2022年10月29日、お参りしました。
「本山本圀寺第十六世日禎上人が信州松本に開いた本願寺がはじまりである。のちの明石藩主小笠原忠真の父秀政の生母延寿院が寺を建立した。1617(元和3)、忠真の明石転封で、城下町が建設された時、本源寺も一緒に移り、本立寺と称した。1945年の大空襲で山門を除いて悉く焼失した。梁田蛻巌(やなぎだぜいがん)の墓がある。1719(享保4)年、48歳で明石藩儒となり、没するまで定住した。江戸で生まれ、人見竹洞について儒学を学んだ。加賀藩(現石川県金沢市)、美濃国加納藩(現岐阜県岐阜市)の藩儒を務めたが、奔放で率直な性格が仕官に向かず致仕している。明石藩は彼を厚遇し、蛻巌自身の性格も次第に穏やかになって、1749(寛延元)年、78歳で退隠するまで藩儒の任務を務め上げた。」
兵庫県明石市日富美町6-8
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山門
本堂
鎮守社
「本山本圀寺第十六世日禎上人が信州松本に開いた本願寺がはじまりである。のちの明石藩主小笠原忠真の父秀政の生母延寿院が寺を建立した。1617(元和3)、忠真の明石転封で、城下町が建設された時、本源寺も一緒に移り、本立寺と称した。1945年の大空襲で山門を除いて悉く焼失した。梁田蛻巌(やなぎだぜいがん)の墓がある。1719(享保4)年、48歳で明石藩儒となり、没するまで定住した。江戸で生まれ、人見竹洞について儒学を学んだ。加賀藩(現石川県金沢市)、美濃国加納藩(現岐阜県岐阜市)の藩儒を務めたが、奔放で率直な性格が仕官に向かず致仕している。明石藩は彼を厚遇し、蛻巌自身の性格も次第に穏やかになって、1749(寛延元)年、78歳で退隠するまで藩儒の任務を務め上げた。」
兵庫県明石市日富美町6-8
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本堂
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