旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

萩温泉・萩本陣

2016-07-15 19:52:53 | 温泉、旅館、ホテル
2016年7月10日、萩本陣に泊まりました。9日は岩国、柳井の町並み、山口市内、10日は朝から1日萩市内観光でした。萩本陣はJR東萩駅の東500m程の松陰神社の少し北側の小高い丘に位置しています。宿泊プランは、【一押し!SP】◆館内利用券1000円分付◆新緑の息吹とともに旅ごころも芽吹いてきた方へ♪本丸和室です。部屋条件:本丸 和室10帖◆ 10.00畳+踏込み。9980円/人です。
5本の源泉を有しており、内湯、露天風呂、サウナ風呂、寝風呂、立風呂、壺風呂、薬草湯など7つの湯船を楽しめます。アルカリ性低張性高温泉です。
山口県萩市椿東385-8
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外観

フロント

ロビー



売店



廊下



お風呂の休憩室





エレベーターホール

室内

10畳と縁

おもてなし、萩利休・おいでませ・ちびきゅう

窓からの景色、萩の町です。



夕食です。ダイニング会場です。





おしながき

前菜、旬の味覚盛り

ひじき麺

むつみ豚陶板焼き

造り

長州鶏ハリハリ鍋

蓋物、帆立茶巾包み、お椀も素敵です。

揚物、ふぐ唐揚げ

茶碗蒸し

もずく赤出汁

なめらかプリン

バラも御馳走です。

部屋からの夜景

朝食はバイキング形式です。パン食中心にしました。和食の品物も結構あります。

リーズナブルな料金で、お風呂を楽しめて、景色も良くて、料理もおいしく頂きました。部屋もよくて、スタッフの応対もいいです。又、泊まりたいホテルです。
11日、津和野によって神戸に帰ります。
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萩、常念寺・野山獄跡と岩倉獄跡・笠山展望台・風穴

2016-07-15 19:10:17 | 山口
2016年7月10日、萩観光に行きました。16時前になりましたので、ホテル到着の時間調整を含め、常念寺と笠山展望台に行きました。
まずは常念寺です。
途中に野山獄跡がありました。
野山獄跡と岩倉獄跡
「正保2年(1645)9月17日、酒に酔った大組藩士・岩倉孫兵衛が、道ひとつ隔てた西隣りの同じく大組藩士・野山六右衛門の屋敷に斬り込み、家族を殺傷するという事件が起こった。藩は野山宅に岩倉を幽閉し、後に斬首の刑に処したが、喧嘩両成敗ということで両家は取り潰し、屋敷は没収された。後に藩は両家跡を牢獄とし、切り込んだ岩倉に非があるので、士分の者を収容する上牢を野山獄、庶民を収容する下牢を岩倉獄とした。」



見取り図





常念寺
「天文元年(1532)、開山酉阿、安部家貞(吉見家の家臣)を開基として建立され、安部氏の法名常念をとって寺号としました。」
山口県萩市下五間町17
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表門(重要文化財)
「桃山時代(1573-1614)建立、四脚門、切妻造、両袖潜戸付、本瓦葺です。」





本堂









笠山































風穴、笠山の麓の明神池のところにあります。
「外気温が28度くらいですが、岩穴から出てくる風は15度ということで、その附近はひんやりとしており、近づけは穴から冷気が出ています。天然のクーラーです。」



説明書

隙間から冷気です。



厳島神社







明神池は海と繋がっているので、海の魚が泳いでいます。













ここからも冷気が出ています。

ここで萩観光の1日を終え、ホテル萩本陣に向かいます。
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萩の城下町、旧久保田家住宅・菊屋家住宅・木戸孝充旧宅・青木周弼旧宅             

2016-07-15 19:06:37 | 山口
2016年7月10日、萩観光です。堀内地区から外堀を通り、東側の城下町に進みます。
旧久保田家住宅(萩市指定有形文化財)
『旧久保田家は、旧御成道(参勤交代の際、大名行列が往来したメインストリート)沿いに位置し、幕末から明治時代前期にかけて建築された町家です。久保田家は、初代庄七が江戸時代後期に近江から萩に移って呉服商を開き、2代目の庄次郎から酒造業に転じたと伝えられています。以来明治30年代まで造り酒屋「あらたま酒店」を営業していました。明治時代には、来萩した名士の宿所としてもしばしば利用されています。』
萩市呉服町1丁目31-5
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菊屋家住宅(重要文化財)
「江戸中期の601-1700頃建築、萩藩御用の豪商の家。主屋はかなり改造されているが、全国でも最古に属する大型の町家としてきわめて貴重である。主屋は、桁行13.0m、梁間14.9m、切妻造、北面庇、東面庇及び突出部、南面庇附属、南面突出部 桁行6.7m、梁間7.1m、切妻造、桟瓦葺である。」





































城下町説明書

木戸孝充旧宅(国指定史跡)
「この旧宅は、木戸孝充(桂小五郎)の実父、和田昌景の家です。木戸孝充は天保4年(1833)この家に生まれ、8歳の時に近畿の桂家に養子にいって桂小五郎と名乗りましたが、生まれてから嘉永5年(1852)に江戸に出るまでの約20年間をこの家で過ごしています。その後、大正15年(1926)に子孫の木戸幸一氏より当時の萩町に寄贈されたもので、旧宅は桟瓦葺ニ階建です。木戸孝充が誕生した部屋や庭園など、当時の姿をよく残していたため、昭和7年(1932)に国の史跡として指定されました。」



















































青木周弼旧宅(国指定史跡)
「青木周弼は幕末当時、日本屈指の蘭学者でした。彼のもとには全国から学生が多く集まるようになったため家敷地を安政6年(1859)頃、現在の場所に移転しました。以前住んでいた背中合わせの土地には弟の研蔵が住み、学生たちが寄宿していました。この建物は、江戸屋横町に面した表門・仲間部屋、主屋と土蔵からなります。主屋は来客用の部分と内向き(日常生活の場)とに分かれています。玄関からまっすぐ繋がる南向きの8畳の座敷は来客用です。座敷の北側に6畳の間は、家の主人の内向きの座敷です。さらに北側には台所もあります。また、西側には便所がありますが元々は別棟だったと考えられています。仲間部屋は青木家の家来が住んでいたと考えられます。3畳と4畳半の2室があり、これに勝手が付いています。土蔵の床下からは約1200枚の1分銀が発見されました。」



























再び通りに





晋作広場

晋作像





田中義一誕生地の石碑



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萩の堀内地区、旧周布家長屋門・旧繁沢家長屋門・北の総門

2016-07-15 19:04:21 | 山口
2016年7月10日、萩の外廻りを観光しいよいよ萩城下町周辺です。まずは菊ケ浜海水浴場の無料駐車場に自動車を止めます。日曜日ということで、地元の家族連れが止めていますので満車状態です。
案内図

萩市堀内地区の重要伝統的建造物群保存地区の看板

「堀内地区は慶長13年に毛利輝元が指月山に築城した萩城三の丸にあたるほぼ全域で、藩の諸役所と毛利一門をはじめとする大身の侍屋敷が建ち並んでいます。近世城下町の侍屋敷としての地割をよく残し、土塀越しにみえる夏蜜柑とともに歴史的風致を形成しています。」
旧周布家長屋門(萩市指定有形文化財)
「周布家は、萩藩永代家老益田家の庶流で、石見国周布郷の地頭職として周布村に住し、周布を氏としたことから始まる。藩政時代は大組士の筆頭として1,530石余の知行地を長門市渋木に領していた。この長屋門は同家萩屋敷の表門で、平屋建本瓦葺き、東西の桁行24.91m、東端から北に折れ曲がった部分の桁行11.2m、梁間3.96mの道路に沿った長い建物である。中央から東寄りの所に、2.46m幅の門を構えて開き扉を設けている。建物の外観は腰部を下見板張りとし、基礎に見事な切石積があり、上部は白漆喰大壁造である。江戸中期の代表的な武家屋敷長屋の様式を残している。」



















旧繁沢家長屋門(伝統的建造物)
「繁沢家は阿川毛利家(7,391石余)の分家で萩藩寄組(1,094石余)に属し、給領地を大津郡三隅村(現在の長門市)と阿武郡小川村(現在の萩市)などに持っていた。建物は桟瓦葺切妻造、桁行35.5m、梁間4.9m、中央から左寄りに門を開けている。同家藩政初期の当主繁沢就充は藩要職として活躍していた。」







旧益田家物見矢倉(伝統的建造物)
「益田家は、阿武郡須佐(現在の萩市須佐)に領地を持っていた萩藩の永代家老である。幕末の当主親施は、13代藩主毛利敬親を助け藩政改革を行ったが、元治元年(1864)、禁門の変の責任者として切腹させられた。高い石積の上につくられた矢倉(武器などをいれた倉)は長さ11m、奥行約5mの平屋建てで、この矢倉の前面に広がっていた馬場の見張りに使われていたと言われている。」









北の総門(複元)
『北の総門は、三の丸(堀内)の入口である総門の一つです。総門は北、中、平安古の3か所があり、あわせて「大手三つの門」と呼ばれていました。昼間は門番が常駐して出入りする者を監視し、夜は門を閉じて鑑札を持った者しか通れませんでした。元文年間(1739-40)の絵図によると、北・中の総門の前に、新たに枡形と南北の船着場が描かれています。枡形と土橋には土塀が巡り、船着場に続く箇所は食い違いになっています。この時期に北・中の総門周辺が再整備されたことがうかがえます。』



















外堀から城下町に進みます。
田中義一銅像





通りです。













駐車場にもどります。
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萩、鍵曲・旧田中別邸

2016-07-15 19:00:28 | 山口
2016年7月10日、萩観光です。萩駅舎、大照院をお参りした後に来ました。
重要伝統的建造物群保存地区の平安古地区にある旧田中別邸に向かいます。
「平安古地区は、橋本川に沿った東西約150m、南北300mの範囲約4.0haで、藩政期の地割をよく残しています。藩政時代、武士のうち重臣の多くは三の丸である堀内に住んでいましたが、平安古、江向、土原への開墾が進むに並行して数多くの武士が屋敷地を構えていきました。平安古には毛利一門の下屋敷をはじめ大身武士、中級武士の屋敷が建ち並んでいました。この地区も明治時代以降主屋が取り壊され、土塀のみが藩政期の姿を残すところが多い中、旧田中別邸の北隣に位置する坪井九右衛門旧宅は主屋のほか長屋門、土塀などを残しており当時の屋敷構えをうかがうことができます。」
鍵曲(かいまがり)
「道を鍵の手に曲げた城下町特有の街路です。」
自動車で通りましたが、非常に狭く、対向車が来ればバックして譲らないと通れません。
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旧田中別邸(伝統的建造物)
「敷地は藩政時代の毛利筑前下屋敷(石高約16,000石)に当たります。明治以降は萩に夏みかんの栽培を広めた小幡高政により、現在の主要建物の骨格が完成されたと考えられています。その後大正後半からは総理大臣を務めた田中義一の所有となり主屋の増改築が行われ、文部大臣などを歴任した田中龍夫の没後、遺族により平成10年5月23日付けで萩市が土地と建物の寄贈を受けました。構造は主屋は南側より平屋部、茶室部、五松閣と繋がる。平屋部は桁行8.0m、梁間9.9m、入母屋造、西面に座敷部突出、桁行3.0m、梁間4.9m、桟瓦葺、東面に便所棟附属。茶室部は、桁行8.0m、梁間4.9m、切妻造、桟瓦葺。五松閣は、桁行13.1m、梁間7.1m、一部ニ階建て、入母屋造、桟瓦葺、東西に浴室・便所附属。土蔵は、桁行5.8m、梁間3.9m、二階建、切妻造、西面庇付、桟瓦葺。」
萩市平安古164
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炊き場の天井

























橋本川より船が入れるようになっています。







五松閣



































自動車で移動し、萩城下町周辺に向かいます。菊ケ浜海水浴場駐車場に止めます。
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萩、萩駅舎・大照院

2016-07-15 18:59:59 | 山口
2016年7月10日、萩に来ました。松陰神社を起点に時計回りに、伊藤博文旧宅、東光寺、桂太郎旧宅、旧湯川家屋敷と見て、萩駅に着きました。
萩駅舎(登録有形文化財)
「国鉄美祢線(現在は山陰本線)の開通にともない建設された駅舎で、大正14年(1925)建築、木造平屋建、スレート葺、建築面積403㎡です。欄間を持つ上下窓、入口ポーチ、棟先を落とした切妻屋根等に洋風の意匠をもつ点に特徴があります。現存する数少ない鉄道開通時の駅舎で、地方の発展を紹介する上で存在が引用される建造物です。」
山口県萩市椿3537-3
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大照院
「臨済宗南禅寺派の寺院です。昔この椿郷には寺の裏山に大樹がありました。延暦年間(782-805)この地に月輪山観音寺というお寺がありました。その後建武の頃(1334-1335)鎌倉建長寺の義翁和尚が。この観音寺に来て、大椿山歓喜寺と改め、臨済宗を伝えました。しかし戦乱の世を経て荒れはてていました。毛利元就の時は山陽、山陰の10ケ国(長門・周防・石見・安芸・備後・備中・出雲・伯耆・因幡・隠岐)を制していましたが、毛利輝元が関ヶ原の戦で豊臣氏の味方をしたばかりに防長2国に押しこめられ、又石高も120万石から36万9千石に減らされました。又城も広島から萩に移されました。萩城は慶長9年(1604)築城4年間で出来上がりました。以後文久3年(1863)山口に藩庁が移るまで13代の藩主を数えました。毛利輝元は慶長5年(1600)10月10日の関ヶ原の乱の責任をとって隠居して、その子秀就がわずか6才で家督をつぎました。ですから秀就が萩藩藩主初代となります。萩藩初代藩主秀就は慶安4年(1651)萩城において57才で亡くなりました。そして大樹院で火葬されたあと歓喜寺に葬られました。2代藩主毛利綱広は亡父の為に、承応3年(1654)春からこの寺の改築を始められ、明暦2年(1656)に観光しました。そして秀就の法号にちなんで、大照院と名づけられましたが、山号が大椿山大照院では大の字が重なるので、霊椿山大照院としました。延享4年(1747)火災にあって全焼し現在の建物は寛延3年(1750)6代藩主宗広が再建したものです。開山は言如円尊和尚です。この寺には7代藩主夫婦の墓があり、重臣やゆかりの深い人々が献上した603基の燈籠が参道に並んでいます。」
拝観料は200円です。29年度春まで本堂の修理のため、拝観はできません。
萩市椿4132
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参道

石橋



鐘楼門(重要文化財)
「寛延3年(1750)建立、三間一戸二階二重門、入母屋造、桟瓦葺です。」





庫裏(重要文化財)
「寛延3年(1750)頃建立、桁行18.1m、梁間18.0m、一重、切妻造、妻入、南面・西面下屋付、東面庇・南面渡廊下及び便所・北面庇・西面便所各附属、本瓦及び桟瓦葺、東面突出部 桁行4.0m、梁間4.0m、入母屋造、桟瓦葺。萩で一番大きな庫裏です。」









書院(重要文化財)
「寛延3年(1750)頃建立、桁行21.9m、梁間22.7m、一重、丁字形東面入母屋造、西面寄棟造、北面切妻造、西面北端便所附属、南面東端廊下附属、桟瓦葺。」





本堂は修理中のため拝観はできません。





毛利家墓所(国指定史跡)













次は玉江橋を渡って、
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萩の藍場川沿いの旧湯河家屋敷と桂太郎旧宅

2016-07-15 18:51:31 | 山口
2016年7月10日、松陰神社、東光寺の後、自動車で移動し藍場川の最上流に位置する旧湯川家屋敷と桂太郎旧宅に向かいます。
駐車場の案内図

桂太郎旧宅(萩市指定史跡)
萩市川島73-2
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「この旧宅は、桂太郎が少年時代を過ごした地に、明治42年(1909)に建設されたものです。主屋は派手さを抑えており、規模も比較的小さなものになっていて、藍場川沿いの生活を穏やかに楽しむために造られています。また、藍場川の水を引き込んだ流水式池泉庭園は、建物にやや遅れて造作されたもので、懸石と呼ばれる萩地方独特の石組等に特徴があります。」
桂太郎略歴
「桂太郎は弘化4年(1847)11月28日、萩藩士桂興一右衛門の長男として萩城下平安古に生まれ、3歳のときに同じ城下の川島に移り住みました。幕末期の四境戦争では石州口の戦いに参加し、凱旋後は明倫館に入学しています。明治3年(1871)にドイツへ留学、普仏戦争(フランスとドイツの戦争)におけるドイツの圧倒的な勝利を見て、帰国後は日本の陸軍をそれまでのフランス式からドイツ式に改め、軍隊の近代化に貢献しました。陸軍大将、陸軍大臣を経て明治34年(1901)に第一次桂内閣を組織し、翌35年(1902)には日英同盟の締結に成功しました。」
石橋のところに鯉が泳いでいました。









看板



旧宅の概要











水琴窟

銅像

庭園





略歴

旧湯川家屋敷(萩市指定史跡)
桂太郎旧宅と数十mの位置にあります。
山口県萩市川島67
説明書

看板



「川沿いには長屋門があり屋敷の中へは、橋を渡って入ります。主屋には、玄関・座敷と茶室などがあります。茶室回りの意匠は特に優れています。また、この屋敷では、藍場川の水を屋敷内に引き入れて流水式の池水庭園をつくり、池を出た水は家の中に作られた「ハトバ」で家庭用水として使われた後、再び藍場川に戻っていきます。湯川家の建物は、正確にはいつ建てられたのかわかっていませんが、湯川家の古文書の中に、明治3年(1870)に建物を改築した記録が残っていますので、当初の建物は明治以前に建てられたものと考えられます。湯川家は禄高23石余の武士で、遅くとも明治の初めにはこの建物に居住していたものと思われます。」
離れ・2畳



井戸

主屋







庭園

台所のハトバ





外側から

玄関の門

藍場川と風呂場のハトバ、外側





藍場川の説明書

石橋

歌碑

鯉が泳いでいました。

萩焼直売所





次は萩駅舎と大照院に向かいます。
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萩・東光寺

2016-07-15 18:46:27 | 山口
2016年7月10日、東光寺にお参りしました。
「黄檗宗の寺院で、山号を護国山という。元禄4年(1691)萩藩三代藩主毛利吉就が建立しました。吉就は若くして深く黄檗宗に帰依して、京都府宇治市、本山黄檗宗万福寺に範を求めて広壮な堂宇を建立し、萩出身の高僧慧極道明禅師を開山に迎えました。吉就の死後ここに墓所を営み、毛利氏菩提寺となりました。黄檗三叢林の随一と称せられ、文化年間の最盛時には全山塔40棟を数えた。」
拝観料は300円です。
山口県萩市椿東1647
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総門(重要文化財)
「江戸中期の元禄6年(1693)建立、桁行三間、梁間二間、一重、切妻造段違、本瓦葺です。」







三門(重要文化財)
「江戸後期の文化9年(1812)建立、三間三戸二階二重門、入母屋造、本瓦葺、両山廊付、山廊 各桁行二間、梁間二間、切妻造、本瓦葺です。」

















参道

月台

大雄宝殿(重要文化財)
「江戸中期の元禄11年(1698)に建立、桁行正面五間、背面三間、梁間四間、一重もこし付、入母屋造、本瓦葺です。」

















鐘楼(重要文化財)
「江戸中期の元禄9年(1696)頃の建立、桁行三間、梁間一間、一重二階もこし付、入母屋造、本瓦葺、もこし桟瓦葺です。」



庫裏

魚鼓

大方丈玄関

大方丈



書院玄関

四大夫十一烈士の墓
「元治元年(1864)に勃発した禁門の変の際、幕府に謝罪の為、徳山で自刃した益田右衛門介、国司信濃、岩国で自刃した福原越後等三家老、反対派の為、萩野山獄で処刑せられた竹内正兵衛、中村九郎、佐久間左兵衛、宍戸左馬介、前田孫右衛門、毛利澄人、山田亦介、渡辺内蔵太、楢崎弥八郎、大和国之助、松島剛蔵等十一烈士、俗論党の為萩で自刃を命じられた清水清太郎、又幕府の萩藩征討の起因の責を感じ山口で自刃した周布政之助等、身を以て難に殉じた藩士の為、明治29年(1896)に建てられた慰霊墓所であります。」



次は旧湯川家屋敷に向かいます。
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萩の松陰神社エリア、松陰神社・松下村塾・吉田松陰幽因の旧宅・伊藤博文旧宅

2016-07-15 18:40:28 | 山口
2016年7月10日、山口市の湯田温泉から約1時間、自動車で走りJR東萩駅構内にある観光案内所で、mapと観光のポイントの説明を聞きました。
当初は、萩循環バスで乗り継ぎしながら回る予定でしたが、萩観光案内図での青色のPマークは無料とのことで、土日は市役所の駐車場も無料で使えます。ということで自動車で回ることにしました。そして、萩市公開文化財施設が1箇所100円で9箇所あり、1日券は310円なので購入しました。
まずは松陰神社の駐車場に向かいます。
松陰神社
山口県萩市椿東1537
map
鳥居

由緒書
「御祭神は吉田矩方命(松陰先生)、松陰先生のご実家、杉家の人々の手で松陰先生の御霊を祀る土蔵造りのほこらが建立されました。これが松陰神社の前身です。明治40年(1907)、松下村塾出身の伊藤博文や野村靖が中心となって、このほこらを公の神社として創建しようと、山口県に請願書が提出され、土蔵造りのほこらを松下村塾南隣に移して本殿としました。」





花月楼(山口県指定有形)
「この茶室花月楼は、萩藩七代藩主毛利重就が安永5年(1776)三田尻(防府市)の別邸内に建てたものである。藩政時代から萩に移していたが、昭和34年にここに移築された。花月楼形式の茶室は、江戸時代中期に考案された花月式の茶会を催すことができるように設計されたものです。」





松下村塾(国指定史跡)
「木造瓦葺き平屋建ての50㎡ほどの小舎で、8畳の講義室、10畳半のひかえの間、1坪の土間部分から成っています。松陰がこの塾で教えた期間はわずか1年に過ぎませんが、身分や階級にとらわれずに門下生として受け入れ、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、山田顕義、品川弥二郎ら、明治維新の原動力となった多くの逸材を育てました。」
松陰神社の境内内にあります。





吉田松陰幽因の旧宅(国指定史跡)
「この旧宅は、安政2年(1855)から数年の間、吉田松陰が幽因された家で、東側にある3畳半の1室が幽因室である。松陰は、伊豆下田でアメリカ軍艦による海外渡航に失敗し、江戸伝馬町の牢に捕らえられた。萩に送られ野山獄に入れられたが、その後、釈放され父杉百合之助預けとなり、幽因室に謹慎し読書と著述に専念した。そして、近親者や近隣の子弟たちに孟子や武教全書を講じた。」
松陰神社の境内内にあります。









松陰神社鳥居



拝殿

狛犬



本殿

説明書

松門神社
狛犬





明治9年萩の変七烈士殉難之地

売店





伊藤博文旧宅(国指定史跡)
松陰神社の100mほど南で、駐車場の南側から東に進み少し南のところににあります。
「伊藤博文旧宅は茅葺き平屋建てで、総建て坪29坪、附属建物として便所・風呂場があります。居宅客室の大きさは6畳1室、5畳半1室、4畳半1室、3畳3室、2畳1室、玄関土間です。この建物はもと萩藩の軽卒(中間)、水井武兵衛(伊藤直右衛門)の居宅でしたが、安政元年(1854)に博文の父十蔵が一家をあげて伊藤家に入家しました。その後、博文は17歳のとき吉田松陰の門に入って教育を受けました。志士としての活躍や英国への留学など、この家に安住するいとまもありませんでしたが、明治元年(1868)に兵庫県知事に就任するまでここが本拠でした。」











附伊藤博文別邸
「別邸は、伊藤博文公が明治40年(1907)に東京府下荏原郡大井村に建てたもので、車寄せを持つ玄関の奥に、中庭をはさんで向かって右に西洋館、左に書院を配し、さらにその奥に離れ座敷、台所、風呂及び蔵を備えた広大なものでありました。当地へは往時の面影を残す玄関、大広間、離れ座敷の3棟を移築しました。明治時代の宮大工伊藤満作の手によるもので、大広間廊下の鏡天井や離れ座敷の節天井など意匠に優れています。」















天井の照明がハイカラですね。







一枚ものの鏡天井







吉田稔麿生誕の地
「吉田稔麿は、天保12年(1841)、足軽の長男としてこの地に生まれた。松下村塾に入門し、高杉晋作らとともに松陰門下の四天王といわれた。吉田松陰の死後、尊王攘夷運動に参加し、屠勇隊(有志の部隊)を組織した。元治元年(1864)、京都三条の池田屋旅館で他藩の志士と会談中、新撰組に襲われ負傷し、24歳の若さで死去した。」





薩長士連合密議之處碑

次は東光寺にお参りします。
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