もともとは、内浜街道から粟島に向かう道の起点あたりにあったといわれ、一の鳥居から粟島までは渡し舟で往来が行われ、舟渡し賃が『三文』であったので『三文渡し』と呼ばれていました。
 江戸時代中期の新田開発で鳥居と粟島に向かう道をまたぐように立っていました。
 その後、1965年(昭和40年)頃に道路幅の拡張工事により大部分が撤去され一部(鳥居の西側片方の柱半分の基部)が記念として残されていましたが、2016年(平成28年)に交通の妨げになるため撤去され粟嶋神社の境内に移設されたものです。
 なお、鳥居のあった位置を現地に表示しています。この鳥居は、江戸時代の弓ヶ浜の様子や先人たちの新田開発の歴史を物語っています。」

社標

石碑



石灯籠

手水舎

社務所

狛犬



二の鳥居

御祈祷所



参道、187段の階段





石灯籠

神門

御神像



伊勢神宮遥拝所

神輿舎

拝殿



狛犬





石灯籠、ねずみと兎の彫刻が施されています。









本殿



出雲大社遥拝所







豊受宮





御岩宮祠


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

湊山公園~米子城跡~寺町散策

2019-12-05 16:25:46 | 鳥取
2019年12月4日、皆生温泉のグランドホテル天水に宿泊し、米子市内を散策しました。湊山公園を基点に米子城跡、笑い通り、寺町と反時計回りに散策しました。
湊山公園
map
日本庭園









昆虫モニュメント



近辺地図

皇太子御手植松



米伝説









遊具広場





猿が島

















桜の園





米子城跡(国指定史跡)
『近世城郭としての米子城は、戦国時代末期の1591年(天正19)頃、吉川広家が湊山を中心に築城したのが始まりといわれています。1600年(慶長5)の関ケ原の戦いの後、広家は岩国に転封となり、代わりに駿河から入った伯耆18万石の領主中村一忠によって1602年(慶長7)頃完成しました。
 中海に張り出した標高約90mの湊山頂上の天守を中心とする本丸に、北の内膳丸、東の飯山を出丸として配して、湊山ふもとの二の丸には領主の館を、その下には三の丸には作業場、米蔵、馬小屋などを建て、これらを中海から水を引き込んだ二重の堀で囲みました。さらに中海側の深浦には水軍用の御船手郭を築き、内堀と外堀の間には侍屋敷が並びました。当時の米子城は、五重の天守閣と四重の副天守閣(四重櫓)を持ち、「山陰随一の名城」とも称される壮麗な城であったと言われています。
 中村氏の後、加藤貞泰、池田由之と城主がかわり、1632年(寛永9)からは、鳥取藩主席家老の荒尾成利が米子城預かりとなり、以降十一代にわたって荒尾氏が管理しました。
 明治維新の後に城は払い下げられ、建物は取り壊されましたが、石垣などは現在も往時の姿をよくとどめており、天守跡から秀峰大山、日本海、市街地、中海などが一望できます。この湊山の大半は、市内の素封家坂口平兵衛意誠氏から寄贈を受けたものです。』
 

登り口

























内膳丸











本丸へ







二の丸跡





番所跡





遠見櫓跡







水手御門跡









鉄御門跡



下山します。
城山弘法大師
「この修行姿の弘法大師像を起点として、城山の中腹を一周するコースに、石仏200余体、「八十八ケ所の札所」がつくられている。ことの起こりは、灘町の住人が四国遍路により眼病が治ったということで、遍路を体験した数人の世話人とともに、開創したものである。」













米子市立山陰歴史館(米子市有形文化財)
「1930年(昭和5)に建築、鉄筋コンクリート3階建」

高島屋米子店

咲い地蔵(わらいじぞう)
「地域の人たちの幸福を願ってまつられています。」

加茂川に鴨

川守地蔵
「水害から町を守る地蔵様、江戸時代、この場所は深く渦を巻き、ここで泳いでいた子ども達がよく溺れて亡くなりました。その供養と子ども達の安全を願って、鹿島家が地蔵様を建立されました。また、同時に、ザクロの木が魔除けとして、安産と幼児を守る木として植えられました。」

凉善寺
「1600年(慶長5)に米子城初代城主中村伯耆守一忠の入国により、その妻の大賓院珠慶夫人が開基となり現在の岩倉町に1602年頃当寺を建立されました。」





本教寺
「日蓮宗の寺院で、1573年‐1592年頃(天正年間)頃米子城城主古曳吉種が母の追善供養のために米子城城内に建立した仏堂浄昌寺が起源と云う。米子城を築城した古曳長門守吉種の墓所がある。」









与太郎地蔵

福厳院、曹洞宗の寺院













瑞仙寺、曹洞宗の寺院













安国寺
「山号は万寿山、曹洞宗の寺院で、足利尊氏開基、1338~42年頃開創された。瑞翁玄鋭により1500年代末中興。伯耆安国寺は、現在の伯耆町大殿に白鳳時代に開創された大寺を安国寺とた。」









妙善寺、日蓮宗の寺院





妙興寺
「1546年(永禄7)開山の瑞応院日逞により普平山菩提樹院妙興寺が創建された。米子城執政家老横田内膳正村詮の墓所がある。」









実成寺、日蓮宗の寺院








法蔵寺、曹洞宗の寺院





心光寺
「寺伝によると、もと会見郡尾高村にあったものを中村一忠が米子城主の時に、その浄財をもって現在の位置に移ったと伝えられている。その後、江戸時代に入り火災のために焼失し、1751~1761年(宝暦年間)に再建されたといわれる。浄土宗の寺院」







萬福寺、真宗大谷派寺院





後藤家(重要文化財)
「1724年(正徳4)頃の建立とみられる。後藤家は、鳥取藩の海運の中心地米子で代々回船問屋を営んでいた。主屋は切妻造、本瓦及び桟瓦葺き、一部2階建て。北東の角地に建ち、主屋の東正面と北側面は直接道路に面している。」


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三朝温泉街散策

2019-10-23 20:26:51 | 鳥取
2019年10月22日、ホテル清流荘を利用し、温泉街を散策しました。
三朝川

万翠楼

三朝川

「碩湯(かわらゆ)の脱ぎたるものに時雨傘 木國(もっこく)」1938年ごろ、木國は、毎年のように湯治のために、三朝温泉に訪れていました。そのころに、河原風呂の情景を詠った句です。

盛田統顕彰碑



カワガラス



ブランナールみささ





恋谷橋



三朝川

松之屋

温泉本通り



カエル人形館





















藤井酒店



写真館











旅館中屋

旬彩の宿いわゆ

薬師の湯

薬師堂

杖なし地蔵



旅館梅屋

































石仏様





かじか橋









三朝館

交番

旅館大橋



桶屋旅館

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名和神社・住雲寺(藤の寺)

2019-05-02 21:33:46 | 鳥取
2019年5月1日、お参りしました。
名和神社
説明書より「建武の忠臣名和長年公はじめ、一族42名をまつる神社。元弘3年(1333)、長年公は隠岐島に流されていた後醍醐天皇の脱出を助け、天皇を船上山に迎え鎌倉幕府軍を破った。後醍醐天皇は、この年、鎌倉幕府を倒し、天皇親政を復活(建武の新政)、長年公はこの新政権で重用された。現在の社殿は昭和10年(1935)に完成。建築界の重鎮伊藤忠太の指導のもと、明治神宮を造営した角南隆が手がけた。本殿から日本海を望むと、海を越え一直線上に後醍醐天皇隠岐行在所がある。また、境内は名和公の米倉があった所で、合戦の折これを焼き払ったため、神社の裏から今でも焼き米が出てくる。」
鳥取県西伯郡大山町名和556
map













鳥居

参道











拝殿









本殿









住雲寺
『住雲寺の正式名称は、仏通山住雲寺で、今から約600年前、この地にゆかりの後醍醐天皇や名和長年などが活躍した南北朝時代の建武元年(1334年)に建立され、本尊は聖観世音菩薩です。別名「ふじ寺」と呼ばれ、境内には樹齢約50年の藤の大木が全部で4本あり、花の房が六尺(1.8m)まで垂れ下がる「六尺フジ」という品種は日本各地で数カ所しか存在しない貴重なものだと言われています。』
鳥取県西伯郡大山町古御堂513
map




























コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする